カリスマ指揮者、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を振る!
第一幕:愛の媚薬
三度でも四度でも言うが、大振拓人は日本の若手最高の指揮者であり、将来は日本どころか世界のクラシック界を背負って立つ人物である。そのフォルテシモな指揮とパフォーマンスは確実にクラシック界に革命を起こし、クラシックを新たな次元にまで高めた。チャイコフスキーの『悲愴』はもう彼のバレエと絶望に満ちたフォルテシモの絶叫なしでは聴けないものになったし、またベートーヴェンの第九も彼の髪を振り乱したフォルテシモな熱い祈りと四回転ジャンプなしには聴けないものになった。このようにクラシックのあり方さえ変えてしまった男は二十代にして確実に世界の巨匠への道を歩んでいた。
しかしどんな世界にも逆張りと言うか素直に大振の偉大さを認めない人間というのがいて、彼らはこんな事を言ったりしていた。曰く『ただフォルテシモって喚いてるだけで巨匠扱いされるんだから指揮者なんて安い仕事だぜ』『大振拓人ってロマン派しか振れないじゃん。あいつのベートーヴェンだって結局はロマン派以降の解釈でしょ?』『大振の振ったバッハの『トッカータとフーガ』はホントにひどかった。バロック音楽を後期ロマン派みたいに振るんだぜ』ああ!何という中傷と誤解であるか!大振はフォルテシモしか出来ないというのは便所の落書きレベルの中傷であるし、ロマン派しかできない、なんでもロマン派みたいに振ってしまうというのは大振拓人を完全に理解していない発言である。大振はむしろロマン派以外の音楽に価値などないと思っている人間で、彼はむしろその価値のない音楽を音楽をロマン派の崇高な高みにまで持ち上げてやっているのだ。彼の演奏した『トッカータとフーガ』は雷の如き激烈な神の啓示であったし、ヘンデルの『水上の音楽』も嵐吹きすさぶ荒れた海上で鳴る轟音であった。フォルテシモにロマンティック。これこそが大振拓人のクラシック音楽に対する姿勢であり、そのあまりに過激な姿勢はもはやアヴァンギャルドとしかいえないものであった。
次に『大振は重苦しい交響曲や管弦楽曲しか振れない』『なんだか暗いから好きじゃない』というのもあるがこれも完全に大振の音楽活動を知らずイメージだけで語っている典型的な意見である。大振は時たまであるが軽快な曲もちゃんと振っているのである。ロッシーにのオペラの序曲、チャイコフスキーのバレエ音楽『くるみ割り人形』の組曲、運動会には必ず使われるオッフェンバックの『天国と地獄』大振は親子限定のコンサートでよくこれらの曲を演奏していたが、生来子供好きであった大振は会場の子供たちを喜ばせようと、演奏中にボサボサの髪の下から危険な程目を剥いてニッコリとこれまたうっかり近づいたら舌なめずりされそうなほど危険な笑顔で指揮棒を振りながら子供に向かって駆け寄ったが、当の子供たちは彼を本気で怖がって一斉に泣いて逃げてしまった。流石の大振もこの出来事に深く傷つきしばらくは立ち直れなかったと聞いている。しかし大振の軽快な曲における指揮は非常に溌剌としたものでありこの子供向けのコンサートで彼は交響曲の時と打って変わって陽気にフォルテシモと何度も叫んでいた。大振のフォルテシモは意外にも汎用性があり何にでも使えるのだ。重苦しい交響曲のクライマックスにフォルテシモ、官能的な曲のクライマックスにフォルテシモ、激しい曲のクライマックスにフォルテシモ、軽快な曲のクライマックスにフォルテシモ、まるで大振はフォルテシモを味の素のように使って曲の旨みを一段階上に引き立てていたのである。
さて、そんな大振拓人の元に今回またもや大きな仕事が舞い込んだ。今回は今までの大振の仕事の中で一番大きなものである。なんとワーグナーの最高傑作にしてスキャンダラスな楽劇『トリスタンとイゾルデ』の指揮であったのだ。流石の大振もいきなりのこの依頼に興奮して前のめりになって思わずそれは真実なのかと聞き返した。大振は常々ワーグナーのこの作品をロマンティックの究極とフォルテシモに賞賛しており、自分もいつかこの指揮棒でフォルテシモに指揮したいと思っていた。ここで大振とオペラとの関わりについて少し説明する。大振は今までオペラを一度も振った事がなかったが、それは指揮者の自分が主役になれないオペラを嫌って拒否していたわけではない。逆に自分の情熱的な指揮棒でディーヴァ達を輝かせてやりたいとさえ思っていた。しかし、彼のいるこの日本には自分の理想とするディーヴァはまるでおらず、いるのはもはや牛とも豚とも馬ともつかぬ顕微鏡で確認してやっと生物学的に雌だと確認できる連中ばかりだったので、オペラに対する熱い思いを抱えながらも泣く泣くオペラを指揮することを断念していたのであった。
しかし今回の楽劇『トリスタンとイゾルデ』のイリーナ・ボロソワとホルスト・シュナイダーというヨーロッパで人気浮上している気鋭の歌手を日本に呼んで主役に据えたものであり、その他キャストも日本で活躍している外国人歌手がメインを占め、我らが日本の顕微鏡で見なければ人間だと識別出来ないような歌手たちはただの端役であったので、大振は俄然乗り気になった。
イゾルデ役のイリーナ・ボロソワはチェコ出身でドイツを拠点に活動している最近急激に人気が出てきた若手のディーヴァであり、その清澄なソプラノからドスの効いたアルトまで自由自在に出せる歌唱はヨーロッパ=アメリカの各国のマエストロたちに寵愛されていた。彼女はドイツやフランス物のオペラを中心に幅広く出演しているが、ワーグナーのオペラは今回初めて出演する。彼女はオペラ歌手としては非常にスタイルが良く、時たま広告モデルになる他、ポピュラー歌手としても大活躍していた。ポピュラー歌手として昨年に出したアルバムは、EDMやラップにも挑戦したクラシック歌手の余技としてはかなり意欲的なアルバムで、ヨーロッパではヒットしてゴールドディスクを取った。
もう一人のトリスタン役のホルスト・シュナイダーは恰幅の良すぎるビールっ腹の陽気なバイエルン男であり、その腹から出る朗々としたテノールはいかにもオペラ歌手らしい堂々としたものだった。彼はイリーナとは違いワーグナーのオペラによく出演しているが、『トリスタンとイゾルデ』をやるのは彼も今回初めてであった。
プロモーターから両歌手の宣伝資料を見せられた大振はイゾルデ役のイリーナ・ボロソワの美しさに思わず見惚れてしまった。写真の中の透き通るような白い肌とプラチナブロンドの典型的な東欧美女は、気の強そうな性格を丸出しにしたブルーの瞳で彼を見据えていた。大振は彼女の美貌の顔に東ヨーロッパの苦難の歴史を生き抜いた女の強さを見て、この女は自分のディーヴァに相応しいと思った。大振はそれからトリスタン役のホルスト・シュナイダーの宣伝資料を見たのだが、見た瞬間激怒して資料を丸めて壁に投げつけてしまった。
「なんだこのデブは!こんな奴がイゾルデ役の恋人をやるのか!」
と、いきなりトリスタン役のデブさ加減にフォルテシモにブチ切れてしまった大振拓人であったが、しかしそれが自らの指揮でディーヴァであるイリーナ・ボロソワを輝かせてやりたいという願望を萎えさせるはずはなく、トリスタン役のデブは無視してもっぱらイゾルデ役の彼女のためだけに契約書にサインをしたのであった。
そうしてすぐに公演の開催への準備が始まり、あっという間に公演の詳細が決まった。今回の公演は本格的なグランドオペラ公演なので東京芸術劇場で行われる事になった。そうして詳細が決まると早速チケットの販売が始まったが、チケットはヨーロッパで人気の新進気鋭のオペラ歌手が客演するという話題性と、何より大振拓人が初めてオペラを振る、しかもワーグナーのトリスタンとイゾルデを振るという事が評判を呼んでチケットはあっという間に売れてしまった。Twitterやインスタでは女性たちのフォルテシモの言葉と共にチケットの当選の報告が相次ぎ、チケットを購入出来なかった女性たちは悔しいと喚いて当選者に突撃して荒らしまくった。
そんな阿鼻叫喚状態の中、トリスタンとイゾルデ役のご両人が揃って羽田空港に降り立った。大振は諸般リストの時と同じように燕尾服を着て大勢のマスコミを引き連れて二人を待っていた。やがて二人は揃って空港に現れたのだが、二人は大勢の東洋人の中に一人だけ燕尾服を着ている背は高いが彼らからしたら少年にも見える大振拓人を見て思わず吹き出してしまった。「あれが僕らのマエストロかい?まだ子供じゃないか」「なんか可愛いボーイね、どんな指揮をするのかしら」「君、彼にスティックの扱い方を教えてあげたらどうだい?」「ホルストやめて。私が下品なジョーク嫌いなの知ってるでしょ?」とまぁ散々大振をバカにしながら大振に近づき挨拶したのだが、大振は実際に見るイリーナの美しさに見惚れてしまいろくに喋る事も出来なかった。
