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《妄想実録風小説》サッポロ一番感動物語 サッポロ一番を作った男の涙の一代記! 【全編】
少年の命を救った奇跡のラーメン
戦後間もない頃であった。冬の北陸道の札付市の通りを一人の少年が歩いていた。この少年は北陸道の冬にはまるで似つかわしくない薄い生地の服を着ており、誰が見ても地元の子には見えなかった。道ゆく人もこの少年が気になって彼をチラチラと見、そのうちの誰かが心配のあまり声をかけようとしたが、少年はそれを避けて小走りで逃げたのだった。
この少年は北関東の田舎から家出して北陸道まで来た。彼の家出の原因は思春期の人間にありがちな人生への迷いであった。成金の息子として生まれそのせいでずっと地元の人間から嫌われていた。だから今まで友と呼べる人間は一人もいなかった。親は受験にうるさく、一流大学に受からなかったらチャーシューにしてやるとのたまうような毒親だった。明るい未来などはなく、このまま親の跡を継いで好きでもない女を押し付けられて不毛な人生を送るぐらいなら死んだほうがマシだと思って家を飛び出して北へと向かったのだった。
家を飛び出した少年は着の身着のまま裏表日本へと向かい、そこからさらに北へと進んだ。そして本州の最北端の青林にたどり着いた少年は北陸道へ運航する青函連絡船に乗って、ではなく本人が後に語った話によると海辺に浮いていた小舟に乗って渡ったという。この話の真偽は不明であるが今となっては本人含め関係者の殆どが亡くなっているのでもう確かめようがない。とにかく北陸道に着いた少年は自死への決意を胸に札付の街を彷徨いていたのであった。少年は先日玉川上水で心中した太宰治を思い浮かべた。無頼派作家太宰治の名は道端で拾った雑誌で知った。少年はそこに連載されていた太宰治の『人間失格』を読みたちまち彼に夢中になった。彼はこの小説の主人公に自分を重ねて現実に深く絶望したのだった。その『人間失格』を書き上げた太宰治は入水してこの世に別れを告げた。少年もまたこの雪国でこの世からオサラバしようとしている。
少年は雪の降る札付の街をこの世の見納めと思って歩き回った。あたりは純白の雪景色だ。この僕も死ねば全ての醜さから解放されてこの雪のように純白になれるのだろうか。そうして死のことを考えながら歩き回っていたらいつの間にか夜になっていた。少年はまだ降っている粉雪と肌を突き刺す空気にもう逝かねばならぬと思い最後の晩餐をしようと食堂が立ち並ぶ路地へと入ったのであった。
路地に入ってしばらく歩いていた少年はふとほんわかとした地元のそれよりももっと甘味のある味噌の香りを嗅いだのであった。少年は立ち止まり味噌の香りの出どころの店を見た。看板には『さっぽろらーめん壱番』と書かれていた。
少年は最後の晩餐はここで迎えようと決めた。彼はこのまるで母のような味噌を体に入れて死にたい。そう思ったのだ。しかし店に入る前に少年ははたと立ち止まった。田舎育ちの彼はラーメンなど一度も口にしたことはなかった。果たして自分の口に合うだろうか。満足に最後の晩餐を終えれるだろうか。だがと彼は店に向かって一歩足を進めた。こんないい味噌を使った料理が不味いわけがないきっと美味しいはずだ。最後の晩餐に相応しいものであるはずだ。少年は暖簾を潜って店に入ったのであった。
店に入った瞬間少年は味噌の母の温もりのような香りが全身を包むような錯覚に囚われた。カウンターの奥にいたオヤジはその少年を見て驚いた。少年が雪に覆われて真っ白になっていたからである。
「おい坊主どうしたんでい。お前さん真っ白白スケじゃねえか」
少年はびっくり顔のオヤジの問いにハッと胸元を見てコートにビッシリ雪がかぶっているのを見た。彼はすみませんと謝り踵を返して店から立ち去ろうとしたが、後ろからオヤジが声をかけてきたので立ち止まった。
「ちょい待ちな!今は店には俺っちと坊主しかいねえんだ。雪をはたきたいなら中でやんな。そこの隅っちょの拭きもんあるだろ?それ使っていいぜ」
このオヤジの江戸っ子のような気さくさに少年は動揺した。彼は幼い頃から成金の一人息子として恐れられ蔑まれてきた。皆が遠慮がちにしか声をかけて来なかった。皮肉にも死を前にして初めて人の温かさに触れるなんて。少年はオヤジに例をいうとすぐに雪をはたき始めたが、しかしすでに雪は殆ど溶けていた。さすがの雪もこの店の温かさには勝てなかったらしい。雪をはたき終わった少年はオヤジに拭きものを返したが、オヤジはカウンターの椅子を引いて少年を呼んだ。
「ここに座んな」
オヤジに促されて少年はカウンターの席に座った。彼はもしかしたらオヤジが自分の自死への決意を勘繰っているのではないかと思った。よく考えてみれば雪まみれのまんま街をフラついていた自分みたいな人間が怪しまれないわけがない。彼はオヤジを見て反応を伺った。しかしオヤジは彼に何も聞かずただこう言った。
「ラーメン食いに来たんだろ。何食べるんだい?」
「味噌ラーメンありますか?」
震えながらの問いであった。これが生前最後の晩餐。そう覚悟しての言葉だった。
「勿論ノ助よ!味噌は俺っちの大得意だい。今すぐ作ってやるから待ってろい!」
オヤジはこう言ってすぐラーメンを作り出した。少年はカウンターの向こうの厨房でラーメンを作っているオヤジを見て最後の晩餐をここで迎えられてよかったと思った。この遥離れた北陸道で生まれて初めて人の優しさに触れた。それだけでもう悔いはないと思った。その態度からオヤジは自分の死の決意に気づいていないようだ。ならばこのまま食べて立ち去れるだろう。心の中で深く感謝を述べと雪降る死地へと旅立ってゆこう。少年はそんなことを考えながら味噌ラーメンという彼の人生にとっての最後の晩餐を待った。
そしてとうとうオヤジが少年の前に最後の晩餐となる味噌ラーメンを置いた。少年は目の前に出された味噌ラーメンの香りの温かさに包まれて恍惚となった。ラーメンの上にはキャベツとじゃがいもを軽く炒めたものが乗せられ、さらにその上にとろりと溶けたバターが乗せられていた。少年はこれを見て故郷を思った。しかしそれは彼の住んでいる北関東の田舎ではなく、この北国のような心のふるさとであった。一通りラーメンを見た少年は恐る恐る箸で麺を挟んで、そして啜った。
一口啜った時に浮かんだのは札付の街であった。雪が降っているのになぜか温かく感じる。そんな光景であった。少年は味を確かめようともう一度啜った。するとよりはっきりと札付の人情あふれる街の光景が浮かんでくるではないか。ああ!なんてことだろう!このラーメンにはこれまで自分が味あった事のない肉親の愛情があるではないか。少年はこの愛情に溺れたくてさらにラーメンを啜ったのであった。啜れば啜るほどラーメンから愛情が込み上げてくる。なんだろう。この麺に絡みつく味噌は夕焼けの太陽みたいに僕の周りを包んでくれているようだ。このさっぽろらーめん壱番の味噌ラーメンは初めて食べたのに懐かしい味がした。少年はほとんどなくなりかけたラーメンを見て涙が出た。このラーメンをもっと食べたい。最後の最後になって命が惜しくなった。このラーメンを味わい尽くすまでは死にたくない。少年は切実に行きたいと思った。生きてこのラーメンを食べ続けたいと思った。ラーメンを食べ切った少年は堪えきれずカウンターに伏して号泣した。
