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フォルテシモ&ロマンティック協奏曲 第三回:クラシック界の祈り

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 すっかり通い慣れた大振のフォルテシモタクトプロダクションのビルに来たプロモーターは、受付からマエストロは最近全くここに来ていないと返事を受けて思いっきり動揺した。早くしないと金づるが永遠にいなくなってしまう。彼は早速彼の自宅のあるマンションへと向かいそのオートロックキーの部屋番を押して何度も彼を呼び出したが、全く反応はなかった。いつもだったらすぐに出てくるのにこの無視っぷりはどうしたことだろう。プロモーターはふと考えて背中にぞわっとするものを感じた。まさか大振はもう……。いてもたってもいられなくなった彼はマンションの住人がたまたまドアから出てきたのを見て、開いたドアにさっと入り込んだ。それからエレベーターで大振の住んでいる階に向かった。しかしエレベーターは住人を乗せたり降ろしたりして遅々として進まなかった。プロモーターは一刻を争う事態なのにコイツラはと憤慨したが、しかし住人に乗降りするなと怒鳴りつけるわけにもいかない。そんな時一人の住人が乗ってきた。その男はすでに乗っていた男と知り合いらしく早速二人は挨拶をして喋り始めたが、その時すでに乗っていたほうがもう一人にこんな事を聞いた。

「そういえば朝のフォルテシモって最近聞いてないよなぁ~」

「そうだな、一体どうしたんだろうな。俺あれを目覚まし代わりにしていたのに」

「やっぱりか。もしかしたらウチの階まで声が届いていないのかって思ってたけど、高層階の君のところまで届いていないってことはフォルテシモやってないってことみたいだな。ウチのかみさん大振ファンだからずっと心配しているよ。どうしたんだろうな大振」

「まさか、噂通りじゃねえだろうな?なんかいろんなところで出てるだろ?ほら、大振の奴が外国の男だか女に振られとかで自殺するんじゃねえかって」

「おいおいめったなこと言わないでくれよ!そんなことされたらウチのかみさん発狂するじゃねえかよ!」

「いや悪い悪い、だけど何事もなければいいよな」

 プロモーターは彼らの会話からその場面を想像してゾッとした。もう住人なんかかまってられるかと思い、エレベーターが止るとドアから乗っていた人間を全員叩き出しドアの前に立ちふさがってエレベーターに誰も乗ってこれないようにした。そうしてしばらくするとエレベーターは大振の居住階についたのだった。

 エレベーターから大振の居住階に降りたプロモーターはその異様な沈黙にまた背筋がゾワっとした。なんの音もない空間に自分の足音だけがクリアに響く。やがてプロモーターは大振の部屋の前に着いた。ここで彼は立ち止まりゆっくりと深呼吸してドアノブに手を近づけた。

 その瞬間ドアがカチリと鳴った。プロモーターは大振が鍵を開けたのだと思った。マエストロはまだ生きている。彼はそう信じ震える手でドアを開けた。開けた途端に大音量のオーケストラでショパンのあの有名な『葬送行進曲』が鳴り出した。ああ!これは大振がアレンジしたものだ!我が子よ、我が金づるよ!生きていておくれ!プロモーターは大音量の葬送行進曲を浴びながら恐る恐る前へと進んだ。恐らくマエストロはあそこにいるはず。彼はピアノ室の前に立ち止まりドアノブに手をかけた。これもあっさりと回った。そして彼は部屋に入った。とまた別の曲が先程よりも遥かにけたたましく鳴った。ああ!今度はこの間CD発売した彼の指揮によるチャイコフスキーの第六番『悲愴』の第四楽章のアダージョではないか!プロモーターは慌てて大振を探した。ああ!白きベヒシュタインのグランドピアノの上に我が息子、我が金づる、我がマエストロが白装束で正座しているではないか!大振はまっすぐ一点を見つめ辞世の句みたいな事を言い出した。

「時はきた。今、全ての扉の鍵開かん。我果つる時、メールで届けし遺書を読みし者、急せ参じて、我が美しき骸を発見せむ。嗚呼!この悲愴のアダージョ終わりし時、我もまた生を終えん。今アダージョ、最後のフォルテシモ迎えん!」

 その時悲愴のカスタロフが鳴り。それと同時に自らのフォルテシモの絶叫が鳴り響いた。その絶叫を目を閉じて聴き終えた大振は、もはや現世に未練なしと、毒薬入りのグラスを手に取った。

