いつも「残りもの」の私
私たちは夢見た「自分」あるいは「誰か」の真似をすることしかできない。その夢の自分や誰かになることは絶対にできない。しかしこの一致しなさこそが、私たちの可能性そのものなのだ。どう転んだとしても。
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誰かの言葉があなたを乗り越えさせてくれたとき、一度立ち止まって欲しい。自分をもう一度省みてほしい。あなたがその困難を乗り越えられたのはきっとその言葉のおかげだけではなかったはず。あなた自身のなかにあったなにかもまた、あなたの背中を押してくれた。そのなにかと誰かの言葉の出会いが、あなたを乗り越えさせたのだ。そのなにかにも気づいてあげてほしい。
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誰かの言葉に感銘をうけたとき、その言葉に自分の中のなにが感銘を受けているのかに思いを馳せる。それはその言葉以上に美しいものかもしれない。
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醜悪な言葉に自分のどこが、なにが、反応しているのかにも注意すること。その部分のためにほかの誰でもない自分自身の血を流せるように。その血は涙のように、誰にも気づかれることなく誰かを救うだろう。
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すべての出会いが「出会い損ね」だと思うとき、その成立した「出会い損ね」としての出会いの背後の、無数の気づかれなかった「出会い損ね」に焦がれてしまう。どれも不完全であることにおいては等価なはずだ。それなのになぜ、「この」出会いなのか。どうして他でもないこの出会い損ね方なのか。
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どうしようもない偶然に運命という名前をつける。すると途端に、その運命とされたもののまわりに、それが必然だったと思わせる符牒が集まってくる。偶然の一致、かぎりなく似ている出来事の起こり方、日付や時間といったもの。数え上げるならキリがないし、人によって目を着ける場所も違う。
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この目の付け所の違いを言い換えるなら、必然にたいするフェチが違う、というべきだろう。必然、理由付け、それら自体、私たちそれぞれに異なる独特のフェチに、もとづいているということだ。言い換えれば、人によってなにが必然と感じるのか、その感度やアンテナに違いがある。
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私たちのなかになにか、新しい言葉が起こるとき、その言葉が生まれるような触発を起こしたものが何なのかを考えてみる。対話がはじまる。偶然が必然に向かっていこうとする。たどりつけない旅路だ。だが戻ることも叶わない。
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その対話は似ているもの同士の対話なのか、それともまったく違うもの対話なのか。時代によって違うだろう。まったく違うものを対話させたがる時代もあれば、かぎりなく同じものを対話させたがる時代もある。現代は後者の時代のような気がしている。
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似たもの同士をぶつけあわせているうちに、どちらともまったく異質ななにかが生み出されることを、心のどこかが望んでいる。白と白っぽい色をまぜあわせるうちに、そのなかにふと黒が輝きのように到来する瞬間。
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ある言葉に自分のなかのなにかが触発されて、対話がはじまる。だがその対話はいわば別の中心をもった二つの波紋と波紋がたがいとまじわりあうようなそれだ。私たちの内的な対話は、瞬間瞬間にその相手が移り変わり、また自分自身も移り変わっていく。その対話のあとの残りものとして「私」がある。出会い損ねたことの証拠であり、痕跡として。
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