「愛のひきだし」ライブドローイングコラボ台本
2021年12月17日〜12月19日にギャラリーがらん西荻にて開催中の松村早希子さんの個展「愛のひきだし」にて、本日ひだりききクラブはトークと、ライブドローイングに朗読でコラボをさせていただきました!
松村さんが絵を描き、ひだりききクラブの活動開始から今までの交換日記を振り返る朗読をしました。本日はイベントで使用した朗読台本を公開します。わたしたちの活動が詰まった自由律俳句と、イベント用に書き下ろしたエッセイもお楽しみください。
2020年8月5日 出雲にっき
ローラースケートシューズもう禁止されてない
生かすために震えるんだよと人が
お別れ会コージーコーナーのマドレーヌ桜味
クリームソーダアイスコーヒーに変わったね君は
天国34キロメートル先らしい
真っ黒な開襟シャツからのぞくマルボロは真っ白
檸檬色のワンピース首元に引っ掻き傷だ
なぜかテリアだと分かる
知らない間にできたアザが日の丸
夢の中でぶつけた場所を起きたらさすってた
スプーンが鳴り響くだけの時間
新宿が懐かしいと高校生
天秤座のあなたいつもパスタ2本残す
くしゃみしたら八月
混沌とした東京に戻ってきた初夏、彼女との出会いは紛れもない運命だった。
偶然の縄が何本も絡まった時、それは運命になって、網のようにわたしたちを囲う。
すずめちゃんと出会わなければ無かった2年の偶然の軌跡を、これから話していきたいと思う。
はじまりはいつも晴れている。くしゃみしたらまぶしい夏で、全部飛んでいきそうな晴天の日、すずめ園ちゃんに出会った。駅前に降り立つオーパーツのような彼女は、存在してて、笑いかけてくれた。同じ速度でしゃべる、同じ左手で、ご飯を食べている人。
一目惚れしたわたしの口から咄嗟に出た言葉は「一緒に自由律俳句、やりませんか」。
彼女はOKしてくれた。二人ともひだりききだからと、思いつきで、「ひだりききクラブ」と名前を付けた。
そもそも、交換日記を始めるまで、自由律俳句を作ったことも無かった。箱の中身はなんだろな、状態での告白なんて、ちょっとへんね、と今更思うし、初めての交換日記を久しぶりに読み返したら甘っちょろくて、すごいの書けた!と浮かれていたわたしにデコピンくらわせたくなった。
でも、日々心に焼き付いた気持ちを、なんとか切り取ろうとしている。はじめて手にしたカメラを、シャッターボタンどこかな、って、探しているような自由律俳句たち。あまりにも真っ直ぐで、不恰好で、はじまりのにおいがする、自由律俳句たち。
「スプーンが鳴り響くだけの時間」は、バイト先のカレー屋さんで、お客さんがたくさんいるのに、みんなカレーに夢中で、スプーンのカツン、カツンって音が鳴り響くだけの時間がたまにあって、面白くって、自由律俳句になった。
いつも見ていた光景なのに、そうか。自由律俳句はずっとここにあったのね。この言葉の塊を、これから探 していきたい。磨いていきたいの。今はまだ鈍い光が、カレーのスプーンに乱反射してわたしたちのことを 照らしている。
この左手から、未来は始まったんだ。
2020年8月12日 すずめ園
水道を流れるもの昨日よりずっとぬるい
山を切り開いたところに同じ家が10軒
教科書で見たことある人が生きてた
思ったより血を吸っているヤツだった
ひだり足に不器用な十字みっつ
レモン味の雪が降ったみたいだお祭りの夜
よそ行きのバスが運ぶそれぞれを
エスカレーターを逆走したい
舌にはりついた氷が熱い
るるぶを見ている時がピークだった
あれはわたしのマグロだったのに
アタリ付きじゃないけどたぶんハズレ
眠り過ぎた日クラスメイトは2段飛ばしでゆく
近所のスーパーマーケットから帰ってきたわたしは手を洗った。
手の甲でカコン、と蛇口を押すと水が流れ、それを手のひらに落とした。
水というにはあまりにぬるく、ただ蛇口をひねるだけではつめたい水に触れ合えないほど夏の日差しが濃く、強くなっているのを感じた。
やがて本当に夏になって、小学生ぶりに交換日記をやることになった。それもにっきちゃんと、自由律俳句で。