「いざ行かん!黄泉の国へ!」

 我らがカリスマ指揮者大振拓人は今死に赴こうとしていた。幾度も死を思い、しかし自らの死後に待っている全芸術の絶滅を憂いて死を思いとどまってきた男がもはや耐えきれぬと、自らと共に逝く全芸術に詫びながら毒薬入りのグラスを口に持っていった。そして張り裂けんばかりに「フォルテシモぉ~!」と絶叫し毒薬を飲み込もうとしたその時であった。彼は「なにをしているのです!」という声と共に目の前に立っているプロモーターの姿を認めたのである。

「貴様なにゆえにそこにいるか!今すぐここから出ていけ!」

 大振はプロモーターを見るなりベヒシュタインのグランドピアノの上から毒薬入りのグラスをぶん投げてフォルテシモに激怒した。割れるグラスの音と共に毒薬とグラスのかけらがあたり一面に飛び散った。だがプロモーターは怯まず、そのままチャイコフスキーの悲愴を最後まで聴いた後で大振を𠮟りつけた。

「そのような下らない事をするのはおやめなさい!」

「何が下らぬことか!貴様のような芸術を知らぬものには天才の俺の苦悩などわかるまい!俺のイリーナに対するフォルテシモなほど命を駆けた熱情が貴様にわかるか!俺はイリーナとのフォルテシモな恋にすべてを賭けたのだ!だがイリーナはもういない!あの天使はこの日本という地上に俺を捨てて永遠にヨーロッパという音楽の天国に帰って行ったのだ!俺はもうイリーナなき地上に未練はない!俺は本物の天国でモーツァルトやベートーヴェンに挨拶してくるつもりだ!貴様は女ごときに命まで捨てるとはなんと呆れた男だと俺を笑うだろう!笑え!笑うがいい!俺の死と共に芸術は死に、残るは貴様たちのようなつまらぬ俗物どもばかり!さぁ笑え!恋に敗れて自死へと向かうこの最後の偉大なる芸術家大振拓人の死を腹から笑え!」

「いいえ、私はあなたを笑いません!」

 大振はプロモーターの強い言葉を聞いて震撼した。まさかこの金にしか目のない男からこんな心からの強い叫びを聞けるとは思わなかった。

「な、なにを言うのだ貴様!貴様は俺を金づるだとしか思っていないだろうに!」

「いえ、それは誤解なのです。私はあなたに出会った頃からずっとあなたの芸術の信奉者だったのです。それどころかあなたを我が息子とも思い、あなたを世界最高のマエストロに育ててやりたいとも思っていたのです。マエストロ!あなたはまだ世界最高のマエストロにはなっていない!それなの途中で道を終えていいのですか?確かにオペラの舞台でイリーナさんの前でホルストさんと全裸の絡み合いをしているのを見られて振られた事はショックでしょう。私だってそんな恥晒しな事しているのをみんなに見られたら自殺したくなりますよ!」

「バカもの!いちいち詳細を語るな!」

「だけどマエストロ。多くの芸術家はその苦難を乗り越えてきたのです。確かにマエストロのように女を襲おうとして間違って男を襲ってしまったなんてアホな事をした芸術家は他に一人もいないでしょう。だけどベートーヴェンもみんな苦悩の果てにその苦難を乗り越えてきたのです。それにあなたは一つ大事なものを忘れている。それはあなたのファンの事ですよ!あなたは自分を信奉してくれるファンをどう思っているんですか?あなたにすべてを賭けた、あなたしか見えない。そんな哀れな子羊を置いてこの世を去るつもりなんですか?ファンたちはあなたが死んだら我も我もとあなたを追っていくでしょう。あなたがイリーナのいない世界に生きる意味なんてないと思っているように、彼女たちもまた、あなたのいない世界なんで生きる意味なんてないと思っているのです。あなたのファンだけじゃない。世界のクラシックファンはあなたという存在を必要としているのです。先日私はYouTubeである動画を観ました。その動画には世界のクラシックファンの祈りが込められていたのです。今スマホでその祈りの動画を見せます。マエストロ!彼らの祈りを観てあげてください!」

 そう叫ぶとプロモーターはポケットからスマホを取り出して、いまだにピアノの上で正座している大振に突き出した。その途端スマホからとんでもない騒音が流れ出した。大振はふざけているのか突き出されたプロモーターのスマホを叩き壊そうとしたが、騒音の中に聴こえる懐かしきメロディーが彼の手を止めた。

