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人生を紐解く3日間の旅で私がつかんだこと

6月末に、Dayaさんのプロセスワークの合宿「人生のダンス ~喜びに満ちた智慧への旅」に参加した。

人生の壮大な振り返りをして、人生を紐解いて、自分のパワーや智慧と出会う3日間だった。

たった3日間だったはずなのに、家に帰ってきた時には、とても長い長い旅から帰ってきたような感じ。

たくさんの気づきや学びがあって、くつろげる温かさがあって、ちょっとスパイシーで、胸がギュッと切なくて、仲間とともに深い繋がりを感じながら、たくさんの涙と笑いがある忘れられない旅になった。

たまにやってくるこの衝動って一体なんだろう?

今回の合宿に参加したいと思ったのは、私の人生にたまにやってくる「衝動」について探究すること、そして、その探究を通して人生の選択を楽しめるようになりたいという気持ちがあったからだ。

私はたまに、その時は理由がよくわからないけど、大きな衝動がわき起こってきて「心が決めること」がある。

みんなにも、そういうのってあるのかな…?

時には人との出会いから生まれる衝動かもしれないし、
時には仕事や会社との出会いがあって絶対ここで働くんだ!という衝動かもしれないし、
時にはある土地に惹かれてこの土地に住みたいという衝動かもしれないし、
時には恋から生まれる衝動かもしれないし、
時にはこの人と何かをしたい!という夢のような衝動かもしれない。

内容はなんであれ、どうしようもなく心が惹かれてしまって、心のなかにあるパッションのコップがあふれて、行動に移さなくてはという焦燥感にかられる。
そんなイメージだ。

そういう時、頭であーだこーだと理由を考えるけど、そうやって頭で考えることはもはや意味をなさず、心がもうとっくに決めてしまってるから、それに従うしかないってなんとなく知っている。

私自身、とても現実的で実用的で堅実なタイプなのだけど、そういう衝動がやってきた時は、なぜかいろいろなことを吹っ飛ばして衝動に従ってきた。

思えば、中学生くらいのときから、えいやっとその衝動に乗っかると、うまく行っても行かなくても「後悔しない」から納得感のある道を歩けることを体験的に学んできた。

ただ、そうやって衝動に乗っかると良いのだという体験は何度もあるのだけど、私は常に迷いや悩みや不安がつきまといながらのしんどい選択になりがちで、なんだかモヤモヤしていて、こんな問いがいつも私の中にはあった。

  • このたまにやってくる衝動って、一体なんだろう?どこから来てるんだろう?

  • 衝動に身を任せることってやっぱり怖くて、とてもドキドキして、今の延長線ではないところに飛び込むことになるから不安で、この衝動はどれだけ信じていいものなのだろう?

  • 衝動に従うためには、毎度毎度大きな勇気が必要で、選択を楽しめてる感じがしない。どうにかできないのだろうか?

私は、これらの問いを心のなかに置きながら今回の合宿を過ごしていた。

人生のタイミング的にも、衝動の予兆のようなものがくすぶっている雰囲気があって、あれ?これって何だろう?と思うできごともあり、きっと探究するタイミングなのだろうという気持ちがあって、この合宿に参加した。

5年前の選択の意味を、ようやく回収した

今回の合宿でつかんだことに触れるために、まずは5年前の私の話を少し書きたいと思う。

当時、ベンチャー企業で5年間働いていて、大きな不満もなかったし、とても楽しく働いていた。
やりたいことを色々チャレンジさせてもらっていたし、自分のwillとも繋がるような事業内容で、仲間にも恵まれていた。
7年間の離職期間を経て再就職した企業でもあり、業務委託から小さくスタートさせてもらい、その後、正社員にもなり、キャリアの幅も大きく広げることができて、たくさんの恩もあった。

なのに唐突に、40歳になった時にあるフィールドにチャレンジしたいという衝動がやってきた。

その衝動に従う形で、正社員から業務委託に切り替えさせてもらい、仕事もかなり減らしてもらうことになった。
収入も三分の一くらいに減ることになった。

ベンチャー企業での仕事はとても好きな仕事だったし思い入れもあったから、担当していた仕事を減らしていくことは、とてつもなくつらかったし、とても悩んで悩んで、とにかく悩んだ。

