ありえたかもしれない世界に共感すること
ある違和感が傷みに変わっていく感覚は、痛みの感覚それ自体よりも恐ろしいと思う
死そのものではなく、死に近づいていくことのほうが恐ろしいのと同じに
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ある違和感が痛みに変わっていくとき
死が近づいてくるのを感じるとき
それらのときに、私たちを駆け巡るのは、そこに至ったまでの道程であり、それ以上に「もしあそこでこうしていたら、こうしていなかったら」といった可能性だろう
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ぼんやりとしていたものが、あるくっきりとした感覚や思考に置き変わっていくとき
そのとき、人はこういった「ありえたかもしれない」に鋭敏になる。言い換えれば無防備になる
無数の「ありえたかもしれない」が襲ってくるのだ
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けれども、これらは、ある不思議な仕方で襲いかかってくる
つまり、自分と自分の今いる現実に全く影響をおよぼさないことによって、襲ってくる
可能性たちは、この現実世界にたいして全く無力だ
その可能性たちの無力さに共感することによって、この現実の私たち自身も、無力さを感じとることになる
それが、現実に対する、私たち自身の無力さとしてあらわれてくる
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可能性たちに対する共感。とりわけその無力さに対する共感。現実に対する私たちの無力感の由来は、この共感能力にある
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なにかが変化していく瞬間、たとえば違和感が痛みに変わっていくさなか、現実は、可能性とみわけがつかなくなる
なぜなら、変化とは、可能性と現実の狭間をさまようことだからだ
だから、その変化のなかでは、無数の可能性が、無限大のありえたかもしれないが、「今ここ」に雪崩れ込んでくる
変化の中でのあの恐ろしさは、この雪崩れへの恐怖であり、可能性への共感が鋭いほどに、その恐怖もまた大きくなる
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仮に無限大の可能性への共感があったとしたら、そのときは無限大のありえたこと、ありえなかったことに、押しつぶされるだろう
この無限遠点に位置する崩壊に至るまでのどこかに、人それぞれの共感力がある
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仮にそうだとして、私たちは可能性の無力さにしか共感できないのか、とはせめて問いかけてみたくなる
もちろんおそらくは、この無力さこそがすべてのはじまりだ
私たちの言葉による思考も、おそらくはこの無力さを通してはじめてはじまる
そもそも思考ほど、可能(性)的なものはないのだから。こんなにも無力なものも。
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考えることもまた、考えることの無力さへの共感によって成り立っているのだとしたら?
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たぶん、私たちが思っている以上に、可能性は至るところに転がっている。無力なまま、打ち捨てられている。痛みが、あるいは死が近づいてくるとき、だけじゃない
そもそも「今ここ」の自分、この自分自身が、ひとつの可能性(ありえたかもしれない)であり、その無力さであり、その無力さへの共感かもしれないのだ
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ある可能性に、ある「ありえたかもしれない」にかぎりなく共感するとき、私だけじゃなくあなたまで変わっていくようなのが、怖かった
読んでくれて、ありがとう。