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論理的誤謬の原因となった事象について【経験則と差別】
1.AならばB
巷では、「男(女)って、○○だよね。」というような発言に対して、「そうじゃない男(女)もいるから、それは間違ってる。」というような論法がある。
AならばBという命題に対して、AだがBではない例(反例)を持ち出して論駁するのだ。
これは数学などの自然科学の分野では、当然正しく、反例がある限りその命題は真ではない。
偽なのである。
しかし、社会科学ないしは日常生活レベルにおいても、反例があるため当該命題は偽であり、誤っていると切り捨ててもいいのだろうか。
誤謬の中にも一定の理解すべき点はないのであろうか?
2.赤いキノコ
例えば、「赤いキノコは食べていけない。」とある男が言っていたとする。
その理由を尋ねてみれば、
「昨日、近くの山に生えていた赤いキノコを採ってきて食べたら、腹痛になった。」
「半年前、ここから少し歩いた山に生えていた赤いキノコ採ってきて食べたら、下痢になった。」
「それだけじゃない。
一年前、遠くの山に生えていた赤いキノコを採って食べたら、嘔吐した。」
「だから、赤いキノコを食べると体調不良になるから、食べてはいけないんだ。」
と言ったとする。
この広い世の中を見渡せば、おそらく赤いキノコだが、毒のないキノコは存在するだろう。
ましてや、とても美味しい栄養価の高い赤いキノコだって存在するかもしれない。
だから、この男の発言は間違っていると、簡単に唾棄してもいいのだろうか?
いや、私はそうは思わない。
それは、この男の経験則に基づいているからだ。
3.論理的誤謬の中にも一定の理解
この男は、
昨日、赤いキノコを食べて腹痛になり
半年前に、赤いキノコを食べて下痢になり
一年前に、赤いキノコを食べて嘔吐
している。
男は一年間の間に、3度赤いキノコを食べ、3度とも体調不良になっているのだ。
そうすれば、経験則において「赤いキノコを食べてはいけない。」と思い至るのも、不思議なことではない。
人間をはじめ多くの動物はその生命を守るため、エラーを繰り返して、学習する。
この場合、赤いキノコを食べて、体調不良になるというエラーを繰り返して、赤いキノコは食べてはいけないと学習したのだ。
たとえ、広い世の中には、とても美味しい栄養価の高い赤いキノコがあるとしても、生命を維持するには、赤いキノコは食べない方がいいと学習したのだ。
男には、3回の経験から、全ての赤いキノコが危険だとしてしまった論理的誤謬は確かに存在する。
しかし、その誤った一般化に至る原因には宥恕すべき点、ないしは一定の理解すべき点があるのではないだろうか。
男は、たしかに3回赤いキノコを食べて、3回とも体調不良になったのは事実である。
広い世の中には、毒のない赤いキノコがあったとしても、男が活動する範囲の山中では、もしかすると赤いキノコは全部毒キノコだったかもしれないのである。
4.私の伝えたいこと
ここで、私は何がいいたいのか。
それは、世の中の絶対的悪とされる差別や偏見についてである。
差別や偏見は戦後民主主義教育の中で悪とされ、それによる弊害は社会全体の問題であることに違いはない。
例えば年齢、人種、性別、社会的身分など本人の努力ではどうにもならない社会的性質をもって、スティグマを貼られ、排斥ないしは不利益な取り扱いを受けたのならば、健全な現代社会とはいえないだろう。
単純に不利益を受けた人の立場に立って考えれば、感情的に納得がいかないし、不条理と思うのは無理もない。
(戦後民主主義教育を受けたから、そう感じるのかもしれないが。
例えば、身分が固定化されていた時代では下位に置かれたもの自身をも、それを当然としていたかもしれない。)
しかし、私は日本社会に存在する、ある差別について差別意識を持っている。
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