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騙される裸体を借り物の恥じらいだと感じた

たとえ話はつねに嘘を含んでいる。嘘によって成り立っている。「嘘」の迂回路を通って本当を運ぶ。これもちょっとした「たとえ話」なのだとしたらそこには「嘘」が含まれているのだろう。どんな嘘? 気が滅入る。けれどもいったい「たとえ話」ではない言葉なんてあるんだろうか?

騙されることによってしか人は理解することができない。この言葉に騙されておくだけでも、騙されることは減ると思う。

骨組みは隠すものだった。見つけた人間にだけ価値を持つものだった。それを他人に知らせようとすることには恥ずかしさがあった。今は骨組みを見せようとするばかりだ。見つけた側も、嬉々としてそれを他の目に晒す。たしかに、秘密を明らかにするのは楽しい。もっとも、それはもう秘密にしていてはいけない秘密なのだけれど。

裸体は晒したくないが、骨格なら晒してみてもいい気がする。裸体は晒したくないが、脳みそなら晒してもいい気がする。裸っていうのは表面にしかないのだろうが、その表面には裏側がない。

恥じらいには浅さも深さもない。

自信とは、ある選択肢で、面白いものとわからないものがあったときに、わからないもののほうを選ばせるような感情のことであってほしい。

ときどき、というか常に、なにも知らないためになにかを知ろうとしているという徒労の気分に打たれる。これはこうなっているんだな、これはこういうことなんだな、その考えのそばで、いや、もっと、別の、もっと奥深く、あるいはもっと浅く、そうささやく声がある。もっと知りたいのではない。もっと別の知り方をしたい。でもその知り方がわからない。

こんなにもこれは大切なことだとわかっているのに、どうしてもっと深く自分の心に刻まれてくれないのか。このまま忘れ去られてほしくなくて覚えておこうとすると、途端に退屈で気詰まりになってくる。怠惰なんだろうか。ちがうんだと駄々をこねる。最初に心に押しつけられたあの感覚と、記憶の型を心に押し当てて起こる感覚は重ならないと。ちがうものを覚えようとしているそれは徒労だと。

なにかを言葉にしようとしていざ言葉になると、それがそのなにかにたいする罵倒のように感じることがある。と書いて、この言葉自体が、どこかからここに漂着してきた借り物の言葉だととっさに感じる。罵倒だと感じたのは誰なのだろうか?

借り物だと感じたのは誰。









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