詩も俳句もぜんぜんわからなかったのに、隕石が降ってきたように突然自由律俳句に惹かれた。思い出や意識にすら満たない生活の欠片が、自由律俳句という形を得て、はじめてこの世に生まれたところを憧れの人の本で見た。数文字のなかに広がる果てしないそれは宇宙で、知って間もないのに、わたしは自由律俳句が好きになることを確信した。
にっきちゃんはカレーが好きで、本屋さんが好きで、自由律俳句が好きだった。
ふたりでカレーを食べて、本屋さんに行って、自由律俳句を一緒にはじめることになった日は、ささやかながらも、わたしにとってはうれしい事件だった。いま思い返せば人生のターニングポイントってやつかもしれない。
「水道を流れるもの昨日よりずっとぬるい」は人生ではじめて作った自由律俳句。
表現もまだぎこちないけれど、肌で触れて感じた季節を言葉にした、第一歩目の句だ。
自由律俳句で交換日記を始めるのは、誰も知らない海に出て行くような気持ちだった。わたしたちはとてもちっぽけだけど、隣にいてくれるにっきちゃんの存在が心強くて、光しかなかった。そんな気持ちはいまでも続いていて、たぶんこれからもそうなんだと思う。
はじまりの月、わたしたちだけの舟はいろんな出会いに向かってくるくる回り始める。
2021年2月24日 すずめ園
スワンボート花見の残像
誰よりも鯉に好かれている
この色の服を良いと思った瞬間がある
まだ三鷹なのにサビ
サーターアンダギーに空匂
眠っているエスカレーターにごめんねなんて
蛹とろける
桜踏みしめたいワンピースで行く
ぐしゃぐしゃのストローの袋が意志を持つ
ベンチ未満のベンチで夕暮れる
花見の残響がする橋で一人
粉々のバブを放つ
早かったな夜中に聴いたら
たまに、ちょっとせつないものが好き。
すずめとか、ぐしゃぐしゃのストローの袋とか。
しあわせな光景も良いけれど、同時に、しあわせはその空間や時間のなかだけで完結してしまっているように感じてしまう。
ちょっと切なかったりかなしかったりするほうが、ゆるやかな日常とつながっていて、物語が終わらない気がするからやさしいのだ。たぶん、きっと。
コメダ珈琲でアイスミルクを頼んだ。
ストローの包み紙を丁寧に、縮めていくように剥がすと、小さなくっつき虫風の見た目のストローの袋が誕生した。ぐしゃぐしゃにされたストローの袋の上に水を1滴垂らすと、まるで意志を持ったように変なかたちに動き出した。
わたしの自由律俳句の中にいつも現れるひとりぼっちの人物は、わたしであって、どこかの誰かだ。
ぐしゃぐしゃのストローの袋も、あの公園の橋の上で花見の残響に思いを馳せる人も、桜を見ながら好きな曲のサビを聴けなかった人も。
自由律俳句は半透明のガラスみたい。読む人によって思い浮かべる景色も主人公も違う。
交換日記でにっきちゃんから感想をもらって、自分の作った句なのに、知らない、新しい景色が重なってゆく。
ほんの少しの言葉をガラスの上に乗っけたら、理科室のプレパラートのようにいろんな景色をくるくる入れ替えてみる。透かした先に見えた物語はちょっとさみしくて、終わることなく続いててほしい。
2020年12月9日 出雲にっき
猫の名前会議をしている
阿佐ヶ谷と告げる声は伸びやか
猫の歯並びになりたいなと歯磨き
同じ時間に見る同じ人のコートが変わっている
駆け込んだ人の早めの呼吸
まち針刺した痛くて生きてた
新しい色のネイルをこぼした
歩く歩幅合わせてくれる人
斜め下ばかり見ていたら花
薄甘いココアに想いを馳せる
無愛想な店員のなみだ
わたしの綿毛が付いてしまった背中どこかへ
なんだか楽しげな会話が聴こえる。隣の隣の席のおばさま方が、猫の名前会議をしているらしい。ちびちびの猫に、すごく渋い名前を付けようとしている。眉間に皺の寄った猫に育ちそうな名前だが、良いのだろうか。
人生は交差点で、盗み見たり盗み聞いたりして、知らないあなたとの邂逅を楽しむ。こちらに向いていない声は高らかで、そのままでいてほしいと願う。ピイスを勝手に集めてパズルにして、すずめちゃんにみてもらう。交換日記はそんな側面も持ちあわせている。