翌日空港のホテルで出演者一同による楽劇『トリスタンとイゾルデ』の記者会見が行われたが、今回はヨーロッパで人気のスターを呼んだという事情により会見の席の中央は大振ではなくて主演の二人だった。今回の会見では大振は珍しく大人しくいつもの大言壮語的な発言を全くしなかった。それどころか自分はこんな素敵なキャストで指揮を振る事が出来て光栄だと妙に殊勝な事まで言った。ホルストはそんな彼をせせら笑い、嫌味ったらしく僕らがこの若きマエストロをちゃんとあんよが出来るぐらいにサポートして舞台を成功させてやりますよとフォルテシモに侮蔑的な事を言ったが、それでも大振は怒らず黙っていた。しかし、記者がポピュラー歌手としても活動するイリーナに対してクラシックとポップスの違いはなんですかという当たり障りのないどうでもいい質問をした時、今まで借りてきた猫のように大人しかった大振がいきなり激昂してドイツ語でイリーナを怒鳴りつけたのである。
「ポップス?ポップスだって?お前はポップスなんて低脳児向けのゴミカス音楽をやっているのか!」
ああ!大振の見た宣伝資料には当然のことながらイリーナのポップス歌手としての経歴が全く書かれていおらず、大振はこの理想のディーヴァがポップス歌手なんて河原乞食みたいな事をしているのを全く知らなかったのだ。この思わぬ大振の一喝にイリーナは固まり、先程まで大振をバカにしていたホルストも驚きのあまり目を剥いて大振を見た。関係者たちはまた大振が荒れるかとヒヤヒヤものだったが、幸い荒れる事はなく、ものすご~く気まずい雰囲気のままとにかく会見は無事に終える事はできた。だがまたしかしである。その会見の後の晩餐会の席でカメラの前で思いっきり侮辱されたイリーナはその屈辱に耐えきれずとうとうチェコ訛りのドイツ語で大振を怒鳴りつけたのだ。
「あなたあれはなんなのよ!なんの権利があって私をあんなにも侮辱できるのよ!」
「侮辱だって?俺はオペラ歌手のお前がポップスなんてゴミカス音楽をやってクラシックを侮辱しているから怒ったまでのことだ!侮辱しているのはむしろお前の方だ!」
と大振は自分を怒鳴ってきたイリーナに対してキッパリと中学から高校時代にかけてホームスティ先のベルリンのネオナチっぽいドイツ人から学んだ本場仕込みの完璧なドイツ語で怒鳴り返してやった。
「何が侮辱よ!私はクラシックもポップスも両方好きなのよ!それをやるのがどうしてクラシックへの侮辱にあたるのよ!大体あなたはポップスをゴミカス音楽とかいうけどそれってただのあなたの考えでしかないでしょ?世の中はもっと広いのよ。ポップスだって千差万別で、中にはクラシック以上に芸術的な高みを持っている物だってあるのよ!それを知りもしないで一方的にポップスを中傷するなんて!」
「うるさい黙れ!俺がポップスをゴミカス音楽と言ったらそれは間違いなくゴミカス音楽なんだ!全ての物事の価値を判断し決定するのはこの俺だ!」
「だからそれを他人に押し付けないでって言ってるの!」
「バカめ!俺はお前に価値観を押し付けてるわけじゃなくてそのお前の誤った価値観を正してやってるだけだ!」
イリーナのあまりに常識的な抗議に大振は無茶苦茶な主観丸出しの事を言ってこれに応じた。二人は互いの主張を一歩も譲らず晩餐会の最後まで罵り合っていたが、関係者はこの二人の罵倒合戦をもしかしたら公演自体が危うくなるかもと思ってヒヤヒヤもので見ていた。
またまたしかしである。晩餐会の翌日キャストと関係者一同の顔見せに出てきたイリーナ・ボロソワは妙に顔を赤らめて大振拓人の元にしずしずと現れるとなんと目を潤ませながら昨夜の事を詫び出したのである。
「マエストロごめんなさい。昨夜は興奮しすぎてしまって……」
対する大振も昨夜とは打って変わって傲慢ないつもの彼からは全く想像も出来ないほど殊勝な態度でイリーナに応じ、言葉短く「……こちらこそ礼を失してすまなかった」と同じように目を潤ませて顔を真っ赤にして昨夜の無礼を詫びた。これを見てその場にいたものは誰もが大振とイリーナが一目惚れをした事を勘づいたのだった。
ああ!それはあまりにもフォルテシモにあからさまであった。大振はイリーナをパーティの終わりまでフォルテシモに人格を全否定するほど罵ってホテルの自室に戻った後、急に胸がキュンとなるのを感じたのであった。自分を罵倒するイリーナのチェコ訛りのドイツ語の息遣いが浮かんできて胸が苦しくなった。ああ!彼女はまさしく東欧の女。その美貌の下にドヴォルザークのあの無骨な農民の顔を隠していた。ああ!大振は今生まれて初めて恋愛感情を覚えた。この自分しか愛せない男が、この愛されるだけでベッドはいつもマグロな男が、遠きヨーロッパの地から日本にやってきた年上の東欧女によってついに愛に目覚めさせられたのだ。
イリーナもまたこの自分より若い東洋人と激しく言い争う中で自身の確実に間違っている主張をテコでも撤回しないその強靭な精神をまともに受けて昔から愛読していた三島由紀夫の小説に出てくるサムライの姿を思い出した。サムライみたいな顔で子供のくせに生意気ことばかり言って!こんちくしょうと悔しがりながらもいつの間にか大振に惚れてしまっていたのだ。イリーナは大振に謝った後その場にいた者たちに向かってこう宣言した。
「私はマエストロ、タクト・オオブリに全てを捧げます。必ずやマエストロがこの舞台を成功に導いてくれるでしょう。ですから皆さんも私と一緒にマエストロ大振に全てを託してください!」
そのイリーナのフォルテシモな宣言に対して大振もさらにフォルテシモを重ねてこう宣言する。
「僕も指揮者として、ヨーロッパという音楽の天国から降りてきた天使イリーナ・ボロソワのために命を賭けて指揮をするつもりだ。だからみんなイリーナの言う通りこの舞台を成功させるために僕に全てを預けてくれ!」
ああ!二人はこの時点で自ら上演するオペラトリスタンとイゾルデのように愛の媚薬を飲んでしまったのだ。二人は今、愛の媚薬の快楽が体に広がりゆくのを感じながら未知なる愛の世界へと旅立たんとしていた。
第二幕:愛の戒め
こうしてオペラの上演に向けて稽古が始まった。大振の稽古はいつも通りフォルテシモな罵倒が飛ぶ凄まじいものだったが、どういうわけかイリーナに対してはありえないぐらい甘かった。ホルストを始めとした出演者がちょっとしたミスをするとすぐ髪を振り乱してやってきて首元に指揮棒突きつけながら今度失敗したら命はないと思えとかとんでもない事をいうのに、イリーナがミスをしても「いいんだよ。天使が失敗することだってある」と真逆のベタ甘な対応をし、イリーナが稽古中に演技が出来ないと泣いた時などドイツ語どころかフランス語で「マシェリ、我が天使よ。君の翼はまだ折れたわけじゃない」とかいつも理不尽に怒鳴られている他の連中が殺してやりたいと思わせるようなベタ甘なセリフを言って励ました。他の連中がイリーナのように励まされようと泣きながら同じことを言っても「ふざけんなこのブス!お前はそんな事言う前にダイエットでもしとけ!」と一喝して黙らせるだけだった。
大振は愛するイリーナのために最高の舞台を用意しようと猛烈にフォルテシモにフォルテシモを重ねた。イリーナ以外のホルストたち出演者へのありえないぐらいのフォルテシモな罵倒。オーケストラへのこれまたありえないぐらいのフォルテシモな罵倒。彼はオーケストラとの練習にイリーナを呼ぶと彼女の目の前で演奏して感想を聴くのだった。今の彼にとって天使イリーナの反応が全てであった。このディーヴァがちょっとでも怪訝な顔をするとオーケストラの団員をフォルテシモに滅多打ちにしてさらなるフォルテシモな地獄の試練を与えるのだった。
しかし彼が最高の舞台を作り上げるためには最大の障害をクリアしなければならなかった。それはイゾルデ役を演じるイリーナの相手役のトリスタンを演じるホルストであった。この陽気なドイツの百貫デブはただ歌ってればいいと考えるような脳天気なデブで、稽古が終わると毎夜ビールとウィンナーを齧っているような男だった。大振はこのデブが自堕落な生活を送っているのを苦々しく思い、毎日お前はそれでもトリスタンか!イゾルデを恋人にする騎士か!と罵ったが、ホルストは完全にこの東洋人を舐め腐っており、ヨーロッパで活躍している俺がこんなガキの戯言に付き合ってられるかと言ってふんぞり返っていたが、彼はなんといっても名声と実力のある歌手だったし、彼と長年の付き合いのあるイリーナも大振に対してあまり彼に強く当たらないでと懇願していたので、さすがの大振も決定的な事は言わなかった。しかしイリーナは大振の美学に影響されはじめだんだんホルストの存在が厭わしくなって来た。彼女は大振に対してやっぱりホルストのデブさと体臭が我慢できなくなった。昔から嫌だったけど今はもう耐えられないと泣いて懇願しはじめた。それを聞いて大振は我がディーヴァのためになんとかしなければと思いとうとうホルストにダイエット通告を出した。今後ダイエットに成功しなければお前を首にして代わりのトリスタンを呼ぶと言ったのだ。
