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わたしの大事なデータベース

わたしの中には、親しい人の数だけ自分がある。「キャラクター」というのがしっくりくる表現だ。

話し方や声のトーン、言葉遣い、抑揚のつけ方、語尾、表情、顔の傾け方、姿勢、動作まで。相手に会わせた異なるキャラクターをもっている感覚がある。

もちろん、それは傍から見ると、どれもそんなに変わらないようにみえるかもしれない。でも、わたしの中では全部が違うし、意識などしなくても自動的に切り替わるオートマチックである。

非言語コミュニケーションのないSNSであっても、リプライをくれる人ごとに自分の中のキャラクターは入れ替わる。それは、周囲に合わせて無理をしているのではなく「それが安心」「それが心地よい」という方が適切な表現なように思う。自分を表現するよりも、相手を映し鏡にして振舞うほうが生きやすいのだ。

これは、いつからだろうか。

一番古い記憶は、小学校3年生のころだ。小学校の授業参観に、自分の母親が学校にやってくるのが嫌で嫌でしょうがなかった。友達の前での自分と、母親の前での自分、どちらのキャラクターを使って過ごせばいいかわからず、混乱するからだ。その日は一日「なるべく話をせず、大人しく過ごす」ことになるのでとても居心地が悪かった。

中学生になって、携帯電話をもった。冬の夕方、薄暗くなった駅のホームに友達とふたりでいた。すると母親から電話がかかってきた。「早く帰りなさい」だったか「仕事で遅くなる」だったか、どちらかの趣旨だったと思う。電話を切ったあと、友達がわたしに半分笑いながら言った。

「お母さんと話すとき、別人だよね」

もう少し大人になって、18歳になった。わたしは今の夫と結婚した。夫はときどき、友人をわたしに会わせた。でもわたしは、それがとても苦痛だった。よく知っている夫、全く知らない夫の友人、その3人で食事をすることになったが、いったいどの自分でいたらよいのだろうかと、また迷った。わたしは、食事をとにかくいっぱい食べることに注力して乗り切ったりした。でも、わたしの態度があんまり悪いので、次第にそういう機会はなくなっていった。

20歳になった。わたしは長男を産んだ。子育ての間は、絶対に孤立してはいけないと思っていた。人付き合いが苦手でも、親子の集まる場所に行って、子どもを交流させ、母親であるわたしも孤立しないように気を付けようと思っていた。孤立は虐待や機能不全家族の始まりだという情報に従ったまでだ。手に汗を握り、頭の中で何度もシュミレーションしながら子育て支援センターや公園に足しげく通った。

正直大変だったが、子どもたちのおかげで人と接することはだいぶうまくなったと思った。

25歳の頃。5歳の長男と0歳の次男を育てていた。周囲のお母さんたちと一緒に話したあと、ひとりになってから落ち込むようになった。

気持ち悪い、みっともない、恥ずかしい、という気持ちが押し寄せてくるのだ。なんであんなに大きな声で笑ったんだろう、なんであの話をしたんだろう。あんな風に振舞うつもりなかったのに、あんなことを言うつもりなんかなかったのに。なんで、ああしたんだろうと。

キャラクターを演じ分けていることに気づく

いつのまにか30代になっていた。わたしは今「自分は、接する人の数だけキャラクターをもっている」のだということを認めている。

以前は、そういう自分のコミュニケーションの取り方を「小賢しい」と思っていた。人によって態度を変える、裏表のあるヤツだと否定的に思っていた。八方美人、みんなにいい顔をしているのだ。それは、人の評価が怖いからだ、などと思っていた。世間一般に、人によって態度を変える人というのは悪いヤツだという説が有力である。

どんな人の前でも同じ、統一された自分でいるのが正直で誠実で、理想的な人間と思っていた。だから、知人の数だけキャラクターをもっているというこの感覚は罪悪感でしかなかった。

でもあるとき、それら自分に対する批判的な言葉の意味を深く考えてみた。

わたしは、自分の得になるように言動しているわけではない。権力を基準に発言を変えるわけではない。誰かを貶めるために、演じているのではない。

ただ、そうすることしかできない、どうしてもそうなってしまうだけであった。

相手が家族であっても、夫とふたりで話すときの自分と、長男と話すときの自分と、次男と話すときの自分、全部が違う。最近は、正直なところ家族団らんの時間が若干つらく感じるという弊害がある。

子どもが小さかった頃は「子どもの前での自分」と「夫の前での自分」の差を、あまり感じなかった。「長男の前での自分」と「次男の前での自分」も、一緒でよかった。

しかし、子どもたちも小学生になり、おぼろげだった自我もしっかり芽生え、それぞれの性格特徴がはっきりし、意思や主張が確固たるものになってきた。そうすると、わたしは家族4人で過ごす時間が、少し苦しくなってしまった。家族の仲は比較的良い方なので、それぞれ別の部屋で過ごす時間はそれほど多くない。だから家族内でも、どの自分で、どんなコミュニケーションをとればよいか、常に模索することになるので疲れてしまう。

それに「他の誰か専用のキャラクターを、別の誰かに見られたくない」というのも強い。次男と接しているときのわたしを夫に見られていると少し違和感があるし、友達と話しているのを夫に見られたり聞かれたりするのも嫌だ。