みんな帰る家があって、衣替えする箪笥がある。満員電車で、一瞬抱きしめられる距離にいた人の背中にわたしの手袋の綿毛がついて、そのまま行ってしまった。行き先はわからないけれど、きっと彼も家に帰って、コート脱いだ時なんかに気付いただろう。わたしがつけた綿毛は冬を越せない。衣替えには届かない。
毎朝9時25分に同じ横断歩道ですれ違っていたお姉さんは元気だろうか。ポッケが至るところについた、ちょっと変な上着を着ていたお姉さん、converseのスニーカーに赤い靴下を履くお姉さん。名も知らないあなたを想って書いた句をここに残してしまったから、今でもあなたのこと思い出すの。
何にも知らない世界のことを、誰かの眼鏡で見てみたくって、この頃はよく、いろんなものを、羨ましそうに、眺めていた。
2021年8月19日 出雲にっき
人の子が耽ている喫茶店
100万円地下シェルター未遂
「ねーそらちよがみみたい」夕方の車窓で
響くパンザマスト夏の影ぼくだけ
濡らした指にザラメ絡めて
夏の魔物はひからびたへび
砂場にだれかの手形
実家なのか薬局なのか
季語である「金曜ロードショーのナウシカ」
晩夏残暑見舞いのデラウェア
桃みたいな膝撫でて
うなされてるうなじをなぞる
小ネギを散らしてしまった
もう僕等粉々になったクッキーだよ
めくるめく日々をふんわり照らすひかりはじぶんたちでつくる、繭玉を解いて、言葉をつむいで、自分の身体の輪郭を確認するみたいに、わたし自身を正す。自由律俳句を始めなかったら、わからなかったきもちが、わたしの心にやどりはじめていた。
夏の始まりに、阿佐ヶ谷から高円寺までひとりで散歩した事があった。たしか、駅前のスーパーで桃を買って、袋をぷらぷらさせながら歩いた。高架下を、西日さす中辿り着いた高円寺では、何もせずに帰った。迷子センターは無いけれど、なんとなく迷子の気持ちだった。帰宅して桃を剥いて食べたら甘かった。
泣きたい時ばっかり言葉が生まれるからわたしの自由律俳句は湿度が高い、ぺたぺたしてる。さみしげな、泣いた後の濡れたほっぺたみたいな。いっつも自分のことばっか、なんだかそれが嫌だった。
でも、埋まらなかった世界との隔たりを、うなされたうなじだったり、濃く浮き出た自分の影だったり、そうめんに乗せるはずだった小ネギだったり、ずれてて擦れてる感情に生まれ変わらせて、ばいばいってするから、それがわたしなりの生き方かもしれない、とも、思うようになった。迷子の日に生まれた自由律俳句が、ここにも幾つかある。
この日記の結びに、“どんなきもちも言葉にしながら頑張ってゆきます” と書いてあった そのとおりで、そんな一年で、そんな夏だったなと思う。
言葉にしながら駆け抜けてね、って、背中を押されたい時、わたしは結局、自分のことばでつくった糸で羽根を編んで外へ飛び出す。嫌になるほど自分ばっかの羽根で、ぴゅうって、飛び立つ。
2021年8月11日 すずめ園
御茶ノ水のカーブで揺れる膝の汗
歪んだレールの上を走っている
よく伸びた影が轢かれた
煙振り返ったら盆
ゆめタウン行きのバスが来た
探ったらシャベルがある
ヒルナンデス透ける網戸の家
ねえもう夏も8月
ちょっと近づいて吸うゼリー
水飲むところにトンボが止まる
蝉めり込んだアスファルトが示す晩夏
一人ラジオの部屋と鈴虫
南に足向けてやる
ピルクル傾けて見る明け
自転車を漕いでミスドへ
ねえもう夏も8月になって、あの頃から季節がめぐって、わたしたちはいつの間にか何百回も自由律俳句を作っていた。
自分らしさとは、自由律俳句らしさとはなんだろうと、手探りだったけれど、わたしたちちゃんと強いから、言葉を信じて歩いてきた。
朝と夜、
ふわふわとざらざら、
ひとりぼっちとわたしたち、
チョコレートとラブレター。
だんだんとひとりひとりになってゆくのをやわらかい紙の上で感じた。
わたしたちはすっかり自分の自由律俳句を詠むようになった。きっと最初から全然違っていたのかもしれないけど、それぞれの色がはっきりしていくのが誇らしかった。
にっきちゃんの句は映画で、わたしの句は写真みたいだと思った。
どうやらわたしは季節が好きらしい。
いつだって自転車で駆け抜けていたいのだ。