この理不尽な通告に怒ったホルストは早速当オペラの総合演出家であり友人でもあるヨハネス・ビューローに抗議した。彼はビューローに向かって自分を選ぶか大振を選ぶか二者択一を迫ったのである。ホルストはヨーロッパで人気の自分とあのお調子に乗り過ぎのジャップの若造のどちらがいいか友人であるあなただったらすぐに分かるでしょうと訴えた。ビューローはいきなり突きつけられた事態にどう対応していいかわからず迷っていたが、そこに大振とイリーナが現れてビューローに対してこちらも今すぐきかん坊のホルストをクビにしろと迫ったのである。大振はビューローに向かって本場仕込の完璧なドイツ語でこう切り出した。
「Herrビューロー。あなたはこの百貫デブのホルスト・シュナイダー氏の意見を受け入れる前に冷静にシュナイダー氏の体格を見て氏が本当に今回我々が上演する『トリスタンとイゾルデ』にふさわしいか考えるべきだ。氏は自分がデブだと自覚がないのか、既に痩せることを諦めているのか、稽古が終わると毎夜六本木のドイツレストランでビール片手にウィンナーにしゃぶりついているのだ。こんな自堕落な氏がトリスタン役を演じたら墓場のワーグナーはなんと思うだろう。我々が提供しようとする舞台がこの百貫デブ一人によってぶち壊されてなるものか!Herrビューロー。今すぐ氏をクビにするか、あるいは氏にダイエットを命令するかどちらかに決めてください!我々だって鬼ではない。シュナイダー氏が大人しく自堕落な生活を改めダイエットすると確約するなら決して氏を追い出したりはしない!」
大振のこのフォルテシモの極みの大演説にその場にいた一同圧倒されてしまった。大振の隣で聞いていたイリーナなどもう完全に同意して深く頷いている。その皆の視線を感じたこの現代ドイツを代表する劇演出家は、皆からの冷たい視線を一身に浴びていて泣いている友人ホルストの肩を叩いて苦痛に満ちた顔で通告した。
「ホルスト、いますぐダイエットを始めろ」
こうしてホルストにダイエットすると確約させ誓約書まで提出させた大振は完全にこの劇の独裁者となった。彼は我がイゾルデであるイリーナを輝かせんがために舞台美術や劇の演出にまで首を突っ込みヨハネス・ビューローに向かってこんな演出じゃ我が天使イリーナは輝かない!全体の演出はあなたに譲るがイリーナの演出だけは僕が全部やりたいとまで言い出した。当然ながらこんな無茶苦茶な要求は通るはずはなかったが、ビューローは大振の剣幕に恐れてアイデアを出してくれたら採用する事も考えると言ってなんとか彼を宥めた。
上演が近づくにつれて大振の稽古はフォルテシモなまでに苛烈なものになっていった。彼はオーケストラとホルスト以下キャストを搾りかすが出なくなるまでフォルテシモに、徹底的に絞りつくした。しかし大振のイリーナに対する態度は全くといっていいほど変わらなかった。相変わらずイリーナを天使だディーヴァだ、果てはミロのヴィーナスだと褒め称え彼女のやる事はなんでも持ち上げた。イリーナも彼を喜ばせんと理想のディーヴァとなり彼を狂喜させたが、その二人を見て他のキャストは自分たちとのあまりの待遇の違いに猛抗議した。大振はそれらの抗議に対してイリーナは本物のディーヴァだ。刺身のツマでしかないお前ら程度が抗議するなんて一京年早いとバッサリ切り捨て、今後こんな抗議したらお前らをクビにしてやると脅しつけた。
これに反発した一部の日本語バリバリの出演者はTwitterで匿名で大振拓人とイリーナ・ボロソワが出来ていることと、そして大振が自分たちキャストを無視して舞台を我が物顔で仕切っている事を告発したのだった。この告発は思いっきり炎上してTwitterのトレンドに上がったが、クラシックファンが騒ぎ立てたのは大振とイリーナが出来ているという部分だけであり、告発のメインである大振の仕切りについてははっきりいってどうでもいい事にされた。大振が独裁的なのは彼の性格からして当たり前であり、その妥協を知らない独裁っぷりこそ彼の美点の一つだったからである。
さて大騒ぎになっている大振とイリーナが男女の関係にあるという一文だが、これも大振はあまり責められていなかった。確かに大振に対してバカな外人に騙されやがってという批判はあった。だが、それよりもはるかに自分たちから大振を寝とったイリーナへの批判が爆発していたのである。曰く『チェコだかチョコだかわからない国のビッチに騙された拓人がかわいそう!』『そのイリーナ・ボロソワっていうボロの服きたビッチは人生の一発逆転を狙って私たちの拓人に近づいたのよ!恥を知らない外人ほど怖いものはないわ!』
イリーナ・ボロソワは英語でも書かれていたこれらの自分への中傷ツイートを見て激しく落ち込んだ。ああ!私と大振は純粋に舞台のために頑張っているのにどうしてこんなにまで言われなくてはいけないの?私が東欧育ちのビッチですって?私のこともよく知らないくせに!彼女は自分がビッチでない事を証明するために自分の主演したカルメンのオペラの動画とポップスで一番売れた曲のPVを上げたが、カルメンはまさしくビッチそのものが主人公のオペラであり、ポップスのPVは下着姿でセクシーに腰をくねらせながら歌っているものだったので完全に逆効果になってしまった。コメントではビッチビッチとの言葉が全言語で並び彼女をさらに苦しめた。稽古場でもイリーナは孤立してしまった。イリーナの演技に皆はわざとらしいほどの棒読みで応じ彼女を激しく悲しませた。大振はこれに激怒してキャストとオーケストラ全員を集めて叱り飛ばした。
「誰がTwitterにこんな馬鹿げた事を書いたのかそれはここでは問わない。だが僕はここにいるであろうその匿名の卑怯者に言ってやる!まず、最初に弁明させてもらうが、僕とイリーナは男女関係などなく全く純粋に芸術で深すぎるほど深く結ばれた同士としての関係なのだ!僕らは二人で理想であるトリスタンとイゾルデを極めんとしていたのだ!確かにその僕らのあまりにレベル高く芸術を求める姿は君たちのような凡庸な人間には僕らが男女の関係にあると邪推させるものがあったに違いない。だから僕はここで宣言しよう!僕とイリーナの関係は純粋に芸術で結ばれた関係だ!君たちもそれを理解したかったら嫉妬のあまりくだらない暴露なんかするより僕らのレベルまで己が芸術を高めるよう努力してみろ!」
この大振拓人の大振りに振りかぶった大演説にキャストとオーケストラは皆何も反論できなかった。それは勿論この無茶苦茶にも程がある自分たちへの軽蔑丸出しの言葉にではなくそれを語る大振の激しすぎる身振りに圧倒されて黙り込んでしまったのである。大振はこの演説の最中指揮棒を何度も叩きつけ、十本以上指揮棒を折った。それぐらい大振の演説は凄まじかったのだ。
大振の大演説以降イリーナいぢめはなくなり他のキャストも普通に演技するようになったのだが、しかしイリーナの孤独は却って深まってしまった。いくらいぢめられなくなったとはいえ、他のキャスト達は相変わらずよそよそしく、長年の付き合いのあるホルストも減量の後遺症に苦しんでおりイリーナどころではなかった。孤独に悩んだイリーナはついに大振に向かってイゾルデ役を降りたいと言い出した。やっぱり私はこのオペラに相応しくない。頑張れば頑張るほど自分が孤立していくように感じる。いっそオペラ歌手なんかやめてチェコの田舎に隠棲したいと涙ながらにイリーナは語ったが、大振はそんな彼女を励ますために必死で覚えたであろう片言のチェコ語でイリーナ、クジケナイデと声をかけた。この大振のチェコ語を聞いてイリーナは号泣してしまった。久しぶりに聞いた懐かしい祖国の言葉を遠く離れた日本で聞くなんて。しかもその言葉を自分より年下の生意気な東洋人が辞書を引いて必死で覚えた片言で言ってくれてるなんて。ああ!マエストロそんなに熱い目で私を見ないで!大振はイリーナをフォルテシモに熱い目で見つめダメ押しのように再び片言のチェコ語で囁いた。
「コノクナンヲ、ヤマトダマシイデ、ノリコエルンダ!」
イリーナは涙を流しながら大振に向かって何度も頷いた。「ああマエストロ!私ヤマトダマシイで演り抜くわ!」そう天井に向かって叫んだイリーナは大振に手を引かれて立ち上がった。彼女の肩を抱いていた大振は指揮棒を天に掲げた。それを合図にライトが二人を照らした。ライトに照らされた大振はイリーナを抱きながら指揮棒をゆっくりと振りはじめた。するとオーケストラがワーグナーの『ジークフリード牧歌』を奏で始め、ホルストたちキャストもそれに合わせて大振がドイツ語の歌詞と歌メロを書いたイリーナを讃える歌をイヤイヤ歌い始めた。『天使イリーナよ。いざ我らがもとに帰らん。そしてその羽根で我らを雨から守り給え』イリーナはこの大振の予想できないフォルテシモなプレゼントに再度号泣して彼の胸にしなだれかかった。
大振拓人はこうして力技にも程があるぐらい力技で身内の問題を解決すると、今度は各マスコミに向けて改めて自分とイリーナはあくまで芸術で結ばれた物同士で男女の関係ではない事を書いた釈明文を送りつけた。大振ファンたちはこの釈明文に一安心し、イリーナにいくらビッチに見えたからといってビッチだと言ってごめんなさいと謝罪の言葉としてそれはどうかという文章を送りつけてとにかく謝った。しかしこの釈明文を出したことで大振とイリーナは逆に身動きが取れなくなってしまった。ああ!大振が言った言葉は真実であり偽りでもあった。確かにイリーナとはまだ男女の関係ではなくあくまで芸術を通して精神的に結ばれていた関係であった。だが、二人はその精神的な関係の中で愛をしっかりと育んでしまっていたのだ。しかし、二人は芸術だけの関係だと釈明文に出したことで二人は世間に対して自分たちは百パーセント芸術で結ばれた関係である事を証明し続けなくてはならない羽目になってしまったのだ。
