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なぜ私はnoteを書き続けるのか

 これはnoteだけじゃなくてどんなとこでもそうですが、大体はよくあるパターンとして自分の書いた記事が最初の一時期だけ注目されて、だけどそのあとは下り坂になってしまい、ついに誰も読まなくなっていってしまうケースがあります。まぁ人気の人以外全員、私など元々人気もありませんでしたが、そうなのでしょう。自分も知るのが怖くてレポートの類は全く見てませんが、スキがメッキリ減った事を見ると昔に比べて大して読まれていないのでしょう。継続は力なりという言葉がありますが、自分は無料でやっていますので別に記事が読まれたところでなんの力になりません。しかしそれでもこうしてアホみたいな記事を皆様のお目を汚しまくっている事を承知しながらも飽きもせずこうして書いているのはやっぱり読まれたいより自分が何かを吐き出した思いが強いからだと思います。

 皆さまの記事は私の駄文を遥かに下回る底の底の駄文と違い非常に意識が高く、文章だって私などが一生かかっても到達できないほど美しいものです。私もそういうものを書きたくはありますが、残念ながら私にはその才能も思考力もまるでなく、唯一書けるのは蚊の鳴く音のようなしょうもなく情けない意識の底をぬけたような駄文だけです。こんなまるでゴミにすらならない駄文を書いているのはひたすら不毛な行為ですが、ありがたい事に自分にとってはその不毛な行為が自身の生活と精神を満たしているように思えるのです。まぁ、いきなり話が大きくなりますが、この我々が生きているこの瞬間だって生命のサイクルからして、あるいは宇宙の歴史からして不毛ではあるのです。人間は生まれてから死ぬために生きているものだし、宇宙の大半は無機物でできているのです。あらゆる生命なんて実は例外中の例外であってもなくてもどうでもいいものだったりします。だけどその中でもやっぱり生命ってのはエゴが強くて死を覚悟したとしても死に際において生命の本能に従って死に争うものです。私は石原慎太郎には全く興味はありませんが、彼が死に際にひたすら死ぬ事に怯えていたという話は興味を覚えました。彼のそのエピソードをあれほど偉そうなこと言って結局このザマかと笑う人はいましたが、私にはとても笑えません。やっぱりそれが人間を含めたあらゆる生命体の本能だと思うからです。多分神様も奇跡もそういう死に怯える人間の本能が産み出したものなのでしょう。私は宗教の類は全く認めていない人間ですが、そういう心情はよくわかります。人間が死んだらただ無機物になるだけと粋がってもいざ自分がそれに直面したらやっぱり怯えて神様にでも縋りたくなるでしょう。

 こうしてせっかく休日を無駄にしてこのしょうもない駄文を書いてきましたが、そろそろ締めに入りたいと思います。私がこの今もこうして誰も読まない駄文を書いているのは多分上に書いた人間の本能に従ってのことだと思います。ゴミはゴミでもゴミにしたくない。そんななまむぎなまたまごみたいなつまらないプライドがこうして私を駄文に向かわせるのでしょう。ふと思いつきで皆さまの目と頭に苦痛を強いる駄文を書き連ねて来ましたが、とにかくnoteを書く理由はこんなとこです。

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