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「優しさ」って愛と同意語じゃない?

歳を重ねるにつれて、私の優しさの定義も広く大きくなってきました。昔、私が考えていた「優しさ」というものは、「与える」「思いやりがある」「許す」「包み込む」「受け入れる」「尽くす」といった相手のために何でもするような献身的なものだけでした。

私の死んでしまった祖母がまさにそんなイメージの優しさをもっていた人でした。彼女は若いうちに家族と離れて、山形から札幌に1人で嫁いで来ました。夫は若くして死んでしまいましたが、一人で4人の子どもを立派に育てました。

大工だった夫が建てたオンボレになった大きな家に1人で住み、70代になってもお掃除のパートを続けて元気に暮らしていました。学校にはそんなに行かなかったけれど、頑張り屋さんで、自分で新聞などを読みながら教養をつけてきたと聞きました。そんなに贅沢はせず、自分がパートで稼いだお金は、ほとんど私たち孫のために使っていました。

私の母は祖母を頼っていたようなので、私たち家族は週末になると、札幌市の南6条にあった祖母の家によく遊びに行っていました。行くと普段は家ではあんまり食べれないポッキーやコカコーラなどのおやつを食べさせてくれて、美味しい手料理もたくさん振る舞ってくれていました。

祖母の家にはお風呂がなかったので、近くの銭湯へ一緒に行き、いつもその後アイスキャンディーを買ってくれました。また家に帰ってからはテレビを見て、「そろそろ帰るよ!」と言う親の言葉に「ドリフが終わるまで!」とかの返事をして、その楽しい時間を伸ばし伸ばしにしていました。大抵は、夜遅くまでいることになり、いつもお泊まりして帰ってくるのがルーティンになっていました。

その「6条のおばあちゃん」は、8人いたそれぞれの孫の歳に合わせた小学館の雑誌(幼稚園の子には「幼稚園」、小学3年生の子には「小学3年生」など)定期購読で毎月買ってくれていました。お誕生日やクリスマスにデパートに連れて行ってくれて、プレゼントも買ってくれていました。

祖母は、子育てと家事で忙しかった私の母を静かに支え私の父には励ましの言葉をかけ私たち孫には褒めの言葉をかけてくれていました。小さな子には珍しく焼き魚を黙々と食べる私に「魚を皮までキレイに食べてくれてえらいね〜」と目を細めて喜んでくれたことを覚えています。

休んでいることもほとんどなく、大きな家の掃除、選択、料理などを手際良くこなしていました。人だけではなく、植物や動物にも優しく、お花が好きで、裏庭にたくさんの綺麗なお花を咲かせ、それを手入れしたりもしていました。

いつも穏やかで、彼女が怒ったり悲しんだりする姿を一度も見たことはありませんでした。子どもたちや孫たちが喜んでくれることが喜びだったような感じがします。

祖母は私がアメリカで大学生をしている時に亡くなりました。最後の数年間は、痴呆症になってしまって、色んなことが自分でできなくなってしまい、うちの家族と同居していました。最終的には、私のこともわからなくなってしまっていました。それでも、祖母の生き方を見て、私も彼女のような「優しさ」をもった人になりたいと思ったことは変わりません。

私のこの優しさの定義がちょっと変わりはじめたのは、自分が実際に2人の子どもの母親になって、目まぐるしくて過酷な毎日を過ごした後でした。

寝ることもままならず、自分のケアなどする暇もなく、休みなく育児に家事に追い回される毎日でした。仕事もフルタイムでしていたし、アメリカに住んでいたので、家族などのサポートもなくて大変でした。祖母がしてきたような献身的な優しい母になるのは、私には絶対に無理でした。

いつまでたっても、泣き止まない我が子を抱きながら、彼らと一緒に泣いた時もありましたし、言うことを聞かない我が子にムカッとして、手を出したこともありました。それでなくても、ストレスからイライラしている毎日だったから、意見の合わない夫を励ましたり、静かに支えたりなんて無理でした。その反対に、彼に八つ当たりをしたり、助けてくれないことをののしって、ケンカばかりの毎日でした。

そんな大変な時、私は母と祖母について話をする機会がありました。「おばあちゃんは、いつも怒らなくてすっごく優しかったよね〜」という私に、「そんなことないよ!結構怖かったよ。怒られたり、叩かれたりもしたよ!」と私の母は答えたんです。

「はぁ〜、おばあちゃんが怒っていた?」

それはそうです。彼女も女手ひとつで4人の子どもを育ててきたんです。彼女も家族のサポートもなく、戦後の貧しい時代でした。大変だったはずです。私は子どもたちが巣立って余裕が出てきて、落ち着いた祖母しか知らず、彼女のイメージを美化してしまっていたんですね。そして、完璧すぎて絶対なれない女性像を作ってしまったと気づきました。

その後、私が考える「優しさ」の定義は、変わってきました。それには「他人への優しさ」だけではなく「自分への優しさ」も含んでいます。ただ自分を後回しにして、周りの人に尽くし続けるのではなく、自分を守り、大切にすることも肝心なんです。自分を大切にできない人は、いずれ他人にも優しくできなくなります。そのことは、下の記事でも詳しく書きました。

寛容で、許し、受け入れることも大切だけれど、「優しさ」には強さや厳しさや勇気も必要だとも思っています。自分にとって大切なものを守るためには、受け身でいるのではなく、勇気をもって、自分の価値観を貫くことも時には必要だと思っています。

他の人に嫌われるかもしれないし、ダメだとレッテルを貼られたり、誤解されるかもしれないです。だけど、そんな中でも自分が正しいと思った道を進んでいくことが優しさでもあると思います。そうやって自分の道を進みながらも、迷い苦しむかもしれません。そんな時にも自分や他人を許してあげられることも優しさだと思います。

他の人が間違ったことをするかもしれないけれど、それを知りながらも助けたい衝動をグッと堪え、手を差し伸べずにただ見守るのも優しさです。またそれとは逆に、時には待たずに、厳しくガツンと「それは間違っている」とすぐさま自分の意見を言う時もあっても良いと思います。

言ってみれば、優しさとは人によって、時と場合によって、色んな形があると思います。簡単に言うと、優しさは「愛」と同意語なんじゃないかなってと感じています。

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カリース
他の人に喜びを与えるアナタは、きっともっともっと与えられるはずだわん💕