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【エッセイ】無能の無能、否定の否定

「人間」にはなにもできない。生きることさえそれにはできなかった。徹底して無能力だった。

意思とか、意識といったものは、ある感覚にたいする反応の、長引きすぎた残響だ
残滓にすぎなかったものが、元あった反応から遠ざかるにつれて、ひとりでに運動をはじめる
ついにはどこまでさかのぼってみても、原初の反応は見出せない
それを思い出すこと自体が、一種の死だとわかっているかのようだ

遠ざかりすぎてはじまりを見失う。いや、遠ざかりすぎることではじまりは「見失われて」見出されるのだろう。

はじまりからも終わりからも最も遠ざかったところでこそ、はじまりと終わりはみずからを訴えてくる。最も遠ざかった場所。それはどこだろう? そもそも、その旅に果てなんてあるのか。果てなんてないからこそ、その果てが切実に求められるのではないか。

はじまりも終わりも抹消されるのではなく、抹消されているという否定形で、場所を与えられる。二重否定が強力な肯定であるように、「ない」ことは、それが「ある」こと以上に「ある」こととされる。

無限に遠ざかるほど、その存在だけ迫ってくるもの。無能力であればあるほど、みずからを切実に訴えてくるもの。幻であるからこそ、現実であるもの。

消えることでしかこの世界に場所を占められないものが、思っている以上にたくさんある。

死者たちとは、「死」を消すことで、生者とは別なふうに生きることになった者たちのことだ
ここで「死」は、「別なふう」によって消されている
この「別なふう」という動き自体が、死が現実にたいして無能になることで可能になった

なにも「できない」ことによってしか「できない」、世界の捻じ曲げ方がある。むしろそれこそが、今ここに至るまで世界を捻じ曲げてきたもっとも大きな力だったとさえ言える。

「できない」ことさえ「できない」。人間の無能力は、無能であることにおいてさえ無能だ。


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