 これは……俺の作ったクラシック史上最高傑作の『交響曲第二番『フォルテシモ』』の第二楽章ではないか!ああ!なんてことだ!ずっと心の中に封印していたこの曲がこんな所で流れるとは!ああ!イリーナ覚えているかい?君はトリスタンとイゾルデの稽古の最中もうイゾルデを演じられないと言って泣き出したね。その時僕はマイシェリ、君の翼は折れていないと言ったのだ!僕は二度と帰らぬあの幸せだった事を思い出しながら曲を書いたのだ!ああ!今聴いても胸が掻きむしられるよ!イリーナ!イリーナ!イリーナ!おや?このピアノの伴奏はなんだ?まるで僕とイリーナの恋を讃えるような、甘く切ないピアノはなんだ?伴奏どころではない。これはバッハの対位法の如きもう一つの旋律ではないか。この俺の曲にまるで蔦のように美しく絡むこのロマンティックに甘いピアノはなんなのだ。まるでショパンかリストが俺とイリーナの恋を祝福しているようではないか!ああ!あまりのロマンティックさに涙まで出てきた。一体このピアニストは何者なのだ。並の、いや巨匠ともいわれるピアニストでも、天才の俺の世界最高傑作の交響曲にこれほどのピアノをつける事はできぬ。ああ!もしかしたらこのピアニストは絶望の淵に沈む俺を救わんと神が遣わした音楽の天使なのか?このピアニストと共演したらひょっとしたら俺は絶望から救われるかもしれぬ!何者なのだ!この者は何者なのだ!大振はプロモーターに向かって叫んだ。

「このピアニストは何者だ!」

 大振の問いにプロモーターは目を瞑り、腕を広げて言った。

「マエストロがよくご存知のあの諸般リストです」

 大振は天使だとも思っていたピアニストの正体が憎っくきバカロマンティックピアニスト諸般リストである事を知って衝撃を受けた。彼は大激怒してプロモーターを怒鳴りつけた。

「しょ、諸般だとぉ!何故奴が俺のフォルテシモ交響曲にピアノの伴奏なんかつけているんだ!」

 しかし大振はここでふと黙って考えた。

「もしかしてあのバカロマンティック男も、俺のフォルテシモ交響曲の虜になっているのか?奴も芸術家の端くれ。俺の交響曲の偉大さをたちまちのうちに理解出来るはずだ!だから心酔のあまりピアノの伴奏をつけたというのか!まさかあの男まで……」

 大振の自画自賛、我田引水の極みの勘違いを聞いてプロモーターはこれはチャンスとばかりに、そうですよマエストロ!諸般もマエストロのフォルテシモ交響曲に心酔しているんですよ、と大嘘を言って一気に大振を取り込もうと思った。だがそう言おうとした途端に大振は「いや違う!」と叫んで激しく長髪を振り乱した。

「あのロマンティックなまでにプライドの高い男が俺のフォルテシモ交響曲を素直に認めるはずがない!俺は奴の性格をよく知っている。奴は自分が一番でなければ気のすまぬ男。俺のフォルテシモ交響曲のような真の天才の作品を聴いてもなお、自分が天才と自称し、その中身のないロマンティックなピアノを世界最高の芸術と言い張る男!そのような男が俺の交響曲にピアノなどつけるはずがない!おい、貴様!正直に言え!これはなんだ!何故俺のクラシック史上最高傑作であるフォルテシモ交響曲と奴のロマンティックすぎるバカピアノ曲が一緒になっているんだ!答えろ!」

「ああ!」とプロモーターはいきなり絶叫した。そして胡散臭いまでにキラキラした目でこう語り出したのだ。

「これはあなたを救わんと願うクラシック界の祈りです!今死なんとしているマエストロを救いたいという全クラシックファンの心が生み出した祈りの動画なのです。絶望の淵にあるあなたを救えるのはあの諸般リストしかいない。そうファンたちは考えてあなたの曲と彼の曲を一つにしたのです!」

「ふざけるな!何故フォルテシモな天才の俺があんなこけおどしのロマンティック野郎に救ってもらわなくちゃならんのだ!そんな屈辱を受けるぐらいだったら死んだ方がマシだ!」

「だがマエストロはさっき彼のピアノを聴いて涙を流したではないですか!そして私にまるで救いを求めるかのようにピアニストの正体を尋ねたではないですか!マエストロ、あなたはもう気づいているはずです。自分を救えるのは諸般リストのピアノしかいない事に!」

このプロモーターの言葉を聞いて大振は号泣のあまりベビシュタインのピアノの上を思いっきり転がり回った。だが思いっきり過ぎてとうとう床に落ちてしまった。プロモーターは崩れ落ちた大振に手を差し伸べた。そのプロモーターに向かって大振は泣き叫んだ。

「俺はどうすればいいんだ!」


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