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【エッセイ】恥、演技、破壊的

恥ずかしいはつねに新しい。ただ新しいというよりも新しい。破壊的な新しさ。心の底から恥を覚えた経験を総ざらいしてみれば、どれひとつとして同じものはないだろう。

同じような経験ばかりして恥ずかしい思いをしているというとき、それは本当に恥ずかしさだろうか。恥ずかしさを演じていないだろうか
くり返す感情は、どこまでも演技に取り憑かれているし演技に取り憑いている
たとえば涙を流しているとき、それを俯瞰する自分がいることを感じない瞬間のほうが少ないくらいではないか

演技はそれを演じるだけではなりたたない。それが演技だという澄み切った自覚と、それを完全に忘れることとのせめぎあいがあって、完全な演技は可能になる。

繰り返されたものを、一度きりの経験に仕立て上げるために言葉が費やされる。あるいは、くり返しに見えるものを完全なくり返しに帰すために。
どちらの目的も「言葉」という道具に頼るせいで、互いが互いにまぎれこむ

自分の死体をさらすことには恥ずかしさを覚えないかもしれない。そこに向かっていく自分は、思い浮かべるだけで居心地が悪くなる。

そこに演技があるかないか。死んでいく自分という抜き差しならないはずの状況にさえ、演技はまぎれこむ。実際に死んでいきながら、死んでいく自分を演じる瞬間のことを思う。

嘘を本当にしたくて演技があるようでいて、ふと本当を嘘にするために演技しているようなときがあり、いつしか本当を本当にしたくて演技をしている。

それもこれも演技がときどき自分を忘れるよう強いるからだ。忘れるというこの絶対不可侵のブラックボックスで、嘘は本当になり本当は嘘になり本当は本当になり嘘は嘘になる。

なにかを忘れていることを自覚するときには、どんなささいなことであっても、そこには恥ずかしさがつきまとう。

どんな忘却も一度きりだ
忘却はつねに新しく、ひとつとして同じものはない
その忘却以前を、思い出は演じようとする。その度に忘却は新しくなる
それ以前の模倣なんて不可能で、思い出という演技は、それが演じられた途端に破壊されているのだ
だから恥ずかしいのか


読んでくれて、ありがとう。

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