「なんでこんなに美味いんだよ!これじゃ食べ飽きるまで死ねないじゃないか!なんなんだこの赤ちゃんみたいなモチモチした麺は!なんなんだこの茫漠と広がるこの札付の大地の採りたて新鮮の野菜とバターは!そして極め付けがこれだよ!この母親の愛を凝縮したような味噌だよ!コイツらがどうしようもなく僕を生へと引き止めるんだ!コイツらが僕にお前は孤独じゃない、この地上から愛されているんだって懸命に説得するんだ!」
少年は我を忘れて叫んでいた。もう彼の心から死の絶望は消えていた。今少年の心には太宰治よりもこの札付のラーメン屋の親父が作ってくれた味噌ラーメンがあった。我に返った少年はオヤジに向かって取り乱した事を謝った。するとオヤジは少年いいってことよとにこやかに手を振ってしみじみとした顔でこう言った。
「まっ、この札付の町は色々と事情があるヤツが来る町だからな。で、お前さん、これからどこ行くんだい」
少年はオヤジの問いに答えられず、返事もせず立ち上がり金を出そうとして懐の財布を掴んだ。彼はその厚みのある財布を掴んだ瞬間、ある考えが雷のように閃いて呆然と立ち尽くした。オヤジは少年に向かってどうしたのか尋ねた。すると少年は財布から出した万札とドル札を突き出してこう叫んだ。
「オヤジさん!今食べた味噌ラーメンの麺とスープを有金分全部売ってください!僕はこの味噌ラーメンに命を救われました!お願いです!僕はこのラーメンがなかったら生きていけないのです!」
少年は万札とドル札を手に涙ながらにこう叫んだ。この金は家出する時に家中からひったくってきたものだった。全部使い果たして死のうかと考えて家中からかき集めたものだったが、いざ出てみると金の使い方がわからず食費と移動費以外にほとんど使わなかったものであった。
「おいおい、どうしたい。いきなりそんな大金突き出されて売ってくれなんて言われたって売れるもんじゃねえよ」
「売って下さい!この味噌ラーメンには僕の命がかかっているんです!」
オヤジはこの少年の真剣な眼差しに圧倒された。オヤジは少年の曇りなき目を見て彼が本気でラーメンに救いを求めている事がわかりすぎるほどわかった。
「いいぜ」とオヤジは言った。
「流石に全部はやれねえけど、余りもんならくれてやらあ。ちょっと待ってろい!」
このオヤジの返答を聞いて少年は前のめりになりにこやかに顔を輝かせてこう言った。
「あの、もう一つお願いがあるんです。これから毎月僕のところに麺とつゆの素を送ってくれませんか?勿論お金は毎月きっちり支払います。こんなお願いは不躾なものだってことはわかっています。だけど僕はこのラーメンをずっと食べていたいんです!」
オヤジはこの純粋な目をした少年を信じ込んだ。この少年にとって今何より必要なのは自分のラーメンなのだと理解した。オヤジはにこやかに少年に答えた。
「いいぜ」
少年はそれから間もなくして家に帰ったのであった。彼は自分を叱り飛ばす両親をガン無視して屋敷の離れに篭ると早速オヤジから買ったラーメンを作り始めた。オヤジから貰っていたレシピを見ながらどうにかラーメンを作り終えた少年は箸を手に早速麺を啜って食べたのだった。一口食べるごとにあの札付の町の光景が蘇ってくる。彼は食べながら自分の命を救ってくれたこの味噌ラーメンに感謝して涙を流した。死ぬ前にこいつを存分に味わい尽くさなきゃ。だけどいくら味わっても味わいきれないような気がする。ひょっとしたら永遠に……。
少年はそれからオヤジが毎月送ってくれるラーメンと共に幸せな日々を送っていた。高校を卒業し東京の大学に進学した彼はそこでもオヤジの送ってくれるラーメンを食べながら暮らしていた。オヤジは手紙でラーメン上手くなったかと尋ね、そしてまた札付の街に来いよと誘っていた。青年となった彼はいづれまた札付のオヤジの元に行こうと思っていた。行ってオヤジの弟子になることさえ考えた。
しかしその夢は一瞬にして崩れた。それは青年が二十歳になった時である。ある日東京の青年の家の元に一通の手紙が届いた。青年はラーメンを送って貰ってから一か月も経っていないのに何事だろうと、彼はもしかしたら弟子入りの誘いかもと思いながら封を開けた。だがそこに書かれていたのは弟子入りの誘いではなく、オヤジの親戚だという人間によって書かれた死の報告であった。手紙によるとオヤジは一週間前に突然店で倒れてそのまま亡くなったという事らしい。青年はこの突然の報告に呆然として立ち尽くした。彼はオヤジの死によってこれから二度と味噌ラーメンが食べられない事に絶望した。という事はもう味噌ラーメンは食べられないってことなのか。僕はどうしたらいいんだ!これからどうやって生きていけばいいんだ!
絶望の中で出会った女
青年にはラーメン屋のオヤジの死を受け入れる事は出来なかった。自分の命を救ったあの札付の『さっぽろらーめん壱番』のオヤジが死ぬはずがない。きっと来月には冗談だったと麺とつゆの素を送ってくれるはずだと信じ込もうとした。だがその望みは叶うはずもなかった。翌月もそのまた翌月もオヤジからラーメンは送られてこなかった。だがそれでもオヤジの死を信じられない青年はオヤジの住所に何度も手紙を送りつけた。だが出した手紙は全て宛先不明で帰ってくるだけだった。青年はオヤジのラーメンへの飢えのせいで禁断症状まで出てきてしまった。彼にとってオヤジの死よりもオヤジの作った味噌ラーメンが二度と食べられない辛さの方が遥かに上だった。味噌ラーメンを食べられない悲しみは彼の心を大便のように真っ黒にした。
オヤジとオヤジが作っていた味噌ラーメンを失った喪失感を埋めるために青年はやけ食いならぬラーメンのやけ食べ歩きをしまくるようになった。だがいくらやけ食べ歩きをしまくっても、東京というこのコンクリートの大都会では彼の孤独と腹を満足させるラーメンなどあるはずがなかった。温かみのない工業油が混じったような醤油ラーメン、塩ラーメン。どれも食えたものではなかった。青年は胃を壊しまくるようなやけ食べ歩きの果てに悟った。この喪失感を埋めるにはやはりあそこに行くしかない。青年は思い立つとすぐに大学に休学届を出して旅立った。
青年は汽車の乗り継いで北へと向かった。彼は車中で昔同じように北へと向かった高校時代の冬を思い出した。あの時自分は本気で死ぬつもりだった。その自分を救ったのが、あの味噌ラーメンなのだ。札付の街に行けばきっとあれと同じぐらい美味しい味噌ラーメンが見つかる。それを食べればこの喪失感だって埋められるんだ。青年は今回も青林から小舟を漕いで北陸道に渡ったという。その辺りの事情はよく知らないが、生前の彼が何度も語っていた話なのだからそうなのだと納得するしかない。とにかく青年は再び札付の街に降り立ったのだった。夏の札付の街はコシのない麺のように味気ないものであった。当時は朝鮮特需をきっかけにして日本の復興が急激に進んでいた頃で全国の街の至る所で工事が行われていて、この札付の街も変貌していた。このコンクリートと電飾看板が並ぶ街にはもはや高校時代に見た素朴な北国の街の面影はなかった。
札付の街の代変わりようを見て青年は深く失望した。ド派手な看板が立ち並ぶ東京とまるで変わらないこの平凡な街を見て青年はたった数年前に見た街が遠い過去になったような気がした。この昔と似ても似つかない札付の街であのオヤジの味噌ラーメンの代わりになるものは見つかるのだろうか。青年は札付の味噌ラーメンを求めて歩き出したのだった。
