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【めも④】素通りするほど大事な?

それはすでに過去のものだ、と言ったとき、その言葉は、そのものを過去に追いやって否定するように見えて、それが古びていくものとして今あることを、実は肯定している。どちらの考えも、過去になることさえないものには触れていない。

法の抜け穴をつくような犯罪じみた方法でなにかが成し遂げられたというとき、とっさに、そのような方法がこれから先、すくなくとも禁じられるまでのあいだ、何度となく繰り返されるだろうという予感が起こる。まるでそういったことをする「予備軍」がそこら中にあふれているかのように。けれどもこういった予感はおそらくどこかで、その抜け穴的方法に自分も倣いたいという私たち自身のなかの欲望に呼応している。「私」のどこかが、それを「したい」と望んでいるから、同じ手口を行う人間がごまんといると考える。

言い落とされたこと、発することを禁じられたもの、すなわちあらわされなかったものたちは、それだけいっそう深く現実のなかに居座ることになる。そうしてどういったことが起こるか。私たちの許された認識をすり抜けることによって生きながらえつづけるか、積もり積もっていつか爆発するかだ。それをあらわさないことはそれを否定することではない。抹消することでもない。たとえ現在と過去においては否定していても、それは、現在でも過去でもないどこかにおいて、いっそう強い肯定になるだろう。

これはその作家の処女作と言いながら、世間と自分の軋轢に疲れ果てた疲労困憊の結果に見える。

洞察力とは、なによりもまず自分の中の悪(だと思うなにか)を察知する能力だ。

私たちは、私たち自身を感じることはない。だから、私たち、と言ってみるとき、そこには無以上の強烈な無感覚が開ける。

なにひとつ通り過ぎていくものはない。ここは行き止まりか、あるいはあらゆるものの底の底だ。

長い文章よりも、極端に短い文章のほうが、そこに立ち止まる時間が長く感じられるということ。短い文章は、そのパーツひとつひとつのディティールにこだわることを強いられるからだ。たいして、長い文章は概して、その流れを味わっていけばよい。この味わい方の違いが、時間感覚の違いを生むのだとしたら、短い文章と長い文章は、同じ言葉という媒体を用いながら、全く違う表現形式ということになる。実際、そう考える人もいるだろう。ところで、その二つのあいだに開いた距離は、たとえば西洋画と東洋画のあいだにひらいた距離よりも、大きなものになりはしないだろうか?

普段の言葉遣いで書く、となると、まごついてしまう。普段の言葉遣い? いったいどんなふうに喋っていただろう。そもそも普段とは日常とは? それを真似するのにも、つまりいわゆる自然なものを模倣するのにも技術が必要だ。普通の言葉遣い、わかりやすい言葉遣い、日常的なものとはいったいどんな形をしているのか。どんな音の並びをしているのか。ありのままでいいと言えるのなら、それは自分の努力に気づいていない。あるいは、はじめにあった努力を忘れるほど、努力をしてきたのか。赤ん坊が最初の呼吸のための苦しみも、そのために自分が泣いたことも、忘れてしまっているのと同じだ。


読んでくれて、ありがとう。

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