第三幕:愛の死 前編
大振拓人とイリーナ・ボロソワはもはや稽古場以外では会えなくなった。自分たちの関係は芸術のみで結ばれた関係という声明文を守るために二人は互いの思いを封じ込めねばならなくなった。愛の媚薬を飲んだこの二十一世紀のトリスタンとイゾルデは、王ではなく逆に大衆を騙すために自らを厳しく律したのであった。だがそれは若き大振にとって甚だしい苦行であった。この生まれて初めて女を愛した男は、その溢れんばかりの想いは封じ込める事に耐えられず、想いのはけ口としてトリスタン役のホルスト・シュナイダーを徹底的にいぢめぬいた。彼はホルストが記者会見で自分をバカにしまくった事を決して忘れていなかった。彼は今更それを持ち出して稽古中に減量失敗で苦しんでいるホルストをねちっこくいじめぬいたのだ。貴様は記者会見で俺をあんよが出来ない赤ん坊だとぬかしただろ?そのあんよが出来ない俺がこんなに痩せてスタイルもいいのに、大人である貴様はどうしてダイエットすら出来ないのだ?貴様は本当にヨーロッパで人気があるのか?ヨーロッパだったら貴様のような自堕落なデブは銃殺刑にされているはずだが。等と彼らしくもありなくもあるフォルテシモな嫌味と罵倒を投げつけた。しかしある日の事である。突然イリーナがホルストの前に立ちはだかっていぢめはやめろと訴えたのだ。
「マエストロ!この哀れな子豚をいぢめるのはやめて!彼も努力してダイエットしている最中なんだから!」
イリーナは大振にこう訴えると体を丸めて泣いているホルストを抱きしめた。それを見た大振は愕然として崩れ落ちた。な、何故我がイリーナがホルストみたいなデブを抱いているのか?ああ!やはりイリーナも白人史上主義なのか?黄色人のイケメンより白人のクソデブを選ぶレイシストなのか?ああ!イリーナよ!お前は、お前は!大振は絶叫して稽古場を飛び出してしまった。絶叫しながら駆ける大振の頭の中にいろんなイリーナが浮かんでは消えた。歌うイリーナ、潤んだ目で見つめるイリーナ、天使のような笑みで微笑むイリーナ、涙ぐむイリーナ、怒るイリーナ。あれは全部嘘だったのか!このクラシック界最大の天才で果てしなき美形の俺より、あんな白人の豚を選ぶなんて!ああ!大振は初めての恋に混乱していたのだ。この愛されることしか出来ず、いつもベッドでは全て女任せで、女がおもらしをしたとき時には喜ぶどころかたわけめ!とフォルテシモに怒鳴りつけていた男が、この前代未聞の事態に対してどうする事もできずただ喚き散らすことしか出来なかった。
一方イリーナは去りゆく大振を悲しい目で見つめていた。タクトごめんね。こうしなければみんなを騙せないわ。せめて舞台が終わるまでは。ああ!イリーナは大人であった。ヨーロッパの音楽界でそれなりに浮名を流したこの女は精神的な童貞である大振よりはるかに恋を知っていた。彼女は発狂して自分の元を去る大振を見て、昔童貞を下ろしてあげたことのあるウィーン少年合唱団の団員の一人を思い浮かべた。彼もあんな風に突然発狂したりしていたわ。ああ!だけどどうしてこんなに辛いの?合唱団の団員の時はただ少年の反応がおかしくて笑ってたぐらいなのに。ああ!誤解しないでマエストロ!ただみんなを騙すためにこのクソデブに優しくしているだけなのよ!と、その時胸元のホルストが荒い息をして自分の胸に吸い付いてきた。イリーナは激怒してこのクソデブめいくら知り合いだからって赤ちゃん遊びなんかするんじゃねえとチェコ訛のドイツ語で叫んでホルストをフォルテシモでボコッボコのボコッボコにした。
キャストやオーケストラの面々は発狂して稽古場から逃げ出した大振を見て、イリーナにフォルテシモに大振りされたと勘違いしざまあ味噌漬け、威張り腐ってるから罰を受けたんだ。と思いっきり嘲笑した。ホルストなどあんなイキリのイエローバナナより俺のバイエルンで鍛え上げられたモービイディックの方がいいだろ?と先ほどイリーナにあれほどボコッボコのボコッボコにされたにも関わらず、再びイリーナの体に手を触れようとした。だがイリーナは何故か今度はホルストに逆らわなかった。
彼女は自分を見つめるキャストやオーケストラを見て自分の大振への思いに勘付かれてはならぬと思ったのである。大振との事を勘付かれたらコイツらの誰かがまたTwitterでぶっちゃけるだろう。東欧ビッチとフォルテシモ野郎は大嘘つきのやりまくりだ。芸術で結ばれた関係だと言っておきながら裏じゃ毎夜指揮棒の出し入れしてやがるんだ。しかも本物の指揮棒だぜ。ああ!こんな悪口をあのウブなサムライのマエストロが知ったら発狂してフォルテシモな辻斬りをするかもしれない。そうならないためにはみんなを騙し続けるしかない。そう愛しいマエストロタクトさえも。だからこのどうしやうもない助平面のホルストにあえて肩までかしたのだ。イリーナは彼に抱かれてゲロが出そうなほどウィンナー臭いホルストの体臭に耐えた。
他の連中はそんな二人を見てこの二人は元々恋人同士だったのかと能天気に思った。恐らくそうであろう。恋人同士のイリーナとホルストは来日寸前に喧嘩してしまい、それでイリーナはお調子こきのジャップの大振拓人を気まぐれで弄んだのに違いない。もしかしたら彼女は大振を利用してホルストにヤキモチを妬かせて自分に振り向かせようとしたのかもしれない。ざまあ味噌漬け!と再びキャストとオーケストラは心の中で大振を罵倒した。ホルストなど完全に我が物顔で今夜イリーナにどう己がウィンナーを突っ込もうかと考えていた。
イリーナはホルストに抱かれながらずっと先程稽古場を飛び出してしまった大振のことを心配していた。ああ!マエストロ!ウィズ・マイ・タクト!騙したりしてごめんなさい、まさかあなたがそこまでフォルテシモに純粋だなんて思わなかった!ああ!周りを騙すことがこんなにも辛いだなんて!タクト!死なないで!せめて死ぬなら私とともに!イリーナはホルストから無理矢理身を引き離した。ホルストはイリーナがあの調子コキのジャップをフォルテシモに振ったことに罪悪感を覚えていると勘違いし、お前は悪くない。悪いのは全部アイツだ。ストーカーみたいにお前につきまといやがって!とフォルテシモなまでに勘違いで慰めた。
しかし、そこに先程発狂して出て行った大振拓人が帰ってきた。彼は明らかに憔悴していた。キャストやオーケストラはその彼を舐め腐り、謝るんだったらさっさと謝れ、だけど謝ったところでこれからはお前の命令なんて聞かねえからなと大振を激しく睨みつけた。ホルストは馬鹿面さらしの笑顔で再びイリーナを抱いて見せつけるように胸に引き寄せた。ああ!これ以上ないほどの惨めな状況であった。だが我らがマエストロ大振拓人は顔色一つ返す指揮棒を持って両手をあげた。キャストとオーケストラはその大振に殺意を感じゾワっとしてまるでパブロフの犬のようにすぐさま起立して指揮棒が振られると一斉に楽器を奏でた。
大振の指揮は憔悴している人間とは思えぬほど見事なものであった。彼は完全に『トリスタンとイゾルデ』の世界を表現していた。だが、長年大振と付き合ってきたオーケストラは彼の指揮に仄暗いものを感じた。これは今までの大振の指揮では感じられなかったものであった。今まで大振の指揮は単純と言えば単純で重厚な曲は重厚に、甘い曲は甘く、官能的な曲は官能的に、明るい曲は明るくといった感じで曲の主題に沿った表現しかしていなかったのである。しかしこれは彼の若さを考えれば仕方がないことであるし、そしてこの単純さこそが彼にカリスマ指揮者としての絶対的な地位を与えたのである。だが今大振はその単純さを捨てより複雑な音楽を奏でようとしていた。彼は激しい官能を鳴らしながら、同時にその官能の先にある痛みまでも鳴らしていた。
ああ!たった数時間でこの変わり様はなんなのか。何が彼に起こったのか。それをわかっているのはイリーナだけであった。ああ!ウィズ・マイ・タクト!私のためにそんなにまで思い詰めるなんて!ああ!許されるものなら今すぐにあなたのその燕尾服を海老みたいに剥がしてあげるのに!だけど今はこうして歌うことでしかあなたに愛を伝えられない!イリーナは大振の思いに答えるために、彼の奏でる甘美な音楽に乗せて天使の声で歌い始める。
ああ!大振は決心したのだ!これからは指揮者として音楽でイリーナに愛を捧げる事を!今彼はイリーナへの想いを全て指揮に託していた。現実で叶わぬのならせめて音楽で叶えん。イリーナよ、美しきディーヴァよ。我が指揮棒で永久に輝かんことを。大振は自分を見て歌うイリーナを見た。ああ!なんということだ!彼女もまた自分に歌で愛を伝えようとしているだなんて!