しかしいくら札付の街を探してもあのオヤジの味噌ラーメンの代わりになるものはなかった。青年はラーメンを食べ歩いたせいでもう匂いだけで味が想像出来るようになっていた。この札付の街が平凡な都会になったようにラーメンもまた平凡な代物に変わってしまっていた。青年はこの事実に深く悲しんだ。
そうしてラーメン屋を一通り回った青年は絶望にくれベンチで塞ぎこんだ。その時彼の頭の中にオヤジの顔が思い浮かんだのであった。そういえばオヤジの店のあたりはまだ行っていなかった。多分現実を知るのが怖くて無意識に避けていたんだろう。やはり行かなくてはならない。青年は立ち上がって再び歩き出した。
オヤジの店のあった場所のあたりまでつくと突然あの懐かしい味噌の香りが漂ってきた。青年はその味噌の香りを嗅いでもしかしてと全力で店へと駆けた。オヤジまさか生きているのか。やっぱりあの手紙は立ちの悪い冗談だったのか!多分そうだ!病気かなんかで入院してラーメンを作れなくなったから、死んだなんて下手な嘘ついたんだ!そうに違いない!店に向かう途中青年は混乱し切った頭で意味不明の妄想をして期待に胸を膨らませた。だが、そこにあったにはオヤジの『さっぽろらーめん壱番』ではなく、『北陸道札付ノ中華壱番屋で』という店があったのだ。青年はここではないと立ち去ろうとした。しかし味噌の匂いが彼を引き留めた。もしかしたらこの店の主人はオヤジの弟子か縁のある人間でラーメンの味を引き継いでいるかもしれない。とにかく店に入って確かめなければ、と青年は思い直し勇気を出してのれんをくぐった。
店内は真新しく、オヤジのいた頃よりずっと広くなっていた。客もかなり入っていて、テーブル席には家族連れもいた。間もなくして店員が青年に声をかけて彼を隅のテーブル席へと案内した。この店は複数の人間で切り盛りしているらしい。奥の厨房にも店員が何人かいて皆忙しく動き回っていた。そこにはオヤジが一人でやっていた店の面影は全くなかった。そうやって店内を眺めていたら再び店員がやってきて注文を聞いてきた。青年はしばらく考えてやはり味噌ラーメンを注文した。
青年はこのオヤジの店とはまるで違う雰囲気に居心地の悪いものを感じ、やはりこんな店に入ったのは間違いだったと悔やんだ。だがこの店からオヤジの味噌スープと同じ香りがしたのだろう。その疑問が青年をこの店に押し留めた。ラーメンはいくらもしないうちにやって来た。店員のいかにもな愛想笑いと共に出された味噌ラーメンはやはりオヤジの味噌ラーメンとは別物であった。コーンともやしとネギの東京のコンクリートラーメンとまるで違わなかった。ただ味噌の香りだけが僅かにオヤジの面影を残しているぐらいだった。だが青年はこの味噌の香りに一部の望みを託した。
だがその望みは麺を啜った瞬間に砕け散った。あまりにも酷いラーメンだった。コシのない麺、萎れたもやし、新鮮さのまるでないコーン、それらが誰かが捨てた川のゴミのように味噌スープの上に漂っていた。こんなものを入れられては流石の味噌もドブ川と一緒だ。青年は怒りのあまりテーブルを叩いて叫んだ。
「こんな不味いラーメンが食えるか!このラーメンは味噌以外まともなものが入っていないじゃないか!こんなものゴミだらけの富士五湖だよ!せっかくの味噌スープがゴミで台無しじゃないか!」
しかし青年はすぐ我に返り恥ずかしさで居た堪れなくなって勘定も払わずそのまま逃げるように小走りで店の入り口へと向かった。だがその彼の前に金ラメのスーツの男が立ち塞がり胸を突き出して怒鳴ってきた。
「なんやコラ!ウチの名物の味噌ラーメンに文句でもあるんか!食い逃げしようとしてからに!」
青年はこの何故か関西弁で捲し立てる金ラメスーツの男のいかにも成金といった出で立ちに腹が立って言い返した。
「こんな不味い味噌ラーメンなんぞに金なんか払えるか!それこそ金をドブに捨てる行為だ!」
「このボケっ!せやったらおまわり連れて来たるわ!」
「待て!そっちがその気ならお望み通り金をドブに捨ててやるよ!好きなだけ持っていけ!」
青年が札束をばら撒いたのを見て食事をしていた客たちは一斉にどよめいた。客の中には足元の札を拾ってポケットにしまい込んでそのまま食い逃げするものさえいた。金ラメのスーツの男は青年の撒いた札束の数に驚いて呆然としていた。その金ラメ男に向かって青年はこう言い放った。
「さぁ、床の金を全部拾うががいい!アンタはこれが欲しいんだろ?コイツを手に入れるためにこんな味噌しかうまみのないクズラーメンを客に食わせていたんだろ?さっさと犬みたいに床を舐めまわして床の札を拾えよ!」
「ええ加減にせんかいボケ!ガキが大金手に入れたからって調子にのんなや!ほら見てみい!お客さんがこわがっとるやないか!金は迷惑料として貰っとくさかいさっさとこっから出ていけや!でないとホンマ警察呼ぶで!」
「なんてやつだ!こんなゴミを客に食わせておいてそこまで開き直るか!この拝金主義のクズめ!お前なんかにラーメン屋をやる資格などないっ!」
ばら撒いたお札が床に散乱する店内で青年と金ラメ男は睨み合っていた。青年は客が札を拾い集めているのを見ても、金ラメ男を睨んだまま微動だにしなかった。
しかしその時奥のテーブル席から着物を着た妙齢の女性が静かに二人の方に歩いてきた。
「お二人とも大声で何やってんのさ。そんなにワーワーやられたんじゃまとも食べられはしないよ」
着物の女性は厳しい顔でこう言った。そのきっぱりした強い言葉に青年も成金も黙り込んでしまった。だが怒りのおさまらない青年は彼女に向かって抗弁した。
「お騒がせして申し訳ありませんが、この男はゴミをラーメンとして客に出している詐欺師なんですよ!前にここにあった店のオヤジさんは本当にこころのこもった味噌ラーメンを出してくれた。家出して死のうとしていた僕を救って……」
「お黙りなさい!アンタさっさとこっから出ておゆき!ここはアンタなんかがくるところじゃないんだよ!」
青年は着物の女性の啖呵に雷で撃たれたような衝撃を受けた。ふと周りを見渡すとみんなが一斉に自分を冷たい目で見ていた。金ラメ男は美人の味方の援護射撃に勝利の笑みを浮かべて青年に向かってとっとと店から出て行けとご退出のジェスチャーなんかし始めた。青年に向かって啖呵を切った着物の女性は無表情な顔で彼をじっと見ていた。この店の連中の全員が敵だった。皆の侮蔑の視線に追い詰められた青年はラーメンへの思いを理解されぬ悔しさと絶望に耐えきれず絶叫して店を飛び出した。
店から絶叫して飛び出した青年は泣きながら街中を彷徨いた。自分の自殺を止めてくれた味噌ラーメンを作ったオヤジとオヤジの店『さっぽろらーめん壱番』はやっぱりこの世から消えていた。あるはずだという儚い希望は完全に四散してしまった。もうただ泣くしかなかった。青年は溢れる悲しみに耐えきれず、とうとう地べたにへたり込んでしまった。オヤジの味噌ラーメンのない世界なんて生きていても意味がない。泣きながらそんなことさえ思った。その時青年はふと自分のそばに誰かが立っているのに気づいた。青年は憐れみの言葉なんぞごめんだと立っている人の顔もみずに立ち上がってその場から立ち去ろうとした。しかしその人は立ち去ろうとする青年を呼び止めた。