電話している様子を見たり聞かれたりするのも嫌だ。友人を家に招いても、子どもたちが返ってくると急に口数が少なくなる。友人と子どもが話しているのを、台所で聞きながらときどき笑うのがいちばん楽だ。

SNSという異空間での振る舞い

わたしはよく、思いついたことをSNSでつぶやいている。しかし、SNSはそれこそコミュニケーションの荒波である。接する人ごとに演じ分けをするなら、わたしのような人間はさぞかし大変だと思うだろう。

しかし、SNSはそれほど相手のことを知らなくても会話ができる。まったく知らない、あまりよく知らない、アイコンの写真は見たことがある、くらいの人なら何も考えず自分のままで接することができる。

だって、相手に関する情報がほとんど何もないのだから。

対面でのやりとりにおいて、言葉でのコミュニケーションはたったの7%。残りの93パーセントは表情、口調、抑揚、ボディランゲージなどの非言語コミュニケーションで成り立っているという。相手を模倣しなくてもよいので、SNSはそれほど苦しいと思うことがない。

思えば、わたしは初対面の人と話すことにそれほど抵抗がない。むしろ、微妙に知っている関係性よりも、初対面の人の方が随分と気楽に話せる気がするのだ。

わたしは、特定の相手に関する情報が多ければ多いほど「相手専用のキャラクター」が形成されていくのだとわかった。

SNSを何年も何年も飽きもせずにやっていると、ありがたいことに一定数親しくできる人ができる。相手に関する「情報」が増えれば増えるほど、その情報は自分の引き出しにたまっていく。引き出しの中にある材料を使って、自分のキャラも形成され、演じ分けるようになっていく。

「相手専用として形成されたキャラクター」は、わたしにとってその相手との親密さを表してもいる、ということだ。

正直、親しい誰かとの会話が別の誰かに見えてしまうのは、今でもけっこうソワソワする。何も後ろめたいことなどない。でもなんだか、大通りをパジャマで歩いているような気分になる。ましてや、リアルで親しくしている人とSNS上でやりとりするというのは、わたしにとって大通りをパンツいちまいで歩くようなものだ。

自分の中にある、誰か専用のキャラクターを見られることは、こっそりしまってある引き出しの中身を見られてしまうような気恥ずかしさがあるのだとわかった。

わたしのコミュニケーションはデータ・情報

相手に関する情報を、ひとつひとつデータとして蓄積し、つなげて、最適な振る舞いを構築する。最適というのは「相手にとっての最適」ではなく「自分が安心できるための最適解」だと思う。

極端な言い方をしてしまえば、わたしの周りにいるすべての人とのやりとりはデータなのかもしれない。

この人はどんな話し方をし、どんな話題を好み、どんな空気感でどんなことで笑うのか。わたしの演じ分けは、インプットしたものをアウトプットしているに過ぎなかった。

じゃあ、全く親しくない人や初対面の人とはどう接しているのかというと、昔母親が他人に接していたときの雰囲気や、仕事で覚えた言葉遣いがベースになっている。つねに、何の情報を使ってコミュニケーションをとっているのか、が自覚できる。

しかし、わたしにとってコミュニケーションとは、データなのだ。人との関係性を無機質なもので捉えている自分が悲しくもあるが、そうなんだからどうしようもない。

「人と接する」ということは常に大量のデータを処理しているようなもので、どうしても疲れてしまう。複数の人と長時間一緒にいれば誤作動も起こるしバッテリーも切れる。

だから、どんなに相手のことが大切でも、好きでも、ずっと一緒にいることはできないのだろう。

大事な大事な、データベース

ずっとずっと、裏表がなくどんな人に対しても同じように接することのできる人がうらやましいと思ってきた。

「これが自分である」「いつもありのままの自分で」という感覚を味わってみたいと思っていた。それができない自分を、嫌だなぁ、嫌いだなあと思っていた。

キャラクターを演じ分けるなどというと、やっぱり聞こえが悪いかもしれない。でも、わたしの中にあるすべてのキャラクターは、自分にとって「大切に、時間をかけて作り上げてきたもの」だ。

繰り返しになるが、相手に関する情報を集めて、蓄積し、つなげて、最適な状態でいられる自分を作ってきたのだ。

そんな大事なものを、簡単に誰かに見せるのは嫌だ。大事な人の写真は、きっと大事に手帳の裏に隠しておいたりするだろう。相手専用のキャラクター同士(親密なもの同士)がぶつかると、どうもソワソワした気持ちになる。ダブルブッキングとでもいうような。

わたしの中の個々のキャラクターは、そういう感じとよく似ているのだ。データベース内の情報はなるべく引き出しにしまっておいて、その相手だけ使いたい。

でも、人の中で生きていればなかなかそうはいかないから、いつもちょっとソワソワしていてもしかたがないことにするのだ。

八方美人でもなければ、意識的に態度を変えているわけでもないではない。「相手を模倣することで、自分の安心感を得る」という方法を知らぬ間に身に着けてきた。それは、なかなかの技術だとでも思うことにする。










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