バカのホルストだけはこの大振の指揮を見てとうとうこのお調子者のジャップもとうとう身の程を弁えたか。それでいいんだよジャップお前は俺とイリーナのためにBGMを指揮してればいいんだよと考えた。彼は大振の奏でるトリスタンを聞きながら歌っているイリーナを抱いている腕に力を込めて自らも歌った。絶対にヤッてやる。そのためにはどんな手を使ってもこの体と臭いを何とかしなければ。
大振は朝昼夜ずっと心の中でイリーナと叫び続けた。いくら音楽で愛を語り合っても逢えぬ寂しさは埋めようがない。彼は稽古が終わり高層マンションの自宅に戻るといつもベランダでイリーナが滞在している帝国ホテルを見ていた。あの並んでいる四角い光のどこかにイリーナはいるのだろう。だがここからその名を呼んでもイリーナには聞こえない。いや、その名を口にさえ出来ない。彼は嗚咽と共に崩れ落ちた。ああ!いっそここから身を投げてしまいたい。そうすればイリーナのことなど忘れてしまえるはずなのに。だが大振には身を投げることなど出来なかった。指揮棒が彼を引き止めるのだ。このまま死んだら二度とイリーナに逢えなくなる。お前はそれでもよいのか。と指揮棒は何故か先端に赤らませて彼に迫るのだ。ああ!せめてトリスタンとイゾルデを振るまでは死ねぬ。大振はとうとう耐えられずフォルテシモの絶叫してしまった。マンションの住人はそのあまりに絶望的なフォルテシモの響きに驚いて一斉にベランダに出てフォルテシモの出どころを確かめた。中には確かめすぎてベランダから真っ逆さまに落ちたものがいた。しかしその後ニュースが無いところを見ると恐らくこの墜落者は助かったのだろう。まあいたとしたら見つからずどっかで白骨死体になっているのだろうが。
帝国ホテルの高層のVIPルームに泊まっているイリーナは突然耳元に愛しい声でフォルテシモと叫ばれた気がして窓の方を向いた。しかし窓は東京のマンションが並んだ夜景を移しているだけだ。彼女は最初は初めて来たこの極東の大都市に魅了された。だが今はこのネオン渦巻く大都会が厭わしいだけだった。ああ!こうして愛を秘匿するために偽りを重ねているて愛しいタクトは今何処。こんなにも人を愛したのは初めなのに。その人に舞台以外では会うことも出来ないなんて。もう世界を敵に回してもいい。せめてタクトとこの大都会を歩くことが出来たなら。彼女は大振の奏でる甘く仄暗い旋律を思い浮かべた。ああ!タクトタクトタクト!こんなにもあなたを思っているのにどうしてあなたに会うことすら出来ないの。音楽だけで愛なんて伝えられるはずがないじゃない。お願いタクト!私と一緒に舞台に上って。そして私の愛の歌を聴いて!
イリーナもたまらず窓を開けて『愛の死』を歌いだした。その美声を聴いたホテルの滞在客は一斉に窓を開けて首を伸ばして誰が歌っているのか確かめようとした。これはかなり危険な行動であった。もしかしたら大振のマンションの住人のように墜落者が出るかもしれなかった。しかしホテルのセキュリティーは頑丈にも程があるぐらい頑丈だったので墜落者はいなかった。せいぜいアホの誰かが窓に手足を挟んで大怪我したぐらいだ。
隣の部屋に泊まっていたホルストもまたイリーナの歌に聞き惚れた。ああ!愛しのイリーナ。チェコからドイツにやってきたお前に最初に声をかけたのは俺だった。あの頃のお前は野心むき出しの演出家にこびまくりのやらせまくりのビッチそのもので、俺なんか全く相手にしていなかった。そんなお前が俺に靡くなんて。へへっあのクソジャップにや感謝だぜ。アイツがイリーナにちょっかいだして俺をいぢめなきゃ彼女は俺への想いに気づかなかったんだから。きっとイリーナはこの『愛の死』で俺に誘いをかけているに違いない。ホルストは全裸でイリーナの部屋の前に立ってトリスタンの絶唱である『おお、この太陽よ』を歌い始めた。すると同じ階の客が一斉に扉を開けてうるさい黙れと叫びこの全裸男をフロントに通報したのであった。ホルストは自分を拘束しようと迫って来る警備員を見てイリーナに助けを求めようとドアを叩いて叫んだが、雰囲気ぶち壊しの雑音に頭に来たイリーナはドアを開けるなりホルストの股の間を蹴り上げ、「黙れこのデブ!」と一喝して再びドアを閉めてしまった。
それから大振イリーナと、その他ホルストをはじめとしたキャストたちとオーケストラはいよいよ今回の舞台の上演会場である東京芸術劇場でのリハーサルに移ったが、それでも大振とイリーナはリハーサル以外で接近する事はなかった。というよりもリハーサルでさえ言葉を交わす事はなかった。ただ二人は互いのために指揮を振り、歌うだけであった。その二人の指揮や歌での愛の発露は本番が近づくにつれてますます濃厚になっていったが、同時に仄暗さもましていった。いくら音楽を奏でようが、歌おうが決して満たされぬ思い。二人は自らの境遇を呪った。ああ!こんなに愛が満たされぬのならいっそ何もかも捨てて二人で愛の島に飛んでいってしまいたい。だが二人は知っていた。自分たちがこうして惹かれ合うのは音楽家だからだということに。自分たちが音楽を捨てたら愛はその時点で死んでしまう。だから今は耐えねばならぬ。あの世のワーグナーを無理矢理叩き起こしてに自分たちの結婚式のオペラを書かせるまでは。
リハーサルは確かに順調であったが、非常に喜ばしい、いや大振にとってはあまり喜ばしくない出来事が起こった。なんとホルストがダイエットに成功してしまったのだ。彼はいつの間にか腹回りを絞りデビュー当初のような筋骨逞しい男になっていた。それだけではなくあのウィンナー臭い体臭までなくなっていた。脂肪が取れたせいなのか声も伸びやかになり、朗々と歌えるようになっていた。他のキャストやオーケストラはこのホルスとの謎の変化についていろんな情報をつかんだが、その中で一番信憑性がありそうなのが、ホルストは東京の某高い巣の整形外科で謎の脂肪吸引手術と同じく謎の体臭除去手術を受けたのではないかと言う話であった。総合演出家のビューローは友人のダイエット成功を喜びこれで舞台の成功は間違いなしと太鼓判を押した。イリーナもいつの間にか昔みたい精悍な顔になっていたホルストに驚いた。ホルストはそのイリーナに跪いて言った。
「イリーナ、ようやく僕は昔の自分を取り戻したよ。喜んでくれるかい?」
「ええ、とっても素敵だわ」
ホルストは喜んでイリーナに抱きつき、カルチャーギャップ丸出しで、この未だにマスクをつけまくったガラパゴスな日本でなんとイリーナの頬にキスしたのだ。ああ!日本と同じように頬キスの習慣がないチェコで生まれたイリーナは目をキツくつぶってそれに耐えた。ああ!いくら周りを騙すとはいえキスまで許すなんて!彼女はすぐに我に返りホルストから目を背けて指揮台に立っている大振を見た。大振は無表情な顔で彼女を見るとゆっくりと指揮棒を振り上げた。何度目かの『愛の死』であった。大振はこのホルストの大復活にもうイリーナが永遠に自分の元から去ってしまうような錯覚を覚えた。イリーナが永遠に去ってしまう。しかし彼には指揮でしか彼女を繋ぎ止められなかった。イリーナよ、我が愛をわかっておくれ。我が奏でるメロディ。その一音一音がお前への愛なのだから。だがその彼のフォルテシモな思いはホルストによって塞がれた。なんとホルストのやつが突然イリーナを後ろから抱きしめて一緒に歌い出したのだ。ああ!愛の死はイリーナの独唱であるはずなのに何故お前がしゃしゃり出てくるのだ。大振は怒りのあまり指揮棒を震わせた。その大振の震えに反応してオーケストラがフォルテシモな騒音を鳴らして止まった。イリーナとホルストはびっくりして歌うのをやめて大振を見た。大振は二人にすまないと謝ったが、余裕をかましているホルストの奴はいいよいいよと彼に声をかけ、そして総合演出家のヨハネス・ビューローに対して今すごいアイデアを思いついたとか言ってイリーナに意味深な目配せをしてから話はじめた。
「ビュローさん、愛の死は二重唱にしませんか。死にゆくイゾルデを死んだトリスタンが黄泉の国へと一緒に歌いながら連れていくんですよ。最高でしょ?」
それからホルストはあえて愛の死の場面を真っ暗にしたい。俺とイリーナの顔のとこだけライトを当てるんだ。そして終盤に差し掛かったところで徐々にライトを暗くしていく。最後はもう真っ暗だ!とか自分の思いつきに興奮して捲し立てた。ビューローはホルストの言う事にいちいち凄い!いいアイデアだ!お前は天才だと褒めちぎったが、ホルストの話が終わると考え込み眉間に皺を寄せてで「だけどマエストロがいいと言うか」と呟いた。だが、まだイリーナを抱いていたホルストは「マエストロが断るわけないでしょう。だってイリーナも演りたいって言ってるんだから!」と陽気にのたまい、そしてイリーナの耳元で囁いた。
「なぁお前も愛の死は俺と二人で歌いたいだろ?恥ずかしがらないでハッキリ言えよ」
イリーナは頷くしかなかった。みんなの見ている前で嫌だと言ったら大振との関係が疑われてしまう。やはり芸術だけの関係ではなかった。毎晩本物の指揮棒を使っていかがわしい行為をしていたなどとあらぬことを書き立てられ互いの音楽キャリアをぶち壊してしまう。だから彼女はホルストに、ついこの間までデブデブのクサクサだった男の言うがままに従うしかなかったのだ。
ホルストはイリーナの同意に満足して勝者の微笑みで大振に同意を迫った。
「ほらイリーナもいいって言ってるぜ?マエストロお願いだよ。俺たちの愛の歌をお前の指揮棒で盛り上げろよ」