「ちょいお待ちよ。わたしゃアンタに忘れもんを届けに来たんだよ」
青年はその聞き覚えのある声を聞いてハッとして振り返った。その人はラーメンで自分を叱った着物を着た女性であった。
「ほら、お店に散らかしたお札だよ。わたしゃアンタの札をがめようとしていた客からわざわざ取り返してやったんだよ」
着物の女性はそう言って札束を青年に差し出した。しかしそんな札束など今の青年にはどうでもいいものだった。
「それはあなたに差し上げます。好きに使って下さい。今の僕には不要なものですから」
「バカいうんじゃないの。こんな金すすきので一日中稼いだって手に入れられるもんじゃないよ。大事なお金なんだからちゃんと懐にしまいなさいよ」
「でも……」
「でももへちまもあるもんかい!坊ちゃん年上の言うことはちゃんと聞くもんだよ!」
着物の女性に再びキツイ一喝を浴びた青年は俯いて黙り込んだ。着物の女性はその青年に向かって言った。
「アンタ、さっきあのラーメン屋で前のお店のこと口にしなかったかい?」
青年は女性の言葉を聞いて驚いて顔を上げた。まさかこの女性もオヤジの店に通っていたのか。青年は自分の他にオヤジのラーメンを食べていた人に出会えて嬉しくなった。だから胸を張って答えたのである。
「ええ、口にしましたとも。僕はあのオヤジさんの味噌ラーメンに命を救われたんですから!」
着物の女性は青年の言葉を聞いて目を見開いた。彼女は目の前の精悍な青年を見つめて言った。
「へぇ〜そうなのかい。アンタもいろいろ事情があるんだね。実は私は『さっぽろらーめん壱番』の常連だったのさ。吉原からこの札付の街に流れ着いてすすきので文字通りこの身を削らせて銭を稼いでいる時にさ。ふとあのラーメン屋に立ち寄ったのさ。味噌ラーメンを一口食べてわたしゃ泣いたよ。遠い昔の田舎の光景を思い出したんだよ。それからずっと仕事終わりにゃこの店でラーメン食べて癒されていたのさ。だけどあのオヤジさんが突然……」
女性はそこまで言った途端突然号泣した。言葉にもならない叫びだった。青年もまた泣いている彼女を抱きしめて号泣した。しかしどんなに泣いたところでオヤジの味噌ラーメンを失った悲しみは埋められなかった。
やがて二人で散々泣き尽くしたあと肌寒いほど涼しくなった夏の札付の空の夕焼けが照りつける中女は青年に向かって言った。
「アンタ、私の家に来ないかい?」
運命の一夜
着物の女性の家はこじんまりとした日本家屋であった。青年はこの家に秘密めいたものを感じ中に入るのを躊躇った。しかし女性が蠱惑的な笑みを浮かべながら青年を誘ったので彼は戸惑いながらもこれに従った。青年は今まで異性との交際経験がなかった。彼はオヤジの味噌ラーメンに命を救われたあの日からずっと味噌ラーメンと共に生きていた。ラーメンを食べることだけが生きがいの彼にとって女性など眼中になかったのだ。しかし今青年の目の前に妙齢の着物を着た艶やかな女性が現れ彼を自分の家へと誘っている。青年は女性に促されるままに緊張しながら家に上がった。
「さっ、こたつもあるからお入りよ。北陸道は夜は夏でも冷えるんだよ」
女性の言う通りだった。確かにここに来るまで妙に肌寒く感じていた。青年は体を温めようとすぐにこたつの中に足を入れた。こたつで体を温めながら青年はこの肌寒さにあの吹雪の中人生最初で最期のラーメンを食べようとオヤジの店の暖簾を潜って時のことを思い出した。
「アンタ何にも食べてないんだろ?私が味噌ラーメン作ってやるからちょいお待ちよ」
青年は女性に対してはいともうんともつかない曖昧な相槌を打ってはたと考え込んだ。何故に味噌ラーメン。まさか彼女はオヤジにラーメンの作り方を学んでいるのか?だとしたら彼女は何故あの金ラメ親父のラーメン屋なんかにいたんだ。オヤジさんにラーメンの作り方を学んでいたらあんなゴミ以下の代物なんぞ食えるはずもないのに。だがその時女性のいる台所からオヤジの味噌ラーメンと同じ味噌の匂いが漂ってきたので青年は考えるのをやめて台所の方を凝視したのであった。まさか本当に……そんなことが!
やがていつの間にか割烹着に着替えていた女性が盆にどんぶりを二皿乗せて部屋に入ってきた。女性はこたつにどんぶりを置いて青年に言った。
「一応オヤジさんのラーメンを見よう見まねで作ってみたのさ。本物には到底及ばないけど、食べてみたら結構イケるってもんだ。さぁお食べよ」
「あっ、あなたもラーメンを食べるのですか?お店でラーメンを食べたんじゃなかったんですか?」
「コラ、坊や。アンタ私を大食いだって言うのかい?わたしゃ普段から体には気を使っているんだよ。大事な商売道具なんだから。実は私もあの店のラーメン食べてないよ。オヤジさんの店の跡地にラーメン屋が出来たって言うんでちょい寄っただけさ。店の前からふんわりといい味噌の香りが漂ってきたからね。でもスープを一口飲んでやめたよ。あんな不味いもんとてもじゃないけど食べられないよ」
「ああ、あなたもそうだったのですね。僕はあのラーメンのあまり不味さに大事なものを汚されたような気がしてつい腹が立ってあんなことを……」
「ほら、おしゃべりはその辺にして早くラーメン食べなよ。麺が伸びちまうよ」
女性に食べるよう促されて青年はこたつの上のどんぶりを見た。それは確かに味噌ラーメンであった。しかし彼の前に置かれた味噌ラーメンは残念ながらオヤジラーメンとは違うものであった。青年はなんとも言えない気持ちでとにかく女性に礼を言ってラーメンを食べた。
女性のラーメンはいかにも素人の作ったラーメンで味のレベルはあの金ラメ親父の店のラーメンと同じかそれ以下のレベルだった。だけどこのラーメンには心があった。あのオヤジの味噌ラーメンと同じこの北陸道の母のような大地の。
「どうだい?あまり美味しくはないかい?」
女性はあまり浮かぬ顔でラーメンを食べていた青年が気になってこう尋ねた。青年はそれを聞いて正直に言おうか迷ったが下手に嘘をついては却って女性に不誠実だと思ってこう答えた。
「本来プロのオヤジさんと素人のあなたが作ったラーメンを比べるべきではないのですが、使っている味噌が同じものだからどうしても比べてしまうんです。だからあなたのラーメンには残念ながら僕は満足できないんです。わざわざ僕なんかのためにこんなものを作っていただいたのにこんな事を言うのは失礼だし非常に申し訳ないのですが」
「ハッハッハ、そこまで正直に言われたんじゃ怒る気すら起きないよ。フッ、引退したらラーメン屋でもやろうかなって思っていたのにさ、自慢のラーメンをここまで貶されたらもうラーメン屋は無理だね」
「すみません。僕は嘘がつけない人間なんです」
「いいよ、気にしないでおくれ。でもアンタそんなにオヤジさんのラーメン好きだったんだねぇ。いつから食べてたんだい?」
「だいたい四年前、高校時代からです。当時の僕は人生に対して悲観して毎日死を考えていました。その死への願望が僕をこの北陸道へと走らせたんです。だけどそこで僕はオヤジさんの味噌ラーメンに出会った。僕はあの味噌ラーメンに命を救われたんですよ」
「へぇ〜、アンタもいろいろあったんだねぇ。しかし四年前じゃ私なんかより前に店行ってるんだ」
「店に行ったのは一回きりです。だけどオヤジさんはそれからずっと毎月僕に冷凍の味噌ラーメン送ってくれて……」