再就職した時からお世話になって、成長をたくさん支援してきてもらったのに裏切ったような形になってしまい、ものすごく申し訳ない気持ちもあった。

そんないろんな気持ちがあって、気持ちの整理をつけることが当時なかなか難しかったし、心がずっと痛んでつらかった。

気持ちの面でも、業務負荷の面でも、整理をつけてバランスをとるのに2年ほどかかって、とてもハードだった。

なんでこんなにつらい気持ちになりながら、この衝動に従っているんだろう?とちょっとよくわからなくて、つらくて、不思議で仕方なかった。

前置きが長くなったけど、そんな5年前があった。

さて、今回の合宿に話を戻そう。
三日目の最後に、幼い頃に経験した出来事を扱うワークをした。

そのワークを終えた時に、私の人生でずっと繋がっていたことが紐解かれて、人生に繰り返し現れてくる「衝動」の源に出会えた瞬間があった

今まで見えていなかったけど確かにずっと存在していた私の「人生の中心線」がカッと光って目の前に現れたようだった。

あぁ、だから、私は5年前に今の活動のフィールドを選択する必然性があって、大きな衝動があったのか!
最後の最後にものすごく驚いて、ものすごくストンと腑に落ちた。
心と体がびっくりするくらい軽くなった瞬間だった。

気づいていなかっただけで、自分の人生にはずっとこの中心線があって、そこに近づけるチャンスが訪れたり、あるいは逆に離れようとすると、何かお知らせがあって、中心線に戻るための「衝動」がやってきて人生の選択をしてきたんだなと気づくことができた。

この中心線を見つけた意味ってすごく大きい。

この衝動がどこからきていたのか?
この衝動は何者なのか?
に当時も気づけていて意識的になっていられたとしたら、あんなに悩んだり、不安になったり、気持ちの整理をつけることに長く苦しんだりしなくて、もっと軽やかに自分の選択を信じていられたのかもしれない。

それでも、無理矢理にでも、もがいてでも、衝動に従って選択できていた自分には、でかした!よくがんばった!ふんばった!って思ってはいる。
そういう経験があったからこそ、今の私のいろいろが育まれたのだと思うし。

でも、きっとこれからはもっと軽やかに自分の選択を信じて、衝動を楽しむことができる予感でいっぱいだ。

人生のこのタイミングで、この人生の中心線を見つける経験ができたこと、衝動が持つ意味をつかめたことは本当にラッキーだと思う。

未知なるところに飛び込むということ

さて、今回の合宿では、人生の中心線以外にも、つかめたことがある。

これまで何度かDayaさんが、「プロセスワーカーは好奇心を持って未知なるところにJump Inする姿をロールモデルしていく」のだと言っているのを耳にしてきた。

未知なるところに飛び込んでみると、想像を超えた智慧が見つるということは、これまでのプロセスワークの合宿でも少しは経験してきている。

だけど、どこまでそれはチャレンジできるものなのだろう?ということを正直思っていて、自分の心の奥にある線引きや強い抵抗感はどこまで超えられるものだろうか?と思っていた。

今回の合宿では、「そうか、こんなところまで飛び込んでも大丈夫なのか!」と抵抗感との付き合い方をつかめた感じがあった。

今回ワークした幼い頃の経験は、私にとっては正直なところ思い出したくもないし、口にしたくもない経験だった。
当時もそうだったし、ずっと何十年も蓋をして見ないふりをして、傷ついてないふりをしてきたし、誰にも話してこなかったことだった。

ワークをいつかする必要はあるのだろうと感じつつも、まだ気持ちの準備ができていなくて、そっと避けてきた。

Dayaさんがファシリテーションする場では、扱うのに躊躇するような難しいことも扱える場だという強い信頼がある。
たくさんの葛藤を経験して、プロセスワークを通して昇華して、智慧に変えてきたDayaさんだからこそ間違いなくホールドしてもらえるだろうという安心感と安定感が常に伝わってくるからだ。

それでもなお、この経験を扱うことに飛び込む恐れを強く感じる自分がいて、ものすごく迷った。
このパンドラの箱を開けると収拾がつかなくなるのではないか?
傷つきが深くなってしまうのではないか?と。

この合宿の少し前に、Dayaさんのプロセスワークの恩師であるアーノルド・ミンデルさんが亡くなられた。
この合宿で最後のワークをする直前に、その思い出をDayaさんが語ってくれた時間があった。
その時間は、本当にアーノルド・ミンデルさんの魂がこの場にやってきているのかもしれない、とDayaさんを通じて感じる時間だった。

この時のDayaさんのあり方が、私の背中を押してくれたように思う。

自分らしくいることを大切にすること
ありのままでいる自分を、自分でオッケーを出すこと
自分にも周りにも慈悲深いまなざしを向けること
その場で起きることはすべて意味のあることだとWelcomeしていくこと

