透明が存在する2月
21時。もう寝る時間だ。パジャマに着替えたから残すはベッドに横たわるのみ。ローズマリーのアロマを部屋中に満たした。このルーティーンを経過したのだ。今日も眠りにつく。何も寂しいことはない。ベッドへ足を伸ばそうとした瞬間、インターホンの音が聴こえた。モニター越しに相手を確認した。僕よりあからさまに高い背丈を有する、彼は2月28日だ。ドアノブに手を伸ばし彼と対面した。
「こんばんは。今日もおねむの時間かい?」
「そうだよ。背丈を伸ばすには寝るのが一番だからね」
「同じくらいミルクも大事だ」
乗っかった彼の返答に頷いた。にこやかな笑みを絶やさずに語りかけてくる。
「こんな夜分になんだが、今日は冒険に出かけないか」
2月29日。倒置法で僕の名を呼ぶ。いつもは何も聴こえない3月1日の部屋から物音が届く。胸に手を当てる。
「冒険って、どこへ行くのさ」
「素敵な場所に。重要なのは好奇心と楽しむ心だ」
かくして僕は着替えた。マンションを出て数分待機。2月28日が自転車とともに現れた。
「乗りな。この特等席に」
「僕、自転車は漕げるし、持ってるんだけどな」
「知らなんだ。じゃあ一緒に漕いで探検に出かけよう」
僕が自転車を持ち運び、彼と並んだところで駆け出した。涼しい夜風と、窓から眺める光景を即座に背後へと移し続ける高揚感。
「ずっと部屋にいるとさ。息苦しいよな」
彼が優しい口調で話すから僕も明るく頷いた。
「いつも規則正しく早寝早起きしている。だからこの時間が特別に思えるのかな」
「違いない。俺と2月29日を含め、時々は非日常な体験が必要なんだ」
彼の横顔をそっと覗く。先ほどと変わらない、夜を照らす月のような優しい声色に、太陽のような笑み。
「大人なのに、夜、自転車を漕ぐのが非日常なの?」
「そこら辺はまだお子様かな。ちょっと違うな」
長い間移動を続け、僕らは湖畔に辿り着いた。腕時計をチェックしたら、時刻は22時15分を指していた。およそ1時間、僕らは走ったのか、感嘆として息を吐いた。
「ここさ、俺が好きな場所なんだ」
「よくこんな場所見つけたね。僕に教えて良いの?」
「2月29日だから教えるんだよ」
「ふうん」
束の間、夜の静寂に包まれると、普段は意識しない事柄が浮かび始めた。隣の彼はさも明鏡止水のような顔つきをしている。
僕も彼も同じ2月。2月、2月、2月。沈黙を撫でる隣人に日頃抱えている疑問をパスした。
「ねえ、2月28日はさ」
うん、と相槌を打つ。きっと、次の質問に失望するかもしれない。それでも。
「2月に所属して特に思うことはない?寂しさとか」
「寂しさか。そうだな、強いて挙げるなら自分は異質だと思う」
月末日が30、31以外なのは僕らだけ。心の底に漂う言葉を留め、風が過ぎ去る。
「なんだか変な話題を振っちゃったな」
「そうでもないよ。ずっと考えている、どうして2月なんだろう、末の方に位置しているのだろうって。ここにいるときは特に」
顔つきと思考が一致しないのかと、新しい真理を覚えた心地。もしかしたらこの場所が穏やかに物事を考えられる空間なのだろうかと考えあぐねる。それでもね、と、彼は前置きした。
「2月29日、幼くしてこの世界の調整を担う君と比較したら、俺の苦悩なんてたかが知れてるよ」
少し、寂しい気持ちが膨らんだ。僕らは並んで夜の湖を眺めても二人ぼっちに変わりなくて。
「僕は4年間の内3年間は透明人間でさ、周囲の日付は認識不可能なんだ。僕を挟む2月29日と3月1日、二人だけは僕を視認できる」
日頃の思いが夜を貫く。この沈黙下に、夜の深さに、野暮ったく矢を射る存在はいない。