「ちょいお待ちよ。その話あの人から聞いた事があるよ。あの人自慢げに言っていたんだよ。独り身の俺にようやく息子が出来たって。その息子に毎月味噌ラーメン送ってやってるんだってさ。まさかオヤジさんの言ってた息子ってのがアンタかい?」
「そう、恐らく僕です。僕がオヤジさんに毎月味噌ラーメンを送ってくれるよう頼んだんです」
「あれまぁ、ホントびっくりだわ。オヤジさん私が店に来るたんびにアンタのこと話していたんだよ。北関東の子で今は東京にいるらしいが、もう少ししたらこっちに呼んで俺の後継がせるんだって。だけど切ないねぇ。その息子がせっかく来てくれたのにもう会えないなんてさ」
「僕も辛いですよ。あのオヤジさんのラーメンが二度と食べられないなんて。だけどオヤジさん、僕に店を継がせるって本当に言ったんですか?全く他人のこの僕を」
「ええ言いましたとも。あの人アンタの事語る時はいつも目を細めて本当に実の息子のようにアンタを語っていたわ」
「なんて事だ!そんなにオヤジさんはこの僕を!」
青年はそう叫んで号泣した。女性は青年のそばに寄り添ってその肩を抱き留めた。青年は溢れる感情に耐えきれずその女性の胸に飛び込んで泣き腫らした顔を押し付けた。青年はただ縋りつきたかった。この自分と同じオヤジの味噌ラーメンを愛した女に。大好きだったオヤジの味噌ラーメンの記憶に。北陸道の夜は夏でも寒かった。だがこうして抱き合っているとオヤジの味噌ラーメンがその暖かさで体を温めているような気がした。
その翌朝青年は女の寝室から異様にスッキリした表情で目覚めた。彼は布団から身を起こしてふと昨夜見た夢を思い出した。味噌ラーメンの上に乗せられたざくぎりのキャベツに置かれたジャガイモの切り口には白くて濃いバターがたっぷりかけられていた。その夢の情景を思い浮かべると体が熱くなってムズムズしてきた。青年は沸騰しかけた頭を冷ますように慌てて頭を振ってこの熱すぎる夢を無理やり遠ざけた。
「ねぇ、朝ごはん食べていくんだろ?」
と、戸を開けて寝巻きを着た女が声をかけてきた。女の背からは朝日が眩しく輝いていた。青年はしばらく女を見てから大きな声でハイと答えた。
「で、昨日枕元で話してくれた事なんだけどアンタ本気なのかい?」
「本気ですとも。僕は決めたんです」
「だけど夢物語でしかないよ。オヤジさんのラーメンを袋詰めして全国で売るなんて。アンタがいくら大金持ちでもさ」
「僕は昨日あなたと一晩中味噌ラーメンについて話していてこう考えたんです。オヤジさんの味噌ラーメンかどんなに美味かろうが、作っていた本人が死んだら味なんて残らない。味を残すには誰が死んでも味噌ラーメンが残るよう決して腐らないよう袋詰めにして保存しておくしかない。それに僕はオヤジさんの味噌ラーメンの美味しさを全国の人たちに知ってもらいたいんです。誰でも手軽にあの味噌ラーメンを食べられる方法が見つかればオヤジさんの味噌ラーメンはきっと全国中に広まるし、永遠に食べ継がれていくんです。確かにこれはあなたの言う通り実現不可能な計画だと思います。ただの空想だと言われればそうだとしか答えられません。だけど僕はそれでも挑戦しますよ。いずれ僕が父の会社を継いで、いや父を会社から追い出せたら早速この計画を始めます」
「偉く壮大だね。アンタ昨日とはまるで別人だよ。なんだかすごく雄々しくなってさ。ホントびっくりだよ、男って一晩でこんなに変わるんだねえ」
「それもこれも全部あなたのおかげです。あなたが僕を男にしてくれたんです!」
この青年のハッキリした口調で答えたのに女は照れて顔を赤くした。
「いやだねぇ、そんな事ハッキリ言うもんじゃないよ。わたしゃ照れちまうよ」
青年はベッドから起き上がって着替え始めた。その青年の体を見て女性は男に対して久しく感じていなかった羞恥を感じて慌てて寝室から逃げた。一人寝室に残された青年はしばし足元の布団を眺めたが、その乱れた布団を見ていたら再び頭の中にジャガイモと白くとろけたバターの情景が蘇ってきた。青年はこの何度も立ち上ってくる熱の高まりに再び慌てて頭を振った。
「味噌ラーメン作るんだったらまずは味噌だろ?私のお得意さんに味噌屋をやっている人がいるんだけど、実はこの人がオヤジさんに味噌を出していたのさ。昨日作ったラーメンもこのお客さんの味噌使っていたんだよ。それと多分あの成金親父のラーメン屋もおんなじ味噌使ってる。住所紙に書いとくから寄ってお行きよ。きっとアンタの役に立つよ」
別れしなに女は青年にこう教えた。青年は女の言葉を聞いて全てを納得した。なるほど全て繋がっていたわけか。
「だけど味噌だけ手に入れてもオヤジさんのラーメンは作れないよ。味噌が旨くても他のがダメじゃ私やあの成金親父みたいな汚れた人間の作った不味いラーメンが出来ちまう……」
「あなたが汚れた人間だなんて!」
「お黙り!まだ話の途中だよ」女は指で青年の口を塞いでこう続けた。
「アンタはオヤジさんの味噌ラーメンを毎日食べていたんだろ?だから誰よりもオヤジさんのラーメンを知っているはずだ。だからその舌で探すんだよ。最高の麺を、最高のスープを。ジャガイモに白くて濃いバターがたっぷりかかった体の芯が熱くなるあのスープをさ」
女の言葉に青年は力を込めて頷いた。朝日に照らされた青年は未来への希望に満ちていた。この青年は必ずや味噌ラーメンを作り上げるだろう。女は輝かしい青年を見てそう思った。
「あのさ、なんかあったら手紙でも送っておくれよ。ここに住所書いといたからさ」
青年は差し出された紙切れの細い筆跡を見て感情が高まって思わずこんな事を口にした。
「よかったら僕と一緒にオヤジさんの味噌ラーメンを作りませんか?あなたとならきっと作れるような気がするんです」
「バカだね、私は夜の女なんだよ。アンタとは住む世界が違うのさ」
青年は泣いて女に別れを告げると、そのまま女の書き置きを頼りに味噌屋へと向かった。味噌屋の主人はいかにも真面目そうな人間でとてもすすきのなんかに毎晩、時には昼にさえ通っている人間とは思えなかった。その主人は家族らしき人たちと歓談していたが、まだ世間を知らない青年はその主人に向かって堂々と女の名前を挙げて彼女に教えられてここに来たと言ってしまったのである。主人は青年の言葉を聞いて大慌てで彼を店の隅に呼び小声で注意した後、何用かと尋ねてきた。青年はオヤジの店の『さっぽろらーめん壱番』の名を言ってあの店で使っていた味噌が欲しいと言った。主人はこの自分のとても口外できない事実を知っている青年にビビって殆どただで味噌を譲ってくれた。青年はこれに納得できず金は出すと言ったが主人は丁重にお断りし味噌を突き出した。その主人に青年はだったらこれから味噌を東京に送ってくれないかと頼み込んだ。主人はこの純真まっすぐな青年に恐怖を感じて味噌を送ることに同意した。
こうして味噌を手に入れた青年は意気揚々と東京に戻ったのである。もう迷いはなかった。袋詰めの親父の味噌ラーメンを作る。青年の未来はすでに底に向かって走っていた。
青年と女はその後何度かやり取りをしていたが、ある日女から結婚して水商売から上がったという手紙を貰った。結局それが最後の手紙になったが、青年はそれからも彼女を忘れたことはなかった。彼女の存在は彼の人生のすべてを決定したと言っていい。ああ!彼女がいなかったらサッポロ一番は決して生まれなかったのだ!
サッポロ一番誕生す!
