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【日記】アセクシュアルの私がセクシュアリティの違う人と一緒にいて気づいたこと

自己紹介にも書いてあるが、私はアダルトチルドレンである。
そして、自身をアセクシュアル、またはアロマンティックではないかと認識している。

アロマンティック=他の人に恋愛感情を抱かないこと

アセクシュアル=他の人に性愛感情を抱かないこと

三宅大二郎ほか(2024)『いちばんやさしいアロマンティックやアセクシュアルのこと』明石書店


今日は、自分のセクシュアリティについて思いをしたためていきたい。




子供の頃からずっと異性が苦手だった。
 
食事が遅かったという理由で、幼稚園ではいじられまくった。
どんくさいという理由で、小学校や中学校ではからかいの対象にされた。
 
そんな状態だから、恋どころではなかった。
異性から身を守るので精いっぱいだった。
私にとって異性は攻撃をしてくる存在でしかなかった。
 
そんな自分も高校時代には、告白をされた。
高校の異性はみな温厚で、異性が苦手な私でも普通に会話ができるくらいだった。
 
が、それとこれとは話が別である。
話ができるからといって、イコール好きになれるとは限らないのである。
 
告白してくれた人には申し訳ないが、……まっっったくときめかなかった。
 
私を襲ったもの。
それは、パニックである。
 
異性=攻撃してくるもの、の図式が完全に確立していた私にとって、異性に好きだと言われることは、異星人の襲来にほかならなかった。
 
そんな状態だったので、当然その人とはうまくいかなかった。
当然と言えば当然だ。
 
その後、社会人になって何度か異性と親しくなる機会があった。
 
みんないい人だったと思う。
 
こんな私を好意的に受け止めてくれて嬉しい、という気持ちがないわけでもなかった。
 
しかし、そのたびに私の中を駆け巡ったのは、「なんか違う」という猛烈な違和感である。
 
好意は嬉しい。
でも、その好意の中身が私の求めるものではない。
私が欲しいのは「恋情」ではない、と。
 
 
 
その答えは、十数年後、自分がアダルトチルドレンであり、アセクシュアルであると自認した時分にやってきた。
 
セクシュアリティの違う人と食事をする機会を得たのだ。
 
そこで、私は一つの賭けに出た。
 
自分が本当にアセクシュアルなのかどうかを確認しよう、と。
 
本当に恋情が、性愛が抱けないのかと。
 
食事して。
 
散歩をして。
 
話をして。

 
結果、やっぱり私は私だった。

 
やっぱり恋情は分からない。性愛も分からない。
 
セクシュアリティの違う人と一緒にいて感じたのは、猛烈な不安と疲労だけだった。


  
でも、おかげで欲しいものは分かった。
 
愛されなかった自分。
 
守ってもらえなかった自分。
 
恋なんか、性なんか、「欲望」なんかほしくない自分。
 
自分と対話して気づいたのは、私が欲しかったのは庇護者からの無償の「愛情」だということだ。
 
私の欲しい「愛情」に「欲望」はいらない。
 
「欲望」が混じっていては、ただの恐怖にしかならない。
 
私の中の『子供』はいまでも叫んでいる。

 
愛してほしかった。
 
守ってほしかった。
 
そのままでいいよ、と声をかけてほしかった、と。
 

自分は、やっぱり セクシュアリティマジョリティではなかった。

それは残念だが、自分とじっくり向き合ったおかげで、本当に欲しいものという学びを得ることができた。

それだけは感謝したい。



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