そのDayaさんのあり方の本物さに触れさせてもらったからこそ勇気を出して、このパンドラの箱を開けてみようと思えた。
さらに、その時、一緒にペアを組んでくれることになった主催のまりあちゃんへの信頼もものすごく支えになった。

そして、そのパンドラの箱を開けてみて、口に出したくもなかったことを言葉にして、「ない」ことにしてきたことを「ある」ことにするのは抵抗感も苦しさもあった。

けど、語りきった後には癒しが訪れたし、蓋をしなくてもいいんだと思えたし、心のなかでの置きどころが見つかった感じがしたし、さらに自分のパワーを再認識することもできた
そのパワーを信じて、より堂々としていられるような力強さも手にできたと思う。

未知なるところに飛び込むということは、恐れと勇気の両方がそこに存在していて、飛び込んだ先には自分の深いところに確かに持っている智慧やパワーに繋がれる可能性があるのだということを今回も改めて感じさせてもらった。

きっと一度や二度じゃなくて、何度も何度も飛び込んだ先に、さらなる道が見えてくるのだろう。

わら半紙1枚分の変化の積み重ね

Dayaさんの場は、その場で学んで終わりではなく、日常への橋渡しを丁寧に丁寧にしてくれるからこそ、私の日常にも変化が生まれ始めていると実感がある。

プロセスワークの学びを深めれば深めるほど、抵抗感がありながらも未知なるところに飛び込んでみる経験をすればするほど、日常のいろいろな場面で、葛藤や対立や違和感などが起きた時の自分のあり方が変わってきている

自分のなかにも葛藤や対立や違和感があるのを知っているから、相手のなかにもそれがあるのがわかった時にも、拒否したいものや避けたいものじゃなくて、「そうだよね、あるよね」って思えるようになった。

その葛藤や対立や違和感を扱ってみると何が起きるのかもわかり始めたから、何が起きてしまうのだろう?とひたすら怖がるんじゃなく、「相手の奥にあることに真摯にじっくりと耳を傾けることをただただ大切にしよう」って思えるようになった。

しかも、そこには智慧と可能性があるはずなのだと、落ち着いてその場にいられるようになってきている実感が確かにある。

不安に飲み込まれずビクビクしないで、自分らしさを保ちながら、「今、私にはこう見えているのだ」と意識的になりながらその場をホールドできる場面が増えている。

この変化は本当に嬉しいし、ホッとできるし、自分への信頼をわら半紙1枚分くらいの薄さかもしれないけど毎日毎日積み重ねられているなと思って、その積み重ねを信じて進んでいける。

プロセスワークを通していろんな自分に出会っていける

最後に、私が小学生の頃から好きな曲の歌詞の一節を載せて今日はおしまいにしたい。

ザ・ブルーハーツの「青空」。

特に、引用したあたりの歌詞が心に刺さって、昔からずっと心に残り続けていた。

今回の合宿で、この曲が好きだったのってなぜなのかも思い出すことができて、プロセスワークを通していろんな自分に出会っていけるって、本当に豊かだなと思う。

神様にワイロを贈り、天国へのパスポートをねだるなんて本気なのか?
誠実さのかけらもなく、笑っているやつがいるよ
隠しているその手を見せてみろよ

生まれた所や皮膚や目の色で
一体この僕の何がわかるというのだろう?

運転手さんそのバスに僕を乗っけてくれないか?
行き先ならどこでもいい

こんなはずじゃなかっただろ?
歴史が僕を問い詰める
まぶしいほど青い空の真下で

ザ・ブルーハーツ「青空」より

今年の10月には、ワールドワークLABO合宿がある。

今回私が参加した合宿とは異なる趣旨の場だけど、自分自身と世界とのつながりを模索できるとても豊かな場だ。
ファシリテーターは、Dayaさん。

テーマは、ジェンダー・セクシュアリティをめぐる様々な声。
私は昨年初めて参加してみて驚いたのは、多様な人が集まって、ジェンダー・セクシュアリティについてここまで深いリアリティを持って、しかも安心して対話できる場って日本にあったんだ!ということ。

日常では語り合うこと聴き合うことが難しいことも、ここにいるみんなとならば、ここの場ならば、勇気を出して語れる、真摯に耳を傾けてもらえると信じられる。
不安や恐れも含めて本当に語りたいことを委ねられる場だ。

社会課題に関心があったり、ソーシャルアクションをしていたり、してみたいと思ってる人には、特に超絶オススメしたい。

ワールドワークという場を通して、社会の変容をともに創り出していく可能性に、違いを超えて 人と繋がっていく可能性に、ぜひ触れに来て欲しい。

私も行きます。ぜひ一緒に参加しましょう。


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