青年は大学を卒業するとまっすぐ故郷へ戻った。もはやこれ以上東京で遊んでいるわけにはいかなかった。会社を牛耳っている父親とその親族から会社を取り上げて自分のものにしてオヤジの味噌ラーメンを作らねばならぬ。青年は大学時代をひたすらオヤジの味噌ラーメンの研究に捧げた。毎日北陸道の味噌屋から毎月送られてくる味噌で隣近所に味噌も糞もいい加減にしろと怒鳴られながらずっとラーメンを作っていた。それだけではなく彼は毎夜小麦粉の工場で働きながら工場の機械を調べてラーメンの麺をどのようにすれば腐らずに保存できるのかを考えた。しかしそれでも個人の能力には限界があった。ならば父の会社の力を使って味噌ラーメンを作るしかない。青年はそう決断し再び実家の門をくぐったのであった。
彼は戻ってくるなり父と親戚の会社経営のあらゆる汚点を、どうでもいい部分まで探し出し、父の経営方針に反発する取締役の一部や社員たちの力を使って父を糾弾し無理やり父と親戚を取締役から追放した。このクーデターは社員のみならず、父に苦しめられていた地元の人々にも歓迎された。新しく取締役代表となった青年は従業員を前にこう宣言した。
「この戦後の激動の時代にいつまでも地方に留まっていてはいずれ会社は時代に乗り遅れて潰れてしまう。そうならないためには事業を拡げて全国に展開すべきなのだ。その計画の中心として私は永久に保存できるラーメンを作ることを考えている。このラーメンを作ることが出来たらきっと我が社はこの一地方から全国有数の大企業になるだろう。そのための第一歩としてまずは徹底して改革を重ね我が社を戦後の世に相応しく変貌させるのだ」
この青年社長の堂々たる改革宣言は全従業員や地元の有志に歓迎された。地元の経済新聞の記事には青年を国を救うために父を追放した武田信玄に準えるものさえあった。こうして会社社長となった青年はすぐに本社を東京に移し全国展開を始めたのであった。しかし青年のラーメンへの思いは消えることはなく、彼はその激務の傍らひたすら味噌ラーメン作りに勤しんだのであった。社長になっても青年の生活はラーメンと共にあった。彼は何人かの女性と交際したが、彼は毎日その女たちにラーメンを振舞った。女たちは社長のくせにフレンチや中華料理に行かずひたすらラーメンを作る青年にうんざりして文句を言ったが、青年はそれを聞くと大激怒して女を札束で殴り札の雨を降らせて叩き出した。彼にとってラーメンは女よりもよほど大事なものだった。
しかしその青年にも運命の時が訪れた。取引の為にある地方を訪れた青年はそこで行われた歓迎パーティーでとあるラーメン好きの女性と出会ったのである。この女性は地元の企業の社長の娘で若い頃から全国をラーメン行脚で廻っていたのであった。青年はそれを聞いてようやく理想の女性と出会えたと思った。あのすすきのの女と別れてから数年後の事だった。この女を逃がしてなるものかと思った彼は自分がラーメンと出会ったきっかけと、今、永遠に保存できていつでも食べられる味噌ラーメンを作っている事を全部話した。そしてこう言ったのだ。
「いきなりだけどあなたと結婚したい。顔を合わせてからまだ半日も経ってないけど僕はあなたこそ一生の伴侶だと確信したんだ。これはきっとラーメンが僕らを結びつけてくれたに違いない。あなたと一緒になれば僕の味噌ラーメンだって作れると思うんだ。お願いだ!結婚してくれ!」
このいきなりのラーメンプロポーズに娘は戸惑った。しかし彼女も青年に運命を感じていたのだろう。なんと二人は出会って即五秒、いや五時間で永遠の愛を誓ってしまったのである。
この出会って即五秒、いや五時間で結ばれた夫婦は一緒にラーメン研究に勤しんだ。東京の一等地で味噌を煮込みに煮込んでひたすら味噌ラーメンの創作に取り組んだ。だがそれでも結果は出なかった。夫はいつまでも完成しないラーメンに腹が立って鍋を蹴ったりした。妻はそんな夫を厳しくたしなめた。
「そんなに乱暴したってラーメンなんか簡単に作れるものじゃないわ。もっと冷静になって自分を見つめなさいよ。あなたのオヤジさんの作った味噌ラーメンがどんな味だったか改めて振り返って思い出してさ」
「そんなもの毎日振り返ってるさ。だけど出来ないんだよ!どんなにあの味を再現しようとしてもできたものはまるで違うんだ!味噌も、麺も、すべてが別物になってしまうんだ」
夫婦の中で毎日こんなやり取りが繰り返された。夫は毎日妻に当たり散らすことに責任を感じて味噌ラーメンをあきらめようとさえ思い始めた。妻は毎日身を削って味噌ラーメンを作っている夫の為に何かしたいと思ってはいたが、しかしオヤジの味噌ラーメンを一度も食べたことにない彼女には何のアドバイスも与えられず、そのことに悔しさを感じていた。どうしたら夫の愛する味噌ラーメンが作れるのだろうか。そんなある日夫は彼女に対してこう漏らした。
「俺、やっぱり味噌ラーメン作るの無理なんじゃないかな」
妻はある程度想像できた夫の諦めの言葉を聞いてしばらく考えてからこう言った。
「ねえ、あなた。私あなたとずっと一緒に暮らしてきてこう考えたの。あなたは案外他のラーメンを食べていないんじゃないかって。あの私思うの。あなたのオヤジさんの味噌ラーメンを知るには他のラーメンを食べてそれが他とどう違うのかわからなきゃダメだと思うの。比べなきゃわからないものだってあるわ。きっとあなたのオヤジさんだって他のラーメンを散々食べ比べてあの味噌ラーメンに行きついたんだから」
夫は妻のこの言葉に雷を撃たれたような衝撃を受けた。彼は妻の言う通りだと思った。確かに自分はオヤジの味噌ラーメン以外はラーメンでないと軽蔑しきってまるで食べようとしなかった。だからオヤジのラーメンが他のと比べて何がちがうのかなんて考えすらしなかったのだ。そうだオヤジだってあの味噌ラーメンを作るまでにいろんなラーメンを食べていたに違いない。そうして遂にあの味に行きついたのだ。俺はなんてバカだったんだ。オヤジのラーメンを追求するあまり周りが見えなくなってしまうなんて!彼は目の前の妻を見て涙を流した。ああ!本当にこの人が俺の嫁になってよかった!
青年はそれから妻と連れ立って自家用ジェットで全国ラーメン行脚に出かけた。全国のラーメンを食べ歩きオヤジの味噌ラーメンがどんなものであったか探求した。旅先の旅館ではラーメンしか注文しなかった。あらゆるラーメンを食べて舌を鍛え上げながら遠い過去に食べたオヤジの味噌ラーメンの記憶を舌で巡った。とりあえずラーメン行脚を終え、東京へと変える前日、妻はこう打ち明けた。
「あのね、多分だけど私妊娠してるみたいなの。もしかしたらラーメンの神様が私たちに赤ちゃんを授けてくださったのかも」
妻の言葉に青年は驚喜した。まさかこのラーメン行脚が二人に子供まで授けてくれたとは!もしかしたらこれで味噌ラーメンだって出来るかもしれない!いや、生まれてくる子供の為にも作れねばならぬ。俺たちの味噌ラーメンを、おやじやあの人と、そして今隣にいるラーメン愛で結ばれた妻の為に!
