【エッセイ】宝石の赤裸
誰かをじっと見つめ続けていると、その顔のなかにその誰かを見失ってしまう瞬間がやってくる。もちろん一瞬の出来事だ。けれどもこの一瞬があるだけで、「誰か」というその認識が私たちの知覚ほど長続きしないということがわかる。「誰か」という固定は、私たちの凝視の前で1分と持ちこたえることができないのだ。
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宝石のなかに入ってみれば、もうそこには輝きはない
あるのは複雑に屈折しておりたたまれた、光のいくつもの通り道だ
たとえ輝きがそこを通過しようとも、内側の私たちはそれを認識はできないだろう
私たちは光を結果としてしか享受できない。光の過程を私たちは知らない
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宝石とはモノというよりも、ある光の出来事のことだ。偶然にもその通路に迷い込んでしまった光が、いくつもの屈折を経て外に出ていくまでの過程。
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宝石を光の出来事とするなら、宝石とひとまず呼ばれている「それ」はなにか? 凝縮された闇だろうか?
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光のささない暗闇にいるとき、その輪郭を奪われて、自分の身体が闇に溶け出していきそうだ。そう考えてみるときにこそ、自分という輪郭がもっとも意識されている。そのとき、光ではなく闇が、ある危機感として、輪郭の意識を与える。
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光がないところでは身体は闇の凝縮でしかない。それこそが剥き出しになった裸体そのものだ。光はそれに覆いをかける。
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私たちが光の下で見る血はたしかに赤いが、
血管の中を巡り続けるときのそれは色を知らない
真っ暗闇を真っ暗闇としてそれは流れつづける
私の肉にしても、心臓にしても、似たようなものだろう
光のないなかで、剥き出しの闇がうごめき続ける
≠
剥き出しのままでは光と触れ合えないので、何かを纏う。完全の暗闇は無理でも、ほのかな闇をあいだに置く。
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私のなかには光にさらされることなく失われていく場所があって、
むしろそういう部分のほうがはるかに多いくらいで、
だからこそそれらを私と呼ぶしかない
どれだけ異質であったとしても、今はまだその言葉の下にしか、それらを集めることができない。私。このはじまりにやってくるようでいて、力尽きた最後のため息であるもの
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私も宝石も、どちらの名も、ある切実な過程に覆いをかける。けれどもそれらの過程はともすれば、覆いがあってはじめてこの世界に位置を、虚としての位置を、与えられるのかもしれないのだ。
読んでくれて、ありがとう。
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