去り際に思い出を漂わせてくるところとか、でもいなくなった途端ころっと違う顔を見せる季節のことが好きで、そんな一瞬のために何度も目を開けて、瞑って、描き続けた。
夏がいちばん好きなわけじゃないけれど、まぶしいから、早朝が切ないから、特別たくさん切り取った。
2021年12月15日 すずめ園
ごめん昨日カレー食べた
朝食を食べた形跡がある
薪焼べて風の音を作ってくれた
あまりにもみかんを食べるシチュエーション
おんなじ落ち葉を拾ってきた
なるほど東京タワーを見ている
底に沈んだ果肉を噛む
バックシートで眠る橙色
老いてヒールで雪を蹴る
街灯の下まんまるになる影
ちょっと背伸びの足の裏である
もう来年の方が近い夜に居る
そういえば、わたしは自分が過去に考えていたことをあまり覚えていない。
いつも何かを思いついた時には「これを書きたい」という欲だけが沸きあがり、書いてしまうと、自分から分離したように気持ちごとどこかへ行ってしまう。
言葉に気持ちを宿すというよりも、ほとんど自分を整えるために排出しているような感覚なのかもしれない。
だけど自由律俳句として一瞬を捕らえることで、写真とか、数コマの動画みたいに、切り取ったものは自分の中に蓄積されて、いまではたくさん手繰れるほどゆたかなアルバムになっていた。
街頭の下を通りかかった時、犬も人もみんなまんまるの影になった。
高い窓を拭いている人が背伸びをして、そうしたら靴下の足の裏ばかり見えるのがふしぎだった。
こういう生活のカケラを拾い集めることが、自由律俳句を作り続けているうちに癖になっていた。ぼーっとしていて生まれる言葉もあるけれど、しっかりしっぽを掴まないと逃げてゆく言葉もある。忘れたくないことも、くだらないことも言葉に変えて拾い集めてゆきたい。
2021年12月8日 出雲にっき
タオルゆれるまにまに眠るひる
風邪をもらった喉のころころ
ぽくぽくの中に居る
ひかりの飴玉飲み込んでいる
テディベア直す警備員やさしいゆびさき
可愛い顔が六匹
詰め込んでシマリスのほっぺ
流しっぱのテレビに軽蔑する
王様のブランチ観る側のひとだ
すれ違ったシャンプウの気配弾けた
やめて匂いで思い出すから
この夢は獏に食べてもらう
血を吐きましたとイチゴジャムつけててへ
ポトフ煮込む母親のまなざし
手を広げ雨を数える
迷子だった 本抱いて歩いた朝は
結局、言葉は未知で無限だけれど、たまにひょっこり、顔を出してくれる。風邪をひきそうな喉のころころとか、全然知らないおじさんの姿とか。
「詰め込んでシマリスのほっぺ」は、ニューデイズでちょこあ~んぱんを買ったときの俳句だ
はじめて降りた駅が夕焼けで満ちていて、この世の美しさのぜんぶが目の前にあると思った。それなのにわたしは、そんなのちょっとどうでも良くなるくらいお腹が空いていて、夕焼けって食べれないし、欲求のままちょこあ~んぱんを買った。お腹すいてて食べたくなったものが、おにぎりでもなくちょこあ~んぱんだったこと、わたしは子供なのかな、って、恥ずかしくなったけど、食べたら幸せで、まだ暮れるのを待っててくれた夕焼けが、二割り増しくらいに甘くしてくれた。
ほっぺに詰めたらシマリスみたいでしょう。こんなヘンテコな、夕焼けのなかシマリスみたいになっているわたしを、誰か見たら笑ってくれるかなって、そう願った瞬間、自由律俳句ができた。
わたしはいつでもちぐはぐで、誰にも見せない言葉とか思い出とかが毎日ある。きっと君もそうかもしれない。あふれた時、文章になったり、自由律俳句になる。本当に、ただそれだけだ。
そこには何があるんだろう。自由律俳句ってなんだろう。まだ何も分からないけれど、溢れ出た感情のはしっこみたいな、そうゆうのがわたしにとっての自由律俳句かもしれない。
まだ片想いだ。これからもっと、深く、世界のこと、言葉のこと、綺麗なこと、かなしいこと、知れたらいいと思う。別に全部なんだっていいよ、全部受けいれてやる、だってわたし、楽しくってたまらないから。
そうして両想いになれるまで、自由律俳句を作り続ける。
左手には、まだ未来が詰まったままだ。