病院で改めて妻の妊娠を告げられた青年は妻に向かって君と生まれてくる子供の為に必ず味噌ラーメンを作って見せると誓った。彼は妊娠した妻を気遣って一人で味噌ラーメン作りに勤しんだ。だけど彼はもう一人じゃなかった。彼に味噌ラーメンを与えて命を救ってくれたオヤジ。一晩彼を泊めて彼を男にし味噌ラーメンを作ることのきっかけを与えてくれたあの人。そしてラーメン愛で彼と結ばれた妻と息子の為に。過去に自分を支えてくれた人、そして自分がこれから支え、支えられてゆくであろう人々の為に彼は懸命に味噌ラーメンを作った。そして夜が静かに明けた頃、とうとう彼の味噌ラーメンが出来上がったのであった。彼は出来上がるとどんぶりを持ってまっすぐ寝室の妻の元に飛んで行った。すでに起きていた妻は味噌ラーメンが出来上がるのを予知していたのか夫の報告に驚かず、冷静に夫にどんぶりを差し出すように言ったのだった。
「美味しい」と妻はラーメンを一口食べてほほ笑んだ。その微笑みはどんな言葉より彼を喜ばせた。この味噌ラーメンが彼の昔の記憶と今ここにいる妻を結びつけてくれたような気がした。
「これでようやく第一歩に立てたって感じね。後は麺とスープをどうやって保存するか考えないと……」
この妻の指摘に夫は考えこんだ。確かにそうだ。自分たちはまだ計画の第一歩にたどり着いたばかりだ。そうこれからが難題なんだ。
しかし戦後の日本の経済成長は今までではありえなかった変化をもたらした。高度経済成長期を迎えた頃、各食品会社が即席めんを発売し出したのである。すでに企業規模を全国に広げ会社を全国有数の企業に育て上げていた男はこの各食品会社の動きを見てこれだと確信したのだった。この即席めんならオヤジの味噌ラーメンを完璧に袋に閉じ込めることが出来る。他人の褌を借りるのは口惜しいがそれでもやらねばならぬ。これは俺個人ではなくてオヤジとあの人と、そして妻といずれ会社を継ぐ息子のためなのだ。
男は会社の工場の一隅を借り切って一晩中味噌ラーメンの即席めんを作りに勤しんだ。妻と一緒に作った味噌ラーメンは試験的に生めんで売りそれなりに公表を得たがやはり生めんでは保存がきかないのが問題で商品化を諦めた。即席めんだったらオヤジの味噌ラーメンはいつまでも新鮮に食べられるはず。男は社内から選りすぐりのラーメン好きを選んで一緒に味噌ラーメンを捜索した。妻と息子は度々ラーメン作りに勤しむ男を度々見舞った。彼は妻と息子が来るといつもの全国の社員を率いる経営者としての顔から普段の家庭のよきパパの顔に戻りにこやかに家族に向かってほほ笑むのであった。
こうして努力の末に出来上がったのが、あの『サッポロ一番』である。男は商品名にオヤジへの感謝を込めてオヤジの店『さっぽろらーめん壱番』の屋号を入れた。サッポロ一番が出来上がった時男は会社の食堂をサッポロ一番尽くしにし、社員たちに無料で提供した。さらにその夜会社で行われたサッポロ一番の発表会には妻と息子を呼び会への参加者たちに向けてサッポロ一番の作り方の実演会をしてから皆にサッポロ一番を振舞ったのであった。妻はこの夫の成功に涙して喜んだ。出会って五秒、いや五時間で結ばれて手からここまでずいぶん長かった。夫の、いや二人の夢が今こうして叶ったのだ。会社の社長から夫の顔に戻った男は妻を呼び寄せて泣きながらサッポロ一番が出来たのは妻のおかげだとスピーチした。そのスピーチには会場から割れんばかりの拍手が鳴った。男はその拍手を受けながら天国にいるオヤジに向かって呼び掛けた。
オヤジさん、俺の命を救ったアンタの味噌ラーメンが今全国に羽ばたきますよ。
エピローグ:三度の北陸道
その完成発表からしばらくしてサッポロ一番は全国で一斉に発売された。味噌と醤油と塩の三つの味のサッポロ一番は大好評で特に男が力を注いだ味噌ラーメンは即席めんで唯一成功した味噌ラーメンと大好評を得た。しかし『サッポロ一番』はその味噌ラーメンの誕生の地、かつて男の命を救ったあのオヤジの『さっぽろらーめん壱番』があった札付の街のある北陸道では全く売れなかった。男は何故に売れないのかと疑問を持ち、営業計画の抜本的な立て直しが必要だと判断し自ら北陸道に赴くことにした。
久しぶりに見た札付の街には昔を思い出させるものは何もなかった。あのオヤジのラーメン屋さえ記憶から消えてしまいそうになるほどの変わりようであった。思えばこの北陸道にはあの女と別れてからの間一度も来ていなかった。あの女から紹介された味噌屋は離婚やらなんやらで揉めていつの間にか人に店を譲っていた。幸い彼はその店を買い取っていたが、社長としての多忙な業務に忙殺されて訪れる暇がなかった。
男は妻と一緒に北陸道に降り立ちホテルに荷物を置くとそのまま二人で一緒に札付の街を歩き回った。その散策の途中で男はふとすすきのの看板を目にしたのだが、その時突然あの着物姿の女の事を思い出して感傷的な気分になった。あの人は今ごろどうしているのだろう。きっとどこかで幸せにやっているに違いない。もしかしたら自分が作った味噌ラーメンを食べているかもしれないと考え、それから記憶をめぐって自分の人生を決断させた一夜の情景を思い浮かべた。あの人の優しさはバターをも溶かすぐらい熱かった。あの奥深くまで包み込まれた優しさでたちまち僕は……。とここまで思ったところで突然腕に激痛が走って思わず隣の妻の方を向いた。
「まったくイヤになっちゃうわ。今あなた昔付き合っていたラーメン好きの彼女思い出していたでしょ。あなたがそういう切ない顔する時って絶対誰かを思い出してる時だもの。きっとそうだわ」
「バカだな、僕は君以外の女を愛したことはないよ」
「またそんな口から出まかせを。もうわかっているんですからね!」
男は腕を抓った妻の子供っぽい態度に苦笑いし、全く女の勘ってのは鋭いと呆れながら妻のふくれっ面を見た。でも長年一緒に暮らしているんだからそれも当たり前なのかもしれない。なぜなら自分たち夫婦は味噌ラーメンの絆で強く結ばれているのだから。
妻と一緒に札付の街を一通り回ってから再びホテルに戻り、妻を部屋に残して部屋を出た男は今度はホテルで借りた会議室で札付支社の社員たちと今後の北陸道でのサッポロ一番の営業展開について話し合った。札付支社の支社長は彼に向かって札付でサッポロ一番を広めるにはある男の協力が必要だと言った。彼によるとその男は札付のラーメン界のドンと言われラーメンに関するすべての権益を握っているとのことだった。ライバル会社の社長も彼の元に挨拶に回っていたそうだ。男はそれを聞くと前のめりになって支社長にならば是非自分も会わねばと言った。すると支社長は厳しい顔でこう忠告した。
「だけどあの人はよそ者をなかなか受付ないんです。自分だってよそ者のくせにおかしな話ですが」
よそ者と聞いて男はふと昔の嫌な記憶を思い出した。まさかあの男が札付のドンだって事はあるまい。あんな男街の人たちに嫌われてとっくにこの札付から出ていっているはず。
「まぁ、それでもいいさ。田舎の人間ってのは閉鎖的で他から来た人間をなかなか受け入れないものさ。俺も同じ田舎の人間だからよくわかる。とにかくその人物に合わなきゃな。まずはその人の所に連絡を取ってくれないか?」
支社長は傍らに控えている女秘書に向かって今すぐ電話をかけるように言った。秘書は映画女優の京マチ子みたいな感じでおおよそ場違いな格好であったが、男はそれを見て支社長と秘書がただならぬ関係であるのを見て取った。その秘書はどこかでグレタ・ガルボを思わせるハスキーボイスで札付のドンの所に電話をしていたが、間もなくして電話を置いて男と支店長に気だるい調子で報告した。
「あのぉ~、その札付のドンさんなんだけどぉ。挨拶に来るなら商品と土産物持ってこいっておっしゃってましたわ。なんか私たちを試験するらしいの」
「試験?なんだそれは」
「私に言われてもわかりませんわぁ。向こうの秘書さん用件だけ言ってすぐ電話切っちゃったし」
なんの試験だかわからないがサッポロ一番をこの北陸道で営業展開するにはその札付のドンの力を借りるしかない事だけは分かった。それで男は約束された日にちにサッポロ一番の味噌味の五個入りパックを持って札付のドンの会社のビルに向かったのであった。
