
南川建築事務所の秋
事務所の入り口の木の葉はすっかり落ちてしまった。木は枯れ果てこのまま冬を越さず朽ち果てるだろう。妻はとっくに去ってしまった。後に残されたのは膨大な慰謝料の山だ。永遠に変わらぬ愛を誓ってもほんのちょっとしたことがきっかけで全てが崩れてしまう。突然床が抜けるように、突然柱が折れるように呆気なく崩壊する。
南川建築事務所の所長南川耕作は誰もいない事務所で一人煙草を吸っていた。煙草は建築事務所を始めた時に客に気を遣ってやめたのだが、もはや客など誰も来なくなったので遠慮なんかなくなった。久しぶりに吸ったタバコは旨かった。タバコがなくなるのが惜しくて根元まで吸ってしまった。
タバコを吸いながら南川はこれまで軌跡を振り返っていた。ゼネコンをやめて東京に程近いこの小さな市に建築事務所を構えて何軒も作った家。契約を取られたくなくてこっちの方がお得ですよと金額を提示してびっくりしている客に契約書を出した日々。建築会社とその金額に相応しい材料をセレクトしてうまく家を作ったっけ。この間南川は久しぶりに最初に自分が設計した家を見に行った。もう跡形もなく潰れていた。野晒しの空き地にシロアリに食われまくった柱が一本転がっていた。彼は自分の成してきた事が無惨にも消えてしまった様を見て大きくため息をついた。全ては終わるんだな。南川は事務所で淹れたてのブラックを飲んだ。舌が焼けるほどの熱さに彼はもんどり打った。妻は潰れかけた事務所から逃げるようにして去った。どんな建築もいずれ全て崩れ去っていくのだ。
ふと南川は自分が最後に設計した家が見たくなった。あの家はまだ残っているだろうか。彼は入り口のそばに掛けていたコートを羽織って外へと出た。外に出ると冬の一歩手前の寒い風が当たってきた。彼は風の冷たさに耐えられず震えながらコートの襟を立てた。入り口の木は見窄らしく立っている。まるで歯のない老人のようだ。彼は事務所に鍵をかけるとタバコを咥えて秋の町を歩き出した。
南川が最後に設計した家は事務所から近かった。歩いて五分もかからない場所だ。だが南川は家が建ってから一度も行った事はなかった。怖かったのだ。永遠なんてものはない。どんなに強固なものでも何かがきっかけで潰れてしまうのだ。しかし今の南川はそれでも家が見たかった。自分の生きた証をどうしても自らの目に焼き付けたかった。もしあの家が今も建っていたら、三年前と同じようにそこにあったら。彼は奇跡を信じて家のある場所へと歩いた。
だがそこにあったのは三年前と似ても似つかない傾きかけたボロ屋であった。南川はこれを見て全ての終わりを悟った。ああ全て終わったのだ。冬の到来を告げる秋風はただ殺風景に吹いていた。
「おい、この詐欺建築士野郎!どの面下げてうちの前に顔出せるんだよ!たった三年で傾くボロ屋作ってからに!おい、弁償しろよお前!逃げんなコラ!」
南川は突然の罵声に顔を顰めて口にタバコを咥えたままコートの襟を立ててその場から立ち去ったのであった。