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染みる言葉

 何もかもを洗い流すにはバーが一番だ。僕らは週の締めを飲み明かそうとなじみのバーのドアを開けた。まぁ、相変わらずの安いバーだ。カウンターの後ろのボトルは酒が発酵しすぎて粉になっちまったってぐらいの貧乏くさいバーだ。客なんかカウンターの端にいるツバ帽にトレンチ姿のチャンドラーの小説の探偵みたいな男しかいない。

 僕と同僚はカウンターの真ん中に座って早速バーボンを頼んだ。いいからそのまんま持ってきでくれよ。氷なんかいらないからさ。今無性に飲みたいんだ。同僚はまだ酒を飲んでいないのに酔っぱらいみたいに早く持ってこいと喚き立てた。僕は友人に釣られておなじように喚いた。マスターは完全に呆れ顔だ。だが僕らはこのバーの上客だから何も言えない。僕らはそれをいいことに激しくテーブルを叩いて早くバーボンマスターをモタモタすんなと急かした。だがその時、

「アンタ方。バーは酒をじっくり飲むところだ。いい年してそんなこともわからんのか」

 と、カウンターの端のチャンドラー男が低い声で注意してきたのだ。僕らはこの透明な蒸留酒のように染みる声に圧倒されて黙り込んでしまった。僕らはすぐさまチャンドラー男に謝った。するとチャンドラー男はにっこり微笑んで言った。

「わかってくれれば別にいいのさ。別にこっちだって酒は黙って飲めとかつまらないことを言うつもりはない。ただあんまり騒がれると酒が不味くなるんでね」

「いやぁ、おっしゃる通りです。場所柄もわきまえず本当にすみません」

 僕と友人はもう一度チャンドラー男に謝った。チャンドラー男はその僕らを大人が若者を嗜めるような顔で見ていた。なんだか仏陀みたいで周りから微かな湯気まででているような感じだった。僕は急にこのチャンドラー男に興味が湧いてきた。

「あの、あなたこの店よく来てるんですか?僕らもこの店よく来るんですけど一度もお会いしたことないですよね」

 チャンドラー男は僕の質問を聞いて笑った。

「君らはまるで世界が自分中心に回っていると思っているようだな。君らがいない時もこのバーは営業しているのだし、ざまざまな人間が出入りしているんだよ」

 僕らはこのチャンドラー男の話を深く頷いた。なんかこの探偵みたいな男は人生を深く知り尽くしているような気がする。友人はチャンドラー男の言葉に感嘆して深い言葉だなぁと言い、それからもっとあなたのお話を聞きたいと頼んだ。するとチャンドラー男は周りからタバコではない妙にいい匂いを漂わせながらそういう話ならいくらでも付き合うよと答えた。

「そういう話ならいくらでも話すさ。時間は限られている。だけど大半の人はその時間の使い方を知らないんだ。だから人は限られた時間を無限であるかのように錯覚するんだ。時間が無限だと錯覚しているから人はカップラーメンが出来上がるまでの時間が酷く長く感じるんだ。カップラーメンが出来上がる時間は通常三分から五分だ。黙っていたってすぐに出来上がるわけだ。だけど人はその時間を長く感じ耐えられず、二分で、場合によっては一分も経たないのにカップラーメンの蓋を開けて食べてしまう。当然ラーメンは生茹でで所々固くてあまり美味くない。逆にその時間の長さに時間の感覚さえ忘れカップラーメンを作っていたことさえ忘れて気づいた時にはスープを吸い切ったフニャフニャの麺を見ることになる。僕はカップラーメンを美味しく食べるにはどうしたらいいかずっと考えていた。そしてわかったんだ」

「わかった?」僕らはごくりとつばを飲んで話の続きを待った。

「カップラーメンはメーカーが指定した時間で食べるのが一番いいってことさ」

 その時どっからかアラームみたいな音が鳴った。するとチャンドラー男は徐にスマホを取り出してアラームを消すとお湯を入れておいたらしいカップラーメンを出して蓋を開けた。するとチャンドラー男はたちまちのうちに湯気に包まれてしまった。

 今静かなバーの中ではチャンドラー男のラーメンを啜る音だけが鳴っている。僕は割り箸でカップラーメンにがっついているチャンドラー男を指差してマスターに聞いた。

「あのこの人カップラーメン食べてるんですけどいいんですか?」

 するとマスターはホントに困った顔をしてこう言った。

「いや、この人いつもこうだから……」


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