そのドンのけばけばしいビルを入った男はそこで驚くべき光景を目にした。なんと他の食品会社のお歴々が自分と同じく麺の袋を持ってビルの入り口近くの風が吹きすさぶ所に置かれたパイプ椅子に座っていたのである。そのお歴々の中には即席めんの生みの親もいた。
「ああ、お久しぶりです。皆さんお揃いでこんなところでどうしたんですか?もっと奥に移動しないと冷えますよ」
「ダメヨ。ここに座って待ってないと取引しないって言われているヨ」
即席めんの生みの親はまるで卵を抱えるように自社の商品を抱えてこう言った。
「この北陸道でこの子を孵すためにはここで言われた通りに待つしかないヨ」
この即席めんの生みの親の言葉に他のお歴々は深く頷いた。しばらくしてそのお歴々の一人が男が胸に抱えているものを指してこう尋ねた。
「それが今話題のサッポロ一番ですかな?私も社員たちと食べましたが、いやぁやられたと思いました。開発部の連中も悔しがっていましたよ。しかし美味しいだけじゃこの北陸道で売ることはできないでしょう。やはり北陸道で売るにはこのビルの上におわすドンに御贔屓にされなければ」
思えば妙であった。企業としての力関係なら自分たちの方がはるかに上で、本来向こうから喜んで来るはずのものなのに何故こうしてわざわざ商品を持参してこんな侮辱にもほどがある扱いをされなければならないのか。
「やっぱり北陸道は巨大な市場ですからなぁ。なんとしても手に入れねば」
別のお歴々が隣に向かってこんなことを話していた。それを聞いて男はやはり市場のためかと思った。だが男がこの北陸道で味噌ラーメンを売ることを望むのは市場なんかのためではなかった。それはまずは遠い昔にあの『さっぽりらあめん壱番』の味噌ラーメンを食べて命を救われた恩返しのためであった。それから自分を男にしサッポロ一番を作る決断をさせてくれたあの人。そして自分のサッポロ一番への思いを誰よりも理解して協力してくれた妻のためであった。これらの人々のおかげでサッポロ一番は生まれたんだ。そのサッポロ一番を絶対にこの生まれ故郷の北陸道に広めたい。青年は力を込めてサッポロ一番の五個入りパックを抱きしめた。
それからかなり時間が経ってようやくお呼び出しがかかった。自分たちを呼んだのは役職付きでもないただの社員でその男は偉そうに無言で指図してエレベーターまでお歴々たちを案内した。
エレベーターから降り控え室にお歴々を入れたところでこのやたら偉そうな社員は初めて言葉を発し、お歴々に向かってこの面談について説明を始めた。
「ええ~っと。面談は一人ずつやるんで名前呼ばれるちょっと前までに持ってきた袋のラーメンそこのキッチンで作っておいてください。皆さんが凄い偉い人だって事はこっちもわかっているんですけど、うちのドンってそういうの嫌いだからちゃんとこっちの流儀に従ってくれぐれも気を損ねないようにお願いしますね」
男は偉そうな態度してるのはどっちなんだと言い返しそうになったが、これはいかんと思ってすんでのところで自分を抑えた。この札付の街でサッポロ一番を売るには我慢して耐えるしかない。他のお歴々は即席めんの生みの親をはじめとして彼とは対照的ににこやかに社員に向かって相槌を打っていた。
いよいよ面談の時刻となり、名前を呼ばれたお歴々たちは各自作っておいた自社のラーメンを入れたどんぶりを持ってドンのいる社長室へと入っていった。それぞれ三十分ぐらいの面談だった。札付のドンとお歴々はどうやら皆顔見知りらしく面談は和やかに行われ時々談笑さえ漏れていた。こうしてお歴々たちの面談は終わり、最後に男を残すのみとなった。
名前を呼ばれた男はこの生まれて初めての面接とも言っていい面談に緊張した面持ちで立った。そして作り立ての味噌ラーメンを持って社員が半開きに開けていた扉から社長室へと入ったのだった。
社長室に入った男は初めて見る札付のドンの姿を見て驚きのあまりどんぶりを落としそうになった。その札付のドンとはあの忌まわしいラーメン屋の『北陸道札付ノ中華壱番屋で』の金ラメの店主だったのだ。かすかに想像はしていたが、まさかあの金ラメ野郎が札付のドンにまで成り上がっていたとは!
「なんや、若いの。なに目を剥いて棒立ちしとんねん。早ようどんぶりテーブルに置いて向かいに座らんかい。どんぶり落としたら一千万の罰金やぞ」
男はそう言われて慌ててどんぶりを置こうとしたが、しかしテーブルは皆中身が殆ど残ったどんぶりで埋めつくされており、置く場所など殆どなかった。しかしそれでも男は他のどんぶりをうまく脇に寄せてどうにか札付のドンの前にどんぶりを置いた。そしてドンの向かい側に座ってこう言った。
「どうぞ、これをお召しになってください。このラーメンはかつてこの札付の街にあったラーメン屋への畏敬の念を込めて長年かけて作った我が社のメニューです。どうぞ」
男がこうラーメンを勧めた瞬間、札付のドンの何かを悟ったらしく突然身を乗り出して男の顔を凝視した。そして憮然とした顔でこう言い放った。
「申し訳あらへんけど、ワシお腹いっぱいになってしもたんや。おたくの糞、いや味噌ラーメン食べられへんねん。悪いけどそれ持って帰りや」
「な、何故です。お腹いっぱいになったっておっしゃいましたが、他の即席めんだってろくに食べていないじゃないですか。どうしてうちの味噌ラーメンは一口も食べないでそんな事言うんですか!もしかしてあなたはいまだにあの時の事を根に持って!」
「やかましいこのガキ!偉くなったからって調子に乗んなや!この札付の街を仕切っとるのはワイやぞ!ワイがまずいっていったら全部まずいんや!お前の糞ラーメンなんぞ死んだって口にするかい!お前の会社は北陸道立ち入り禁止や!二度と北陸道に入ってくんな!」
札付のドンは怒りに任せて杖を振って男を叩き出そうとした。しかし振った杖が勢い余ってテーブルの上のどんぶりを丸ごと薙ぎ払ってしまったのである。もう大惨事であった。札付のドンはベルを鳴らして外の者たちを呼んだ。その騒ぎに他のお歴々も慌てて社長室に入ってきた。男はお歴々と関係者が大騒ぎする札付のドンに向かって丁重に詫びて退出した。男はこの運命の残酷な偶然を呪った。せっかくこの北陸道に味噌ラーメンを連れて帰ってきたのにこんなことになってしまうなんて。彼はオヤジと女に対して本気で詫びた。これで我が社が北陸から撤退することはないが、サッポロ一番の販売はこれまで以上に厳しくなるだろう。だがそれでもいずれ、この北陸道に人々にもこのサッポロ一番をわかってくれるはず。自分を救い、そして自分を優しく指で包んでこの道に導いてくれたこの北陸道の人たちへの感謝の心はどんなに時を経てもきっと伝わるはず。男はホテルへ帰る道中、雪の降り始めた札付の街を見てそんな事を思った。
大惨事となった札付のドンの社長室でドンは社員たちに早く片付けろと喚いていた。だが社員たちは片付けするどころか棒立ちでひたすらこぼれたサッポロ一番の味噌ラーメンを見つめていたのであった。それはまだ残っていたお歴々もそうであった。彼らは自社の製品などガン無視してひたすらサッポロ一番の味噌に注いでいた。
「ほら何しとる!社長の皆さんが驚いてマッチ棒みたいに立っとるやないか。早う片付けんかい!」
と、札付のドンが社員を叱った瞬間である。その怒鳴り声を合図にしてか社長室にいた全員が一斉にサッポロ一番の味噌ラーメンに飛びついたのである。全員が床の絨毯に這いつくばりサッポロ一番の味噌をぺろぺろ舐めだした。全員サッポロ一番の汁を嘗めながら「まいう~!」と奇声を発した。
「お前ら何しとんねん!それでも大会社の社長かい!」
だが、この札付のドンのまっとうな突っ込みも今のサッポロ一番の味噌味を求める獣たちには聞こえなかった。これを見て札付のドンは恐怖し、後に亡くなるときに遺言状でワイが死んでもサッポロ一番を広めさせるなと遺したのである。この札付のドンの遺言は今もなお彼の後継者によって忠実に守られている。そのせいでこの北陸道では今でもサッポロ一番はあまり食べられてはいない。