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類似恐怖症と似ていることの怪物性
敵意のなかには相手が自分に似ていることから生まれるものも少なくない。
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私たちは、動物に似ていることと同じくらい、人間に似ていることを恐れる。このふたつが似ているのは、どちらも忘我の快楽をともなっている点だ。
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似ていることを違うことにしたいという欲望と、似ていることを同じことにしたいという欲望。この「似ている」がさまざまな可能性に開かれてしまっていることが、恐いのだ。根本的な異質さが呼び込む可能性だ。終わることのない誤算だ。祝福としての「類似」という怪物。
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私たちの思考はいわゆる「人間」のそれとは一致しない。私たちの思考は、人間のそれを、真似ようとしてのものだ。幻想のなかの理想の人間の想念を真似ようとすることで思考が生まれる。
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似ていることには究極的には理由がない。この理由のなさを恐れ、これを遠ざけるために言葉は生まれた。似ていることのそばで忘れられていくものを持ちこたえるために。
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似ていることに執着するのは、そこから意味と無意味がはじまるからだ。似ていることを取り囲もうと言葉がする。それを審判にかけて裁こうとする。裁かれているのは自分だと気づかない。
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似ていることには究極的には理由がない。悪に究極的に理由がないように。だが、似ていることと悪、この二つはどれくらい「似ている」のだろう。この「ように」にもまた理由がない。もしくは理由がありつつ理由がない。
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分身にたいする恐怖はそれが自分と同じだからではない。限りなく似ていることがつくる破れ目から、己に入りこんでくる異質が恐いのだ。自分の抑えつけたかった側面の暴露は、そしてその可能性は、こういった異物への経由口としても、ひらいている。隠されていた自分にはまだその先がある。あるいはそもそも、その隠されていた自分自体が、別のものへの入口に様変わりするのだ。「同じ」に近づくことが、ある臨界点で「違い」に反転する。
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そうやって守ろうとするなにかもまた、究極には、「似ていること」のネットワークにすぎない。過去の自分と今の自分をつなぐのは、究極には「似ていること」でしかない。問題は、どの類似を選び取るかに帰着するのだろうか。
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あらゆる苦しみの原型は、時間のなかに散らばったおびただしい星のようだ。星たちの光はまったく別の時間からばらばらに到来している。それらを結んで星座にするとき、ひとつの流れをつくって脳裏へと流れこむ苦しみ。
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私たちと過去の、あるいは、私たちと未来の結び目をつくるのもほどくのも「似ていること」なのだとして、同じことが、今ある私とあなたについても言えるのか。もしもそれも類似にとどまるとして、その類似はどこへつながっているのか。時間のなかの私と私の関係と、今ある私とあなたの関係の分身関係。