大振は同意の印に再び『愛の死』を振った。それに合わせてホルストはしてやったりと自信満々に歌いはじめ、イリーナにも歌うように促した。イリーナは自分から目を背けて指揮を振る大振を苦痛のまなざしでみた。ああ!ウィズ・マイ・タクト。わかって私の思いを!これほどにあなたを愛しているのに。彼女は愛しき大振に向かって声を震わせて彼への愛を歌った。
大振はイリーナの歌を聴きながら心の中で泣いていた。すっかりガチムチになったホルストはデブデブ時代とは打って変わってまるでトリスタンそのものになってしまったかのように見えた。このままだと本当にイリーナはホルストに、そうトリスタンに暗き黄泉の国に連れて行かれてしまう。ホルスト貴様はトリスタンではない。トリスタンはこの俺だ。イゾルデを、イリーナを愛の国に連れて行くのは俺なんだ!その時大振はイリーナの声がかすかにうわずったのを聴いた。彼はハッとしてイリーナを見た。ああ!そこには自分を真芯で見るイリーナがいた。チェコからドヴォルザークの魂を薄っぺらなボストンバッグに詰め込んで花の都大東京にきた女。その彼女が今自分に向かって赤裸々に愛を歌っている。俺はその彼女にどう応えたらいいのだ。このままだと本当にイリーナはホルストに連れ去られてしまう!
だが、自ら愛することを禁じてしまった二人には何もする事が出来なかった。そうして何もできぬままにとうとう舞台の上演日が来てしまったのである。
第三幕:愛の死 中編
今回のオペラ公演の客層はいつもの大振のコンサートとはまるで違っていた。なんといってもあのワーグナーの大傑作『トリスタンとイゾルデ』の公演なのだ。関係各社や関係者や金払いのいい成金連中はガッチリいい席をぶんどり、大振ファンには残りっカスしかあてられなかった。これを現地で知ったファンはふざけんなと運営スタッフに抗議したが、ここは普段貧乏人の君たちが入っていいところではないんだよ。だから我慢なさいと冷酷に門前払いされた。
しかしチケットを手に入れられた彼女たちはまだ幸運な方である。他の平等に販売されていたらチケットを買えたかもしれない大振ファンはチケットを手に入れようとあらゆる手段を使っていた。池袋駅から会場である東京芸術劇場にはまるでアイドルのコンサートのように大振拓人指揮のトリスタンのチケットくださいと書かれたダンボール用紙を持った若い女子の大振ファンが並び、会場の周りでは中年女の大振ファンがオペラファンの成金を取り囲んでフォルテシモにチケットを脅し取ろうとしていた。
会場はもう大混乱だった。西城秀樹似の大振のプロマイド売り場では相変わらずファンが詰めかけていたが、オペラファンがその彼女たちをここはアイドルのコンサートじゃねえんだよと文句を言い、そしてワーグナーもこんなフォルテシモなバカアイドル指揮者に演奏されるとは気の毒にと嘲笑した。それに怒った大振ファンは主演のイリーナ・ボロソワの関連グッズの売り場に向かい拓人に付きまとうこのクソビッチなんかこうしてやると言ってBlu-rayやCDを叩き割り、挙句の果てにイリーナのグラビアが載っている週刊誌までビリビリに引き裂いた。これにはオペラファンのオヤジたちもブチ切れもう売り場の全てをぶち壊すような大乱闘が起きてしまった。ちなみにその週刊誌に載っていたイリーナのグラビアは肩を見せたドレス姿の彼女がピアノとかヴァイオリンとか触っている姿ばかりのおとなしいグラビアだったが、そのうちの一枚に指揮棒を握っているものがあり、そこにはデカデカとこんなフレーズが書かれていた。
『Oh!フォルテシモ!』
しばらくして開場のアナウンスが流れると大振ファンとオペラファンはすぐさま争いをやめて自分たちが破壊し尽くした売り場の店員の悲痛な叫び声を背中に浴びながら勇んで劇場へと向かった。
劇場の中にいる満杯の客は今トリスタンとイゾルデの開演を待っていた。劇場の特等席を独占するスポンサー関連の人間や成金のオペラファンたちはにこやかに談笑し、大振拓人ファンはその光景を恨めしそうに見ていた。ああ!こんなクラシックやオペラを自分のステータスシンボルとしか考えていない連中より彼女たちの方が遥かにこの舞台を純粋に求めているのにこの有様はなんであろうか。スポンサー連中や成金は彼女たちのようにただ大振のコンサートを観るために昼夜馬車馬の如く働いたことがあるのだろうか。時に恐喝をしてチケットを手に入れて、時にパパ活をしてまでチケット代を稼いでコンサートに駆けつける彼女たちは愚かではあるが、純粋であった。
成金のオペラファンの一人は今回のオペラの指揮が大振拓人であることに我慢がならずこう仲間に愚痴った。「あの四六時中フォルテシモなんて喚いてるバカ指揮者にワーグナーなんか指揮出来るのか」仲間はその成金を「でも指揮が酷くても俺たちのイリーナの歌が聴けるんだからいいだろ?大体オペラじゃ指揮者なんて刺身のつまみだぜ」と言って宥めた。
大振ファンはもう不満たらたらであった。彼女たちはまず自分たちの席が隅っこで舞台がまるで見えない事に腹を立てた。パンフレットを指で叩きながら喚いた。「なんであのイリーナとかいうチョコレート共和国のクソビッチが拓人より目立ってるのよ!指揮者はあのカリスマ指揮者の大振拓人なのよ!」「そうよ!この女、私たちから拓人を寝取ろうとしたのよ!拓人がこのビッチを庇わなかったら今頃は大振拓人を誘惑した罪で強制送還されているはずなのに」
この大振ファンが大声で言ったイリーナ・ボロソワに関する中傷を聞いた成金のオペラファンの一人は下卑たかおで彼女たちに向かって、「おい、そこのブスの貧乏人!何がイリーナが大振りを寝取ろうとしただよ。逆だよ!俺は関係者から聞いてるんだぜ。あのバカフォルテシモ野郎はイリーナにしつこく付き纏って彼女に二度と話しかけてくるなって言われたんだぞ。ああ気持ち悪い!下手したら彼女あのフォルテシモ野郎に食べられるところだったぜ。言葉本来の意味でな!」
この成金の言葉で劇場は荒れに荒れた。大振ファンは激怒して一斉に立ち上がって成金たちのところに突撃した。劇場には乱暴はやめてくださいとのアナウンスが何度も流れまくる。成金と大振ファンの乱闘騒ぎをよそにスポンサー枠の観客の男女はこんな会話をしていた。
「ねぇ、この大振とかいう指揮者はちゃんとトリスタンとイゾルデ振れるの?私しばらく日本にいなかったから彼のことよく知らないんだけど、トリスタンとイゾルデなんて日本人にはまず振れないものでしょ?あんなゴージャスなオペラの指揮を貧乏ったらしい東洋人が振っちゃいけないと思うの」
「君の言うとおり今回のトリスタンはまず大失敗に終わるね。でもマスコミは無理矢理大成功だってでっちあげるんじゃないかな。大振拓人はマスコミ受けがいい人間だし。彼は長髪のイケメンで背が高くて非常に激しいアクションの指揮するからマスコミがよく取り上げるんだよ。君は知らないだろうけど彼が指揮している最中に叫ぶ「フォルテシモ!」って言葉はいろんなところでネタにされているんだ」
「うわっ、ただのキワモノじゃない。日本ではそんなフォルテシモとか演奏中に喚いてるキワモノが人気なわけ?呆れるわ。私たちは今からそのキワモノ指揮者の演奏を延々と聴かされるわけね。ああ!地獄だわ。私たちより奴のキワモノショーに付き合わされるキャストが可愛いそうよ」
「まぁ、今回のトリスタンは音楽なしでイリーナ・ボロソワとホルスト・シュナイダーをはじめとするキャストの歌と、ヨハネス・ビュローの舞台演出だけを楽しめばいいよ。まっ、君の言うとおりトリスタンは東洋人が振っちゃいけないし、よりにもよってあんなフォルテシモなんて喚いているキワモノが振るなんてとんでもないよ。テープでいいから音楽だけはバイロイト音楽祭の巨匠が振ったものにしてくれればいいんだけど」
「フフッ、あなたと観たバイロイト音楽祭のトリスタン凄かったわね。濃厚すぎて倒れそうだったわ」
「そうだね。濃厚すぎてオペラが終わった後二人ともホテルでおかしくなっていたものね」
「やだ変なこと想像させないで……」
アナウンスの効果がまるでない激しい乱闘と男女の甘い睦言が続く中、キャストたちと大振はひたすら開演を待っていた。イリーナたちキャストはステージの袖で出番を待った。彼女は下のオーケストラピットの袖で待機しているであろう大振を思い浮かべた。ウィズ・マイ・タクト。ああ!ステージとオーケストラピットの仕切りはまるで私たちを分けているかのよう。だけどタクト、私は全力であなたに愛を届けるために歌うわ。とイリーナは大振に誓ったが、そのイリーナをホルストが後ろから抱きしめた。彼はイリーナの腰を触りながら彼女の耳元で囁いた。
「イリーナ、最後の愛の死でジャップ共に度肝を抜かせてやろうぜ」
ホルストはそうささやくとイリーナに意味深な目配せをして離れた。イリーナはホルストの目を見てゾッとした。こいつはなにか企んでいるに違いないと思った。しかし彼女はただ自分と大振のために舞台が成功するように祈るしかなかった。
一方大振拓人もまたオーケストラとピットの袖で待ちながらひたすらイリーナの事を想っていた。ああ!イリーナよ!我が天使よ!お前の姿をピットから仰ぎ見ることしか出来ないなんて!だが俺はお前のためにトリスタンの想いを奏でよう。これは俺たちのトリスタンとイゾルデなのだから。ああ!我が想いをお前に届け!お前こそが我がイゾルデなのだから!
第三幕:愛の死 後編
アナウンサーが開演を知らせると劇場は急に静かになった。大振ファンも成金連中も放り上げた椅子を元に戻して自席に座った。もうすぐオペラの幕が上がる。今、オーケストラがぞろぞろと入ってきた。それを見て気の早い大振ファンの一部が歓声を上げた。しかし大振は登場せず、オーケストラはチューニングをはじめた。その音の一つ一つはもうすぐ始まる舞台への緊張感を高めていた。ああ!そこに大振拓人が現れた。大振ファンは大振の登場に立ち上がって歓声を上げた。劇場は一瞬にしてアイドルのコンサート会場と化した。ファンの一部は持ち込み禁止されているのにどっから持ち込んだのか知らないが、彼が西城秀樹みたいなポーズをとったポスターを高々とあげ「フォルテシモ!」と叫んだ。それを合図にファンは一斉に「フォルテシモ」とコールを上げた。「フォルテシモ!フォルテシモ!フォルテシモ!」これに頭に来た成金は「うるせえんだよ!このブス共が!ここはアイドルのコンサート会場じゃねえんだよ」と怒鳴り再び劇場は混乱しだした。しかし大振が観客の元に向き直り指揮棒を高く掲げると不思議なくらい一斉に騒いでいた観客が静かになった。この時劇場の観客は大振拓人のカリスマぶりを目の当たりにしたのだ。この大振を見て彼をバカにしていた連中は一斉に黙ってしまった。
劇場が静まると照明も消え始めた。とうとうオペラが開演する。アナウンスが上演中の注意などを読み上げるとブザーが鳴り、カーテンが開いた。観客はまずケルト=ゲルマン神話をそっくり移したようなゴージャスなセットに目が眩んだ。オペラをよく知る一部の客はビュローが現代的なセットにしなかったことに深く感謝した。舞台のセットが鉄筋コンクリートだからけのトリスタンなど誰が観るものか。そうだよ、ビュロー流石によくわかってるじゃないか。ワーグナーに必要なのはこのゴージャスさなんだ。
そのゴージャスなセットにむけて大振りは愛しきイリーナを迎え入れんと静かに指揮棒を振った。今劇場に本公演『トリスタンとイゾルデ』の第一幕の前奏曲が流れ出した。この前奏曲の最初の一音を聴いた瞬間観客席からざわめきが起こった。なんだこの濡れ切った天井から甘い蜜が垂れたような音は。これは本当にトリスタンなのか?いつも聴いているワーグナーの勇壮な男らしい肉の唸りのようなあの音楽はここにはない。だがそのかわりこの音楽には一旦入ったら溺れてしまうそんな危険な沼のような蜜壺がある。大振ファンはこの音楽に早くも体をいけない蜜だらけにし、また成金も、そして先程大振をバカにしていた意識の高ぶりっ子のバカップルも一斉に皆大振を見直した。しかし今の大振にはそんな客の視線などどうでも良かった。彼はいまただ愛しき、マイシェリ、天使イリーナの登場を待ち焦がれていた。そしてイリーナが登場すると煮すぎた蜜が破裂するように大振の音楽もまた爆発した。たちまちのうちに濃厚な音楽が劇場を満たしてゆく。ああ!なんてことだろう大振はのっけからしかもフォルテシモを使わずに観客を圧倒してしまったのだ。イリーナがその大振の想いに答えようと溢れんばかりの想いを調べに乗せて歌い始める。侍女ブランゲーネにトリスタンへの想いを打ち上げるイゾルデ。イリーナは自らをイゾルデに重ねて大振に逢えぬ身の上を嘆いた。そのイリーナの想いに大振は答えようとさらに音の蜜煮立たせて爆発させた。大振ファンは大振の指揮があまりに大人しい事を訝しみもしかしたらあのビッチのイリーナに目立つなと命令されているのかと苛立ったが、しかし大振はもう暴れるどころの騒ぎではなかったのだ。観客に背を向けた彼はただイリーナを危険なほどの眼差しで見つめ顔をありえないぐらい恍惚とさせていたのだ。大振は今激しい指揮で芸術を体現することよりただイリーナに愛を届けるために音楽を奏でていた。もういつの間にかトリスタンとして舞台に出てきたホルストのことなど彼には眼中になかった。ただこの邪魔者めとばかりに彼はトリスタンのパートを必要以上にフォルテシモして妨害してやっただけだ。
第一幕が終わるなりスポンサー枠にいた先程大振を腐していた男女が立ち上がった。「悔しいわ。東洋人の指揮棒でこんなにびしょびしょになってしまうなんて。あの、どこでもいいからスッキリさせたいの。でないと私上演中に漏らしてしまうわ」「行こう。実は僕も起立してチャックが壊れそうになってるんだ。これ以上我慢していたら飛び出してしまいそうだ」そして成金たちも立ち上がった。彼らは隣に侍らせていた銀座のホステスとか六本木のキャバ嬢とかと一緒に連れ立ったが、シングルで来ていた男のうちの一人はなんと恥さらしなことに見栄えのいい大振ファンに援交を申し込んだのだ。「君もすっきりしなきゃ。でないと第三幕まで耐えられないぞ」ぞと彼は誘いをかけたが、なんと大振ファンはあっさりその誘いに乗ってしまったのだ。彼女も大振の甘い蜜を飲みすぎて自分がわからなくなってしまっていた。大振ファンもまた立ち上がった。私たちは本物の拓人ファン、ならば拓人をイメージしてスッキリさせるわとそれぞれ席を立った。
それからしばらくして第二幕が始まったが、大振の指揮は第一幕よりも一層激しさを見せていた。彼は相変わらず顔を危険なほど歪ませてイリーナを見つめ指揮棒さえ溶けそうなほど熱く沸騰していた。時たまホルストの存在が彼をクールダウンさせていたが、それでも彼の甘い蜜の如き熱情は収まらず、とうとう喘ぎ声まで出してしまった。観客はその喘ぎ声の生々しさに自分の性生活を覗かれたような気がして思わず舞台から目をそむけた。イリーナも喘ぎ声まで出して自分への想いを訴える大振に応えるために乳房を手でつかんで激しく官能的に声を響かせた。ホルストのやつは何を勘違いしてかイリーナが自分に対してアピールしているすっかり思い込み、自分もその想いに答えんとあ~とかブサイクな喘ぎ声を出したが、大振がすかさず音量をフォルテシモに上げ妨害してやった。
こうしてトリスタンとイゾルデは第二幕を終えてあとは最後の第三幕を待つばかりとなった。観客は第二幕が終わっても第一幕の時と違い誰も席を立たなかった。彼らはもう第三幕を観るためだけに全集中していた。スポンサー枠も成金も今では大振拓人を真に偉大なる指揮者であると認識を改め、心からこのオペラの成功を祈っていた。だが、大振ファンは心の何処かで不満を抱えていた。大振はまだフォルテシモをしていない。今回はオペラだからフォルテシモはしないのか。いくら蜜のような音楽を奏でようが、フォルテシモなき大振などたてがみのないライオンに等しい。ああ!お願い拓人!私達のためにフォルテシモして!あなたのフォルテシモがないと私達死んでしまうわ!
イリーナが楽屋で第三幕のためにメイクをしてもらっているところに突然ホルストがやってきた。彼はニタニタしながら最高だったぜお前と声をかけた。メイクの間ずっと大振の事を想っていたイリーナはこの突然の乱入者の登場に不機嫌になり、まだ舞台の途中じゃない。あなたと話している暇なんてないわよ!と突っぱねて彼を追い出そうとした。しかし、この果てしなく鈍感な元デブデブのクサクサのマッチョ野郎は相変わらずニタニタ笑いながら胸をはだけさせながらイリーナに言った。
「いよいよ第三幕だぜ。愛の死、楽しみにしてろよ。俺たちの愛をジャップに見せてやるんだ」
そうのたまうとホルストはガハハと笑いながら楽屋から去っていった。イリーナはホルストの言葉から、ホルストがとんでもないことを考えていることと、そして自分が第三幕に出たら最後、もはやホルストから逃れられない事を感づいた。ああ!だが、いくら自分がホルストから襲われようとも、舞台には出なくてはならない。愛しいタクトのために最後までイゾルデを演じなければならない。彼女は大振の顔を思い浮かべてもしかしたらこれが彼との今生の別れになるかもしれぬと思った。タクト私はイゾルデのようにホルストに連れて逝かれるかもしれない。だけどタクトこれだけは覚えていて。私が愛したのはあなた一人であることを。
しかし舞台は残酷にも第三幕の開始を告げた。もはや温泉状態の劇場内は開始のアナウンスが告げられると一斉にブラボーと拓人~っ!の歓声が飛んだ。『トリスタンとイゾルデ』の第三幕の冒頭を飾る大振による前奏曲は第一幕や第二幕を遥かに超えていた。この悲劇の始まりの予感を告げる陰鬱な前奏曲はもはや熟成しすぎて毒さえも含んでしまった危険なデザートであった。一口かんだら死へと直行するふぐのようなものであった。大振ファンはそこにフォルテシモ出来ない大振の苦悩を読み取った。フォルテシモできない苦悩が彼にこんな毒まみれの音楽を奏でさせてしまうのだ。ああ!拓人!そんなに我慢しなくていいのよ。そんなビッチのためにフォルテシモを我慢しなくていいの。私だったら何回でもあなたをフォルテシモさせて上げるのに!一方成金たちこの毒物をマカのように食べでしまい、さっきスッキリしたのにまた起立してしまった。スポンサー枠の男女も同じであった。いや、もっと酷かった。女の方はいつの間にか蜜を奏でている大振のファンになってしまい、さっき一緒にスッキリしたにもかかわらず、となりにいる意識の高いだけの貧相な男より背の高い西城秀樹似の男らしい大振に夢中になってしまったのだ。彼女は彼とスッキリするならいくらお金をつかってもいい。もうこんな意識しかない男とはつきあってられないと彼女は自分に迫ってくる男を蹴り上げてあっちいけと突き放した。
大振はそんな観客の雑音などどうでもよかった。ただ彼はイリーナとの愛を奏でるためにここにいた。もう彼は全てがぐっしょりと濡れていた。イリーナへのほとばしる想いが気色悪くなるぐらい全身を濡らしていた。彼は指揮を振りながらただ気色くなるぐらいイリーナを見つめて心の中でその名を叫びまくっていた。
舞台はトリスタンの死の場面に移った。大振はホルストがうざいので彼の声が聞こえなくなるほどフォルテシモに音量を上げたが、ホルストの奴はそれに負けじとバカでかい声を張り上げた。大振もそれに対抗してさらにフォルテシモに音量を上げる。もう劇場内は騒音の嵐であった。そうして全てが終わった後、いよいよ舞台は最後の愛の死を残すのみとなった。
大振の奏でる毒を含んだ甘い蜜の如き音楽に捕らわれていたのは観客たちだけではなかった。それよりも音楽に乗せて劇を歌い演じているキャストたちのほうが一層その音楽に捕らわれていた。ああ!イリーナも大振も、それにホルストも危険なほど音楽に捕らわれていた。いや、捕らわれ過ぎていた。
愛の死が始まると同時にホルストの提案した演出通りステージのライトは消えイリーナの顔のみが映し出された。イリーナは真下の指揮台に立つ大振に向かってまるで彼に別れを告げるかのように歌っていた。さよならタクト。私はイゾルデのように死地へとむかうわ。あなたとイケなかったのは残念だと思うけど仕方がないわ。さよからウィズ・マイ・タクト。このイリーナの自分への別れの歌を聴いて大振は彼女を引き止めんと激しく指揮棒を振った。ああ!逝かないでくれ!マシェリ、我が天使よ!プラハの可憐なる花よ!ドヴォルザークの魂を持つ苦難の女よ!だが、その二人の間をホルストの奴が塞いでしまった。イリーナはホルストが現れた瞬間彼が全裸であることにすぐに気づいた。全裸のホルストはイリーナを抱きながらイリーナと一緒に歌いはじめた。ああ!ホルストもまた大振の毒蜜音楽に当てられておかしくなってしまった。最初はただ舞台でキスして胸揉んでその後ベッドで本番と考えていた。だが、大振のあまりに甘い毒を大量に含んだトリスタンとイゾルデは彼をありえないぐらい大胆にさせてしまった。もうベッドじゃ我慢できない。本番中にヤッてやる。観客の見ている前でイリーナをハメてやる。大スキャンダルになるだろうか構うもんか。なったとしても所詮極東のジャップで起こった出来事。みんなよくヤッたって驚くだけさ。愛の死はクライマックスを迎え、演出通りにだんだん暗くなっていった。
イリーナは暗闇の中でホルストがドレスをたくし上げてくるのを感じながら大振と出会ってから今までの事を思い浮かべていた。最初あった時はただの子供だと思っていた。ただの美味しそうなキャンディ。ぺろりと食べて捨ててもいいかなと考えていた。だけど記者会見で彼が自分へのとんでもない暴言をしたのを聞いてこんなガキを食べようとした自分が恥ずかしいと腹が立った。しかしそれは恋してしまったがゆえの腹立ちだった。まるでチェコのど田舎の女子高生時代に帰ったような気分だった。ああ!二人の愛は永遠に結ばれないものなのか。このまま私はホルストのバカに舞台で犯されるのか。いや、私はウィズ・マイ・タクト。マエストロタクトとイきたい!イリーナは大振りに向かって声を震わせて激しく愛を歌って助けを求めた。
大振はそのイリーナの痛切なまでの愛の叫びを聴いて体が震え上がった。イリーナがここまで熱烈に俺を愛してくれるのに俺はここで何を演っているんだ。俺はこの天使が元デブデブでクサクサだったホルストに死地に連れられてしまおうとしているのをこのまま手をこまねいて見ているのか。ダメだ!イリーナそいつと心中なんかしちゃだめだ!大振は全身を震わせて劇場を揺らすほど激しく叫んだ。
「フォルテシモぉー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
そして大振は燕尾服を脱ぎ捨てて全裸でイリーナの元に飛び込んだ。このあまりの非常事態に観客は混乱して絶叫した。ステージは真っ暗となりオーケストラの音とイリーナの歌だけが鳴り響いた。ステージからは大勢のスタッフがやってきているらしくものすごい音がしていた。人がぶつかり合う生々しい音が鳴り響いた。その時突然ステージのライトが点いた。観客は一斉に何事が起こったのか確かめるためにステージを見たのだが、彼らが目にしたのはイリーナが歌っている後ろでカリスマ指揮者大振拓人とヨーロッパで人気のテノール歌手ホルスト・シュナイダーが全裸で絡み合っている姿だったのだ。二人は目をつぶってそれぞれ相手に向かって「フォルテシモ!」「バイエルン・アタック!」等と叫び、何を勘違いしているのか、互いをマシェリとか我が天使とか呼んでいた。
イリーナは歌い終わるとまだ絡み合ってる二人を「人の舞台を台無しにしやがってこのクズどもが!」と二人を蹴り上げ、さっさとステージから去ってしまった。だが、大振とホルストは自分たちの音楽の毒気に完全にやられてしまったのかまだ二人は互いをイリーナだと勘違いしているようだった。二人はオーケストラどころか舞台のセットさえ片付けられたステージでまだ「フォルテシモ!」「バイエルン・アタック!」等と叫んで互いを攻撃していた。観客は一斉に立ち上がって舞台を自分で台なしどころか粉々のボロッボロにしてしまった二人に対してこう叫んだ。
「いつまでフォルテシモ演ってんだよ!もうみんな帰っちゃったぞ!」