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File 1 凶器はどっちだ!


1.はじめに 

これは私が法医学に携わってからの初めての鑑定例になります。もう30年以上も前の話です。ある殺人未遂事件の現場から見つかった2本の包丁のうちのどちらが被害者の腹部を刺したのかを理化学的に証明したものです。今振り返るとなんと幼稚な方法を使っていたものかと恥ずかしくもあるのですが、当時はDNA鑑定もまだ実用化されておらず、血痕から証明できるのはABO式血液型がせいぜいの時代だったのです。

例えば、銃による犯罪に置き換えてみます。ある殺害現場から2発の銃弾が発見されたとします。被害者は頭を撃たれて即死状態です。でも、頭を撃ちぬいた銃弾は1発であることは明らかです。では、2発のうちどちらの銃弾が頭部を貫いたのでしようか?発砲した容疑者が複数いた場合、だれが撃った銃弾が頭部に致命傷を与えたのかを特定するのはとても困難なことなのです。実はいまだにこれを科学的に証明することは不可能に近いと言わざるを得ません。

では、このような問題に私たち研究者がどのようにアプローチしたのかをこれから少し詳しくみていこうと思います。

2.事例の概要

ある精神病院内に併設された厚生施設において、事件の容疑者と被害者を含めた3名が同居自炊生活をしていました。容疑者と被害者はアルコール依存症の治療中であったそうです。

事件の当日、この3名は施設内にある食堂を兼ねた居間でこっそりと飲酒をしていました。そのうち、酔いのまわった容疑者と被害者は些細なことから喧嘩になったようです。はじめに手を挙げたのは被害者の方で、容疑者は部屋に置いてあった薬缶や急須などで殴られたそうです。

激高した容疑者は、自炊用に流し台に置いてあった包丁で被害者の腹を刺し、殺人未遂の容疑で逮捕、起訴されました。容疑者自身も反撃にあい、頬に切り傷を受けています。一方の被害者は、小腸や大腸、腎臓にまで達する深い刺し傷を負ったものの命はとりとめました。現場には、血液の付着した2本の包丁(和包丁と洋包丁)が残されていました。当初、容疑者は現場にあった和包丁で腹部を刺した旨自供し、もう一本の洋包丁は被害者が反撃した際に使われたとされていました。

ところが、いよいよ裁判となると、容疑者は刺したのは当時現場にいたもう一人の男で、凶器も洋包丁の方であると、突然主張を変えたのです。和包丁に付着していた指紋や血痕の血液型から、この容疑者が和包丁を握ったのは明らかです。しかし、残念ながら当時の技術では、洋包丁を誰が使ったかを明らかにすることはできませんでした。しかも、いきなり犯人とされたもう一人の証言や被害者の証言は、当時、酩酊していたためか曖昧なままでした。

そこで、裁判所は、この2本の包丁のうちどちらの包丁が犯行に使われたのかの鑑定を我々に依頼してきたのです。

3.鑑定の実際

先ずは実体顕微鏡という立体的な観察を行う際に使われる、高性能な虫メガのような顕微鏡を使って、両方の包丁に付着した血痕を詳しく観察します。例えばここで、当時食べていた食べ物の残渣、つまり、消化された食べ物の残りなどが混じっているのが見つかれば、小腸や大腸といった消化管を傷つけている可能性が高くなります。ただし、もし消化された食べ物の残渣と思われるものが見つかったとしても、それがどんな食べ物に由来するのか、果たして事件の当日、あるいは前日に食べたものに由来するものなのかを証明することは至難の業です。弁護側が、そこをついてくるのは明らかです。求められるハードルは決して低いものでないことがわかっていただけると思います。

そこで、当時の法医学教室の教授-私を育てていただいた恩師ーから一つのアイデアが語られました。言い遅れましたが、これから語られる鑑定事例の多くは法医学教室の教授が鑑定人として引き受け、それに関する理化学試験などの実務は私や同僚たちが行ったというのが事実です。大学も医学部卒業ではなく、ほとんど何の経験もない私が自ら思いつくようなアイデアではありません。

さて、そのアイデアというのは、包丁が小腸や大腸といった消化管を貫いているのであれば、食べ物を消化する際に働く、一般に消化酵素と言われる物質が血痕に混じっているのではないだろうかというものでした。確かに我々が口から食べ物を食べ、排泄物として体外に排出されるまで、食道、胃、小腸から大腸へと消化管は一本の管のようにつながっており、食べ物が途中でこの管の中から体外に飛び出ることはおう吐する以外にはないのです。この消化酵素を血痕の中から理化学的な方法を使って証明することができれば、その血痕は被害者の腹部が刺された際に付着した可能性が極めて高いということになります。

我々が食べ物を食べ、消化し、栄養として体内に摂り込むまでには、さまざまな消化酵素の助けを借りています。まず、モノを口に入れてかみ砕く際には唾液が分泌されることは多くの人がご存じだと思います。この唾液の中にはアミラーゼという消化酵素が混ざっており、咀嚼しながら糖分を分解していきます。ご飯をよく噛むと甘く感じるのはこのアミラーゼの作用のひとつです。続く胃では、ペプシンという酵素でタンパク質を分解します。胃を通過すると十二指腸で膵臓や胆のうから分泌された酵素によって主に脂肪分が分解され、そして、分解された糖分やタンパク質、脂質などが小腸に送られ体内に吸収されていきます。これらの消化管に特有な物質が包丁に付着した血痕から検出証明できれば、腹部を刺した包丁がどちらであったかを明らかにすることができるはずです。

