【エッセイ】夢とか可能性のはざまについて
私たちは他人についても世界についても夢を見ているに等しい。
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なにかをできるようになるには、なにかができなくならないといけない。可能は不可能と裏表で、そうして不可能になったものを、乗り越えた私たちは知ることができない。
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なにを乗り越えたのか、私たちが知ることはない。だから言葉によってそれを、せめてその陰影を、とらえておこうとする。
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なにかを怖いと感じるとき、その怖さに対して身構えることそれ自体が、その恐怖を呼び出すような節がある
それが積み重なるうち、どういうわけか、その身構え自体が怖ろしくなってくる
そうして実際の恐怖の手前に、もうひとつ、しこりのような恐怖ができあがり、それによって実際の恐怖がふさがれる
夢の前に、もうひとつの夢を置くのだ
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怖ろしいという気持ちそのものはどうすることもできないので、それと現実と自分の結びつき方を加工することで、せめてもの抵抗とする。そのための道具としての言葉。むしろ言葉がなければ、そんな芸当はできないのかもしれない。
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この世界は箱庭なのだと思ううちに、もはや、この世界が箱庭であってほしいと望むようになる
なにかしら考えたことは、考えられたという時点で、それを望む気持ちが、少なからず忍び込んでいるかのようだ
すくなくとも、その考えを先へ先へと伸ばしつづけることと、それを望むことの区別はあいまいだ
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夢が夢であると、その夢を見ているその最中には気づくことがない
覚めてみてからやっと、それが夢であったか、夢でなかったか考えはじめる。その巡る考えもひとつの夢である。
すくなくとも、それ自体夢かもしれないそのことについては、次の目覚めまでひきずっていく
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なにかが可能性にとどまりつづけることで、べつのなにかが可能になる。
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自分が乗り越えなかったものたち、乗り越えることができなかったものたち、乗り越える必要さえなかったものたちを頼りに、なにかを乗り越える。
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私たちは自分たちになにができるのかを知らない。それと同じくらい、なにができないのかも知らない。そのふたつの狭間にあるものについては、なおさらなにも知らず、覚えがないから、そこに思いを巡らせるのだろう。
読んでくれて、ありがとう。