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隔たりの愛を書きつのる愚かさ
見たいものしか見ないのではなく、もはや見えているものが見たいものだ。だったら、見たいものそれ自体を豊かにしていくしかないだろう。たとえその豊かさもまた見たいものでしかないとしても。
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見たいもののために見たくないものを見ることも大事だが、そもそも見たくないにも入ってこない見えないものがある。その不意打ちを待たずに待つ。
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愛は人と人を隔てる。思えば思うほど、考えが積もるほど壁は分厚くなっていくから。愛のないところに壁はない。隔たりはない。だからいないようなものだ。壁が薄すぎて存在を感じとれない。存在とは壁の厚みが訴えてくる圧迫のことだ。
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愛とは隔たりを深めていくもののこと。その壁を越えられたように思うとき、それ自体が愛おしく感じられてくるような壁をつくるもの。
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その向こうにはなにがいるのだろう? ここから愛ははじまって、あとは壁は分厚くなっていくだけだと思うと、それだけでなぜか慰めになる。その壁を隔てたまま20年付き合えたとしたら、それはやっぱり凄いことだろうしそう思えるだろう。そう信じること。
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恋愛は愛ではない。恋と愛のあいだにある状態のことだ。恋愛が恋から愛へ向かうまでの道のりなのだとしたら?
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なにか考えたくて書くのだとしよう。書いたとしよう。これはズレていると思う。また書く。なんかちがう。こうやってまちがいばかり増えていくのは、つまり書けば書くほど愚かになっていくみたいだ。
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ChatGPTも書かせ続ければ続けるほど愚かになっていくのだろうか。それとも賢くなっていくのだろうか。すくなくともChatGPTの中身は高度化されていくのだろう。それと同じように自分の中身もマシになっているだろうか。
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と、思うときAIと自分を並行して考えているのに気づく。このときどちらがこの並行の先にあったものなのだろう。AIを人間のようにみなしているのか、それとも人間をAIのようにみなしているのか。
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どちらの方向が正しいではなくて、この行き来の道ができていること。境界線とはこの道のことだ。
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人間とAIの境界線は、人間が見たいものと見たくないものの線引きと呼応するだろう。
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書けば書くほど愚かになっていくという感覚の先で、自分のことは当てにせずに、書かれた言葉を当てにするという訳のわからん状態に陥る。祈るというにはちょっといい加減だ。インターネットあるかぎりそこにありつづける君になにを思えばいいのか。