「もしも僕がなんでもない日付だったら、初めて出会う誰かと他愛のない会話から物語を始めることができたのかなって。こんなこと、2月28日に語ってもどうしようもないのに」
ぼくの背に大きな手を添えて、優しく撫でる。何も語らないまま、凪に等しいこの世界に一筋の光明を差すかのように、優しさが背骨に染み渡る。
「辛いよな。調整役を担って、大多数の日付と会話できなくて、目を合わせることさえ能わず」
「僕は多分ずっとこのままだろうな。時々さ、思うんだ、皆、僕と同じ世界を味わえばいいのにって。どうして僕だけがって」
幼い自分から吐き出される言葉たち。澱んだ言の葉、歪んだ思考と、この両翼の原因が日々付きまとう。
「それでも前を向いたら良いことあるよ。暗い思考、言葉、行動に身を委ねるよりささやかでも明るさを求める方が心地良いだろ」
そっと、人差し指で僕の額に触れた。涼しげな笑みを添えて。卑怯だ。頷く以外の選択地は残されていない。
「僕は辛い」
「うん」
「透明な存在で日々、孤独感に苛まれている。それでも」
「ゆっくりで良いよ」
「このままの自分を土台にして、新しい自分を掴む。僕を嫌う理由を放置したくないから」
先ほどと同様、彼は僕の背をさすった。気のせいか、今回の方が力強い。
「前を向く決意をした2月29日は美しいよ」
一呼吸置いて続けた。
「前進して少し疲れて小休止したくなったら、俺はここに訪れる。タイヤとブレーキ。自転車と同じだ。決意を放棄しないように、息抜きも忘れるなよ」
「そうだね。だからさ、時々はこうして遊んでよ」
2月28日。首を90度曲げて彼の名を呼んだ。僕を僕たらしめてくれる、数少ない存在に謝意を込めて。
「みなまで言うなよ。俺にとっても大切な存在だよ。2月28日は」
静寂と会話が混合する時間は過ぎ、この場を離れた。復路も間もなく終わりを迎える頃、勢いづいて立ち漕ぎをした。特に意味はない。なんとなく挑戦したくなっただけ。
「気をつけろよ」
「分かってるって」
「まあその類のアクションも必要か。成長には」
「そうでしょ」
喋っている間に気づけばサドルに身を寄せていた。飽き性なのかもしれない。だからこそ、決めたことは背かない。ぐっと右の拳に力を入れた。そして僕らは駐輪場に自転車を停めて、互いの部屋の前まで移動した。
「2月29日。今日は誘いに乗ってくれてありがとな」
「僕の方こそ、ありがとう。数時間前までなんでもない今日を思い出す理由が生まれたよ」
大袈裟だなって。笑って僕の額をつつく。
「良い子はちゃんと寝るんだぞ。おやすみ」
「おやすみ」
定型的挨拶に意味を見出したところで、僕も自室に入り、シャワーを浴びてベッドに背をつけた。
日々は何もしなくても明日が訪れる。今と比較してより良い未来へ導く。未来が接近して明日へ切り替わる。時刻は5時。自室から眺める、生活必需品を獲得できるエリアには含まれない、丘とも小高い山とも解釈できる場所に足を踏み入れた。心地良い1日を迎えて、より良い今日を迎え入れるために。目を擦ると、前方に人影を確認した。僕の方に目を向けて彼は語りかける。
「そこに誰かいるの?」
「僕の名前は2月29日。いつもは透明な存在として息を吸っている」
「君が2月29日か。会えて光栄だよ」
「光栄、か。そんなふうに言ってくれるなんてね。僕は君と仲良くなりたい。君の名前を教えて」
彼はにこやかな表情を浮かべた。本の世界で知り得た、虚心を体現するような笑い顔とは程遠い爽やかさを引き連れて。
「俺の名前は」
春風を想起させる暖かい声のトーンが日の出と重なり最良の1日の幕開けとなった。僕は彼の名をゆっくりと復唱した。こうして今日が始まる。