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【エッセイ】思い出の表裏

なにかをそのなにかとしてあらしめるために、私たちはそれについて思考している以上に、それについて多くを忘れる必要がある
それがそれであるためには、「思い出して」はいけないなにかがあるかのようだ

なにかを思い出すひとときに、たえずつきまとう不安がある。ときには、思い出の本体はそちらでないかと思えるほどだ。

生きるとはどういうことかを思い出すのが、死に、すくなくとも死の予感に直面したときだというなら、私たちは生きることを、それ自体だけで感じ取ることはできないのかもしれない。それを思い出すには、その反対を思い出さなければいけない。

春の陽気や、季節の変わり目を肌で感じ取ってみて、ふと生を実感する
そんなふうな生きるだとか死ぬだとか、そういうのがどうでもよくなって自分自身が弛緩するひとときにも、たしかに生はあるはずだ
けれどもそういう「ひととき」はいつも表裏一体の不安を持ち合わせてはいないか

表裏というのは、思いつく限りもっとも暴力的なあり方のひとつではないだろうか
それらを繋げているものがなんなのか
それらがどんなふうに出会ったのか
また出会わないのかを
誰も知ることはない
けれどもこの表裏というものが、私たちの世界の根幹をなしているのもたしかだろう

たとえば肺には痛みを感じる機能がない
思考では届いても感覚では届かないという点で、
肺は一種の抽象だと言うのは乱暴だろうか?
けれども私たちが私自身のそれに、一部としてのそれを、見たり感じ取ったりすることがないのはまちがいない
こういった無限に遠いような場所が、身体のなかにはいくつもあるだろう
その距離のあり方はどこか、表裏のそれに似ている

なにかを思い出すときの不安もまた、このようなものなのかもしれない。思い出の裏側を、感じ取れないで感じ取っている。

どれだけがむしゃらになってもたどり着けないものはあり、だからこそいっそう激しく焦がれる。抽象、つまり感覚なしの思考のことだけれど、それはその過程であり結果なのだろう。

思い出にはいつも何かが欠けている
その欠乏の感覚がまるで懐かしさであるかのようだ
そこに欠けているものはなんなのだろう?
そのときの自分なのか、感覚なのか、思考なのか
欠乏を埋めようとするほどにそれは、別の何かに変わり果ててしまう、
放置しても変わってしまう
私たちはそれをそのままにしておくことができない

はたして不安は、この追求の原因とも結果ともつかない。けれどもその裏にまわりこもうとした挙げ句、そばにはかけがえのない思い出とか、かけがえのない子の身体とか、かけがえのないこの私とか、そういったなにかが転がっている。


読んでくれて、ありがとう。

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