靴下のかたっぽがみつからない ①フサコさんとわたし
まず私こと、ナツゴロウの事を聞いていただくにあたって、最重要人になるのは、母親のフサコさんです。
フサコさんは、私達が暮らしている町の隣町で育ちました。
華やかで物価も若干高めな、その中でもかなり裕福な層の家で、フサコさんが生まれた時代にも、まだ家にお手伝いさんがいたくらいな、裕福な家の一人娘として生まれました。
お金持ちのお嬢さまなら、花嫁修業くらいしてても不思議では無いのですが、とにかく家事ができないのです。
おにぎりも作れないで嫁に来たと、本人はよく言っていました。
そしてお行儀も悪いし酒癖も悪い、食べ方も動物みたいに音を立てて、ぽろぽろ落としながら食べます。
服装も、いつも派手な花柄のブラウスに、派手なスカートで、その日に着た服を洗うという概念がないようで、いつもなんだか不衛生に見えます。
ストッキングはよく伝線をしていて、その上からまた伝線したストッキングを履くという、なんとも不思議なことをしてます。
電話で誰かと話をしていても、電話の向こう側の人が、フサコさんの好意のある人だと、すごくいい人の声になるのですが、そんなのは滅多にありません。
大抵食べ物をクチャクチャと音を立てながら、電話に出て、乱暴に話をしています。
子供ながらに私はよくハラハラしていました。
そんなこんなで、、フサコさんの癖の強さは、ポーカーでいったら、ロイヤルフラッシュ並に揃っていて、フサコさんより癖の強い女の人は見たことがありません。
お父さんは、よくこんな女の人と結婚したよなぁと、子供の頃から不思議でした。
おそらく当のお父さんも、そう思ったかもしれないです。
その証拠に、私の子どもの頃は、とにかくケンカが絶えませんでした。
夫婦喧嘩といっても、犬が食べないレベルじゃないのです。
近所に響き渡るくらいの大声で、物は飛び交い、時には救急車を呼ぶこともありました。
そのままフサコさんが入院なんてこともありました。
そんな家に私は、姉、兄の次に、末っ子の三女として生まれました。
両親は晩婚同士だったらしく、更に末っ子なので、相当歳をとってからの私の出産だったと聞いてます。
姉兄とも、歳が離れていたので、あんまり一緒に遊んだ記憶がなくて、兄弟は同居人のような存在です。私はほとんど一人っ子のように育った気がします。
フサコさんは、この兄弟3人を分け隔てて育ててくれました。
長女の姉には、スパルタ教育でした。
私が小学生の頃には、姉は中学生で、かなり激しい方のヤンキーで、父親とよく、怒鳴りあい、取っ組み合いのケンカをしていました。
今考えれば、両親はどういうわけか姉には厳しかったと思います。
ピアノの練習をしろ、食器を洗え、勉強しろ、といった類いかと思います。
私も小さい頃はピアノの塾に通っていたので、ピアノの練習をしろと言われて不思議じゃないのですが、私は一度も、「練習しろ」「勉強しろ」などなど、言われたことがないのです。
姉に極端に関心がいっていたのか、私に極端に無関心だったのか、分からないのですが。
姉は、姉で苦労したと思います。
兄は、男の子だからなのか分からないのですが、とにかくフサコさんは気を使ってました。気にかけてるように私からは見えました。
例えば。
食卓のテーブルはいつも、洗ってもいい食器と、調味料と、、物がギュウギュウに置かれて溢れかえっていたのですが、ご飯を食べに兄が茶の間にくると、兄の前だけ物をどかして、食べやすくしてあげるのです。
箸もちゃんと揃っておいてあって、私はというと、いつもご飯の時間になると、台所のシンクの中の、食器や残飯の中から、自分の箸を見つけ出して、洗って、ご飯を食べます。
シンクの中はいつも腐った生ゴミと食器があったので、その中に手を入れるのはかなり勇気がいるのですが、仕方ないのです。
兄とのその待遇の違いが不思議でたまりませんでした。
そういうことが生活の中であちこちでありました。
末っ子の私はと言うと、フサコさんは「可愛い」とたまに言ってくれるのですが、ほとんど気にかけてもらった記憶がありません。
姉のように「勉強しなさい」と怒られたことはないし、兄のように、手をかけてもらった気もしないし、それよりも、フサコさんは自分のことで一生懸命な感じがしました。
実際子供が3人もいて、いっぱいいっぱいだったのかもしれません。
フサコさんは、日常的にお酒でその心のバランスをとっていたように思えます。
大きな波と小さな波で暴れる周期があり、小さな波は、暴れて叫んで大騒ぎしても、次の日いつものフサコさんになります。
その変わりように、小さかった頃は、本当に昨日の夜のフサコさんは同じ人間だったのかと、不思議に思い、
「お母さんは昨日のお母さんと、別の人なの?」
と聞くと、フサコさんは少し間を置いてから、
「そうだよ」
と答えました。
私はすごく安心して、
「なんだ、やっぱりそうおもったんだよね」って返事したのを覚えてます。
あんなに目を真っ赤にさせて、ギラギラ光らせ、罵声を浴びせる姿は、とても怖かったですから。
でも、問題は大波が来た時です。
翌朝になってもその目のまま、常にブツブツ何か文句を言っています。
「あのクソジジイ許さないから」
とか、
「バカにしやがって」
とか、そういう言葉です。
私はそういう乱暴な言葉遣いが怖くて、「オオカミと7匹の子ヤギ」の、最後のオオカミのように、お腹の中にいっぱいの石があるような感覚になりました。
大波が来る時は、家の中は更に荒れて、物が散乱して、フサコさんが荒ぶれるのを、ハラハラしながら同じ部屋で見ていました。
多分兄は同じところにいた記憶が無いので、見ないように部屋にこもってゲームをしていたかもしれません。
私はとにかく心配で、不安で、見ていないとますます不安になるので、いつも凝視するように見ていました。
学校へ行っても、
「帰ったらまだあのときのフサコさんだったら困るな」
と、気持ちがモヤモヤします。
教室で、先生の話を聞きながら、家のことを思い出すと、家での生活とここに座っている環境が違いすぎて、床がぐるんと、逆さまになる様な錯覚がおきて、座っているのに足元がぐらついて、自分がひっくり返ってしまいそうな感覚になりました。
今思うと、フサコさんも色々あったのかもしれませんね。
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