そこで、私は、これらの消化酵素を検出する方法を調べることにしました。これらの方法は主に皆さんが病院にかかった時に行う各種の検査で広く使われています。しかし、これらの技術は一般の検査用であり、血痕、特に包丁の刃に付着したような僅かな量では検査を行うことはできません。特に犯罪に関する鑑定では、二次鑑定に備えてその全てを使い切ることはできません。別の機会に、ある鑑定で試料の全量を使い切ったために確認のための再鑑定ができなくなり、無罪になった事件についても触れていければと思います。

私は、過去の論文や教科書から先ほど述べた消化酵素のうち3種類の酵素の検出を試してみることにしました。その結果、当初犯行に使われたとされていた和包丁に付着した血痕から、唾液に由来するアミラーゼという酵素が高い濃度で検出され、この和包丁が凶器であることが科学的に証明されたのです。

しかし、このアミラーゼという消化酵素を検出した方法は、実に原始的で、だれもが小学生の頃に経験した理科の実験を応用したものでした。みなさんは、デンプンを含む水溶液にルゴール液(うがい薬としても使われている)と言われるヨウ素を含む液体をたらすと青紫色に変わる実験をした経験もっているのではないでしょうか。私は、デンプンとしてジャガイモにこの液をたらして紫色に変色した実験を今でも覚えています。この反応をヨウ素デンプン反応(https://www.jstage.jst.go.jp/article/kakyoshi/70/8/70_388/_pdf)と呼びます。鑑定はこの反応を逆手にとって行われました。

つまり、アミラーゼは糖分の一種であるデンプンを分解するので、デンプンが分解されてしまうとヨウ素デンプン反応は起きないはずです。デンプンといえば片栗粉や白玉粉などが思い浮かびますが、これを水で溶かし寒天と混ぜて固めます。ルゴール液につけると全体が青紫に染まります。先ずは、自分の唾液などを使って、アミラーゼがあればデンプンが消化されヨウ素デンプン反応は起きず寒天は青紫に染まらないことを確認しました。しかも、唾液の広がりに比例して、染まらない範囲は白く円を描き、量に従ってその円は広がっていくことがわかりました。

いよいよ、和包丁と洋包丁に付着した血痕をふき取ったろ紙片をデンプンを固めた寒天の上に置き、一晩、体温に近い37℃に温めたふ卵器に置きます。翌日、この寒天をルゴール液につけます。さすがに結果はどうなるか緊張の時です。そして結果は…

和包丁の血痕をふき取ったろ紙片の周りだけが白い円を描いていたのです。つまり、和包丁の血痕には消化管に由来するアミラーゼという消化酵素が混じっていたことが目で見てもわかるように証明されたのです。

4.この鑑定が意味するもの

先ずは、この難問に接し、事件の現場に残された血液には損傷を受けた部位に由来する何らかの物質が混じっているのではないか、それを科学的に検出証明できれば血痕の由来が明らかになるのではないかと思い至った当時の教授の慧眼が解決の口火をきったたことに尽きるのは言うまでもありません。次に、一般に広く知られ、例え文系の裁判官であろうがヨウ素デンプン反応という誰が見ても簡単にわかる方法でアミラーゼの存在を視覚的に訴えることができたことです。自画自賛に聞こえるかもしれませんが、それを逆手にとってアミラーゼの存在を証明できたことは今でも忘れ難い出来事の一つです。

法医学は応用医学という分野に分類される医学の世界の一分野であり、一般に広く使われている検査技術などを応用し、求められた問いに対して答えていくという学問なのです。

この鑑定は、後の裁判で証拠として採用され起訴された容疑者の犯行と認定されました。そして、理化学的な手法を使って血液から損傷した臓器を特定したわが国初の事例として広く認知されるに至ったのです。この事例の詳細は、「判例タイムズ」663号(1987年7月1日号)に掲載されています。

では、犯行の実際はどのように行われたのでしょうか。容疑者は犯行を否認し、被害者や濡れ衣をかぶせられそうになった第三者ともにあやふやな証言に終始しています。現場に残された物証からは、容疑者が和包丁を使って被害者の腹部を刺したのは明らかです。しかし、酒を飲んでささいな口論から相手を殺してやろうと激高した挙句の犯行なのか、実は日ごろから恨みを抱いていた末の犯行であったかの真実はこの裁判や鑑定の結果からは導き出すことはできません。

この鑑定例が物語るのは、科学捜査全盛の現在においてもいまだに解明できない問題が数多く残されているという事実です。特に事件や事故は、当事者間のもつそれぞれの背景とそこに至るまでの状況がさまざまに交錯しています。単なる偶然だっただけかもしれません。現場に残る事実だけから事件の真相にたどり着くのがいかに難しいかを物語っているのではないでしょうか。

5.その後の展開

この事件をきっかけに、我々は、犯罪現場に残された血痕などの痕跡から人体の様々な臓器に由来する物質を理化学的に検出証明できれは犯罪現場に残された血痕からでも傷害を受けた臓器を特定することができると考え、「臓器特異抗原の検出による損傷臓器の特定」という壮大な研究テーマに挑むことになったのです。まさに、私の半生を決定づけた最初の鑑定事例となったのです。

これからこの研究の進捗に関しても少しづつ述べていきたいと思っています。

※この記事は、三十数年前の記憶と執筆した論文(Act. Crim. Japon.、54(2)
1988年)をもとに書かれていますので、少し事実と異なる部分があるかもしれませんが、その節はどうぞ寛容に見てくだされば幸いです。



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