【物語】 図書館の過ごし方
かちゃかちゃ、かちゃかちゃ
凄まじいスピードでキーボードを打つ音がする。
僕はそっと隣のデクスを見る。
書籍も書類も角を合わせてきちんと揃えられたデスク。そこに、灰色のビジネススーツをキリッと着こなし、背筋をピンと伸ばして、手元を一切見ずにキーボードを叩く、僕の同期がみえる。
ここ、岬図書館で司書を務める僕と彼。
彼は今、来月この図書館で行われるイベントの資料を作成している。
時間通り、規則通り、一切の無駄がないロボットのような男。僕は、彼の背中に電源スイッチがあっても驚かないだろう。僕は自分の作業に没頭するため、手元の茶色い破片に向き合った。
ゴーン、ゴーン。
午後5時ちょうど。
隣からパタン、という音が聞こえた。
就業時間だ。
僕は今日遅番だからこの図書館が閉まる午後7時までいなければいけないけど、大体の職員はここで修業だ。まあ、僕の場合、業務がまだ終わっていないから帰れないけれど、、
彼は、必要なものを新品のビジネスバッグに入れると、さっと席を立った。
「お疲れ様です。」
「あ、お疲れ様。」
必要な業務を全て終えて、彼は振り返ることもなく帰宅した。
僕は、シワひとつないグレーの背中を見送った。
電源ボタンは、まだ見つかっていない。
俺は、必要な業務を終えて司書室を出た。
そして、エスカレーターで1階に降り、コンクリートに囲まれた建物の1番奥、図書館のロッカーに向かった。薄暗いロッカールーム。100円を入れて、扉を開ける。ロッカーの中にビジネスバックを入れて、上着を丁寧に畳んでしまった。
午後5時以降は、仕事帰りの人が多く訪れる。読みたい本を早めに確保しないと、他の人に持ってかれるな。
借りたいと思っていた本が、今日返却されていたことを思い出しながら、先程下ってきたエスカレーターの隣、上昇用のエスカレーターに乗る。登りきると、1面ガラス張りで外が美しく見える図書館に、黄昏が迫っていた。
俺は、目的の本があるコーナーに向かった。
ない。
探していた科学雑誌が、ない。
俺はもう一度、本があるはずの本棚を見た。
書棚が、夕日が反射して金色に光る。眩しさに目を細めながら、何度見る。それでも、目的の本が見当たらなかった。
俺はため息をついて、貸し出しカウンターを見た。
長いスーパーのレジのようなカウンター。
真ん中には、セルフカウンターがあり、利用者が自分で貸し出し手続きを行うことができるデスクがある。そして、その隣には、『本の相談所』と書かれた小さなカウンターとソファーがちょこんと佇んでいる。
俺は、『本の相談所』と書かれたデスクに向かう。
静かな図書館に、革靴のかん、かん、という音が響く。デスクの前まで来ると『相談したい人は、ここを押してください!』という貼り紙が貼ってあった。俺は、デスクに置いてある赤いボタンを押した。
リーンリーン、という可愛らしい電子音が図書館を駆け巡る。
その後、30秒くらいしてから、メガネをかけた白いワイシャツに図書館司書専用の黒いエプロンをした男が出てきた。
小さなセピア色の欠片を、ピンセットでつまむ。
そして、少し大きめの欠片に、小さな欠片を当てはめていく。
粉々になっているフィルムの修復は難しい。古くて劣化しているものは、尚更。
だが、これは大事な歴史の目撃者だ。後世に残すべき、遺産だ。
ピンセットを持った手に力がこもる。
パズルよりも難解なピースを、
寸分の狂いもなく繋ぎ合わせる。
一つひとつ。
丁寧に、慎重に。
一つひとつ。
大切に。
一番小さなかけらを、本来あるべき場所に戻した。周りに、まだ残っている職員が話している声が耳に戻ってきた。
ほっとため息をつこうとした瞬間、呼び鈴が鳴った。
りーんりーん
僕は、急いで図書館司書専用のエプロンを着て、『本の相談所』へ向かう。
『本の相談所』には、銀色の書棚を背景にして、白いワイシャツを袖まで捲った男ーーー先ほど別れを告げた同僚ーーーがいた。
またか。
僕は苦笑いしながら同僚に近づく。
「今日は何がないの?」
「2週間前に入荷した、科学雑誌の最新刊だ。」
ああ、あの『Nature』という雑誌か。
この男は、無類の本好きらしい。図書館司書になって図書館の業務をするにも関わらず、終業後も図書館に居座って午後7時まで自由に本を読む。専門書も大衆文学も論文も、なんでも読む。目的の本が見つからないときは、遠慮なく『本の相談所』にくる。まあ、その彼の様子を見て、『本の相談所』の利用者が増えたのはありがたいことだが、、、
昔、冗談で彼にこういった。
「そんなに急いで帰らなくても、どうせ図書館にいるんだろ?ゆっくりいけばいいじゃないか。」
彼は、パソコンから目を逸らさずに、僕にこう返した。
「俺は、やるべきことを全て終えてから、ゆっくり本を読みたいんだよ。」
僕は、図書館が好きだ。
図書館の業務も好きだ。
だから、業務だってのんびりやるし、帰宅も急がない。
彼は、図書館が好きだ。
図書館の業務も嫌がることがない。
けれど、業務は最速で無駄なくやるし、時間をすぎて仕事をすることはほとんどない。
同じものが好きなのに、
同じ24時間を生きているのに、
全く違う速度で生きている。
僕はあの男を見る度に、同じ人類なのか疑っている、未だ、背中にスイッチがないのが不思議なくらい。僕とは違う、僕と同じものが好きな男。
少し待ってろ、と言って僕は返却された本の保存庫に向かった。
時折紙をめくる音がする、静かな図書館。
紙の匂いがする。
新しい本の新鮮な匂いと、古い本の懐かしい匂いが混ざる、夕方の図書館。
1冊1冊丁寧にながめ、彼が探している本を見つけた。表紙を確認し、僕は、『本の相談所』に戻る。
彼は、近くの本を手に取り、カウンターのソファに座ってゆっくり本を読んでいた。
どこまで本が好きなんだ、この男。
「ほら、これだろう?」
僕は、彼に本を差し出す。
「ああ、間違いない。業務中にすまなかったな。」
心にもない声で彼が謝る。
どうせ、次も遠慮なく『本の相談所』を使うくせに。
彼は、目的の雑誌を手に、夕日に照らされた図書館を歩く。黄昏に染まる図書館の片隅で、今日も彼は日が暮れるまで本を読むのだろう。
僕は大きく伸びをした。
さて、修繕作業の続きにいきますか。