今朝、恐怖の時代が終わった
今朝、今まで生きてきた中で、いちばんすごい夢を見た。夢についての話は、好き嫌いが別れるだろうけれど、どうしても書いておきたい。
おぞましい恐怖、逃げられず無限に襲ってくる何かが「終わる」という瞬間を感じたので、書き記しておこうと思う。
欧米の少女が、建物の中で。
欧米人の小さな少女が、夢の中の主人公だった。2人の小さな少女が、何かから逃げ回っているようだった。その場の雰囲気は「おぞましい」という言葉がぴったりと当てはまるほどに、怖かった。
外国の少女が2人……それって単に映画シャイニングの影響ではないか?なんて自分でも思うのだが、その紐づけは確かにあるかもしれない。しかし、その先の流れに感慨深い展開があるので、少しお付き合いいただきたい。
夢のさなか、何度も言葉に言い表せない「おぞましい恐怖」が襲ってくる。しかし、建物の中を逃げたり隠れたりして、私はその恐怖から逃げている。夢の中で私の目に見えているのは2人の少女なんだけれど、私もその恐怖から逃げている。外側から映画を見ている様な感覚だ。
ときどき「これで終わった」と安心するのだが、しばらくすると建物の中に音楽とも効果音ともいえない、不思議で気味の悪い音が聞こえ始める。それが鳴り出すと私は
「あぁ……終わっていなかったんだ……また始まる」と
恐怖でいっぱいになり絶望するが、逃げなければいけない。それを延々と繰り返すというのが、夢の大まかなストーリーである。
ただ、おぞましいほどの恐怖を感じるのだが、実際何が起こっていたのかがはっきりしない。少女たちの姿は、血を流しているわけでもなく、惨殺な姿をしているわけでもない。ただ、青色のワンピースを着た女の子が2人、パタパタと走り回っているのだ。
しかし恐怖の中を逃げ惑う自分と、驚異の対象となっている少女に「殺される」「よくないことが起こっている」「酷い目にあう」というイメージが見えるