●ニスに死す
ロックミュージシャンがストーカー被害に遭うことは意外にも多い。我らがRain dropsの照山君もその一人で何人かの狂信的なファンに狙われていた。だが永遠の少年ロックバンドRain dropsは少年らしくツアー先の女の子を徹底して避けていたので殆どのストーカーは諦めて去っていった。しかしだ。一人だけとんでもないストーカーがいた。今日の記事はそのストーカー女について書く。本当だったらこんなRain dropsファンの面汚しのことなんか書きたくないけど読者の方からRain dropsのとっておきの秘密を教えてとの要望が沢山届いたのでしょうがないから書くことにした。
このストーカー事件を知っているのは私を含めてかなりのハードコアなRain dropsファンだけだ。私はジャーナリストの特権を使ってこのバカ女に説教がてら取材したけど、そのバカ女が語る話は全く身の毛のよだつものだった。このバカ女は私達Rain dropsのファンの年齢層からは一回り上で、彼女の話によると普段は大学で日本近代文学の講師をしているらしい。なんでこんなインテリのアラサー超えの女がRain dropsのファンになったのだろうと思って聞いたらこう答えた。彼女は普段日本の音楽をバカにしてクラシックとジャズばかり聞いていたそうだ。だけどたまたま研究の資料を手に入れるために神田の古本屋に入った時、いきなり店の有線から流れてきた日本語の曲に胸を突かれたような衝撃を受けたそうだ。その少年のようなハイトーンで歌われる切ない歌唱と、少年の感情をむき出しにした歌詞に一瞬で虜になった彼女は思わず周りの人間にこの曲は誰が歌ってるのかと聞いていた。客の中の若い女がRain dropsってバンドの曲だと教えると彼女はバンド名をメモに書き留めるなり手に持っていた本を放り出してCDショップへ駆けつけたのだという。そして彼女は店にあったRain dropsの全アルバムを買ったのだが、その時ジャケットに映る照山の少年そのもののルックスを血走るような目で見つめて胸が高まったのを感じたそうだ。そのアー写に移った男は彼女の理想の、現実にはいないはずの純粋な少年そのものだった。ああ!こんなところに私の理想とする人がいるなんて!決して汚れていない純真な少年!彼はギリシャの神話に出てくるアポロンみたいだわ!こうバカ女はうっとりした顔で私はRain dropsに救われたんです。照山くんは私を闇から救ってくれたんですと言っていた。
それからバカ女は大学の講師の安月給の殆どをRain dropsのツアー代に捧げた。自分より明らかに一回り若いファンと一緒に声を張り上げて照山くんと叫んだ。バカ女は会場でおそらく自分が一番大きな声で照山くんの名前を叫んでいただろうと言っていた。しかし人気バンドのRain dropsのライブは毎回当選するわけではなかった。そんな時彼女はライブ当日の会場で自分より一回り、場合によっては二回り若いファンに混じってダンボール用紙に『チケットください』と書いたものを胸に下げて通行人にチケットをねだっていた。それでもライブに参加できなかった時は部屋で一人泣きくれた。その時は照山くんに逢えなかった悲しさに自殺することも考えたそうだ。もう自分にはRain drops、いや照山くんなしの世界は存在する価値はない。いつの間にか彼女の照山くんに対する愛はそんな事を考える程に深く大きくなっていった。
こうしてRain dropsの追っかけに勤しんでいたバカ女だったが、Rain dropsのライブの抽選が続き照山くんに遭うことが出来なくなった悲しみからか、彼女の照山くんに対する愛は歪んだものになった。バカ女は普段から毎夜寝る前に照山くんの写真を眺めてはその少年のように輝く照山くんにうっとりしていたが、ある時から照山くんをひどく歪んだ目で眺めるようになった。バカ女は照山くんの写真の下半身に頬を擦り付けてため息を漏らし、照山くんとのあらぬ事を想像して悦に浸った。
ああ!照山くんを汚してやりたい。彼の純粋な心を私の汚い体液で汚してやりたい。とそんな汚らしい事を毎夜妄想していたのだ。しかしインテリである彼女はそんな汚らしい妄想が浮かんでくるたびに自らを恥じて頭を振って打ち消した。しかしどんなに打ち消そうともこの汚れた妄想は浮かんでくる。こんな妄想は一回でもでもRain dropsのライブに参加できればすぐに消えたかもしれない。だが不幸なことに彼女はライブは立て続けに落選してしまったのである。
絶望に打ちのめされたバカ女はその悲しみを例の卑猥な妄想で慰めた。その時の自分がまるで三島由紀夫の『仮面の告白』の主人公のような気がしたと彼女は私に言った。そうしてバカ女は毎夜妄想で照山君を汚しているうちに悲しみを感じるようになっていった。どんなに照山をひどく汚しても、いや汚せば汚すほど彼は輝いていった。逆に彼を汚せば汚すほど自分の醜さと汚らしさが顕になっていった。やっぱり自分ごときが照山を愛するべきではなかったのか。自分のようなアラサー超えの女が彼のような若いアポロンに輝く少年を愛してはいけなかったのか。
バカ女はこう思いを巡らせてふといつかDVDで観たヴィスコンティの『ベニスに死す』を思い出した。浜辺に立つ彼の恋する少年を見つめながら死んでゆく音楽家アッシェンバッハは自分そっくりであった。朽ち果てて醜くなったアッシェンバッハ。それはアラサー超えの私だ。そして浜辺で永遠に広がる海を指し示すアポロンのような半裸の少年。それは照山くん以外にいない。ああ!女なのに自分をあの醜い爺のアッシェンバッハになぞらえるなんて!自分もアッシェンバッハのようにこのRain dropsという都市に永遠に留まって死ぬのだろう。照山くんという幻影を見ながら浜辺で息絶えるのだろう。もう一生照山くんから離れない。いくら彼が私を認識すらしてなくても、私は彼を永遠に見つめ、彼を優しく守り続けるだろう。このようにバカ女の妄想は完全に限度を超え、とうとうストーカー行為へと足を踏み入れてしまった。
それから彼女はいくら落選しようともRain dropsとともに全国ツアーを廻るようになった。照山くんを見守るためにすべてを捧げた。他のファンにRain dropsの動向を聞き回り彼らの動向を押さえると後ろから付け回した。しかしまだ実害はなかった。彼女は別にSNSなどで照山のことを書き込んだりしなかったからだ。
しかし事件は起こってしまった。我らがRain dropsはいつものように熱いライブをおこなった。ライブは何度目かのアンコールの後、またここに来るからね!と照山くんの笑顔のMCと共に終わった。そのライブにはバカ女の姿はなかった。彼女はチケットに落選してしまっていたからだ。バカ女は会場の外にいた。彼女はライブの間他のチケットを取れなかったファンと一緒に会場から漏れてくる音を聴いて立っていた。その時近くにいたファンがRain dropsが宿泊する予定のホテルの名前を挙げたのだ。バカ女はホテルの名前を聞くと忘れないように早速メモを取りスマホでググって調べた。ああ!もうバカ女は完全にストーカーに成り果てていた。彼女はホテルに向かう道すがらこんな事を考えた。アッシェンバッハは少年を見つめるだけで何もしなかった。ただちょっと声をかけただけだ。だけど私はそれじゃ我慢できない。だっていくらアラサー超えのババアだからっていってもアッシェンバッハよりは全然若いんだもの。照山くんを彼の少年性ごと抱きしめたい。彼と一つになって彼の純粋さを分けてもらいたい。そうしたらこの醜い私も救われるはず。
バカ女はホテルの入口でRain drops一行の到着を待ち、そして彼らが来ると何故か一緒にエレベーターに乗り込んでしまった。なぜこの時みんな彼女をスルーしてしまったのかは今もってわからない。考えられるのはバカ女がいつもローディの後ろにくっついていたからスタッフがレコード会社かなんかの人間だと勘違いしてしまった可能性だ。とにかく信じられないことだが誰もがずっと後ろにくっついていた女に全く疑いを持っていなかったのだ。そうしてRain drops一行はホテルの宴会場につき早速宴会を始めたのだが、そこには照山の姿はなかった。すでに酔っ払っていたマネージャーは足元がフラフラで他のメンバーも照山のことなど忘れて宴会に呼ばれたコンパニオンの女の子と喋りまくっている有様だった。この惨状にバカ女は耐えられなってきて照山くんが来たら二人でさっさとこんな醜い連中から逃げてしまおうと考えていたが、そのバカ女にマネージャーが近寄ってきて照山を呼んできてくれと部屋番号を言ってきた。これはバカ女にとってチャンスもチャンスだった。彼女はいつもにようにメモに書き留めると早速照山の部屋に向かった。
エレベーターで照山の部屋に向かっている最中バカ女はシャツのボタンを一つ一つ外し始めた。もう逃さない。このアラサー超えの醜い女を救ってくれるのはあなただけ。あなたは永遠の海を指し示す美少年。そして私はあなたに救われたいアッシェンバッハのように醜い女。今すぐ救って!この醜い体をあなたのアポロンのような体で綺麗にして!部屋の前に立ったバカ女は部屋のドアが開いていることに気づいて勢いよく駆け込んだ。その彼女の前にタオルを腰に巻いた半裸の男が現れたではないか。それは照山くんであった。紛れもない照山くんだった。彼は頭のてっぺんを強く抑えそして頭の後頭部を何度か叩いていた。そして動揺して異様に青ざめた顔でこの見知らぬ侵入者に向かって言った。
「あ、あなたは誰だい?なななな、何の用だい?」
だけどバカ女は照山くんの言葉を聞かずまっすぐ彼の胸に飛び込んだ。
「私、ずっと照山くんに逢いたかった!ずっとこうなることを夢見ていたの!」
そして女が照山くんに抱きつこうとした時悲劇が起きた。その時照山くんが必死で頭に止めようとしていたカツラがツルリと取れてしまったのだ。カツラはハラリと床に落ち、照山くんはハゲヅラで体を震わせてバカ女の前に立っていた。そのハゲヅラの照山くんを見てバカ女は断末魔の叫びを上げた。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアー!!」
バカ女は最後にあの事件で自分はストーカー行為をやめられたと語っていた。全ては独りよがりの妄想だったと。私は自分の創作した照山くんを愛していたに過ぎなかったと。その証拠にあの部屋にいたのは照山くんに微妙に似ているただのハゲた親父で照山くんの姿は影も形もなかったのだから。すべては私の一人舞台だった。照山くんと結ばれたいなんて妄想のあまりハゲた他人を照山くんと思い込むなんて。もうこんなくだらない妄想なんか捨ててこれからは照山くんのように純真な気持ちでRain dropsを応援する。きっと私は一生照山くんと話すことはないだろう。だけどそれでもいい。私は少年のように純粋な照山くんが好きなんだから。
というのがこのストーカー事件の真相だ。しかし不幸なのはバカ女が見たハゲ親父は、似た男ではなく本物の照山くんであったということだ。この取材は照山くんのハゲがばれる前に行われたものであるが、バカ女は照山くんのハゲが白日にさらされた今あの時の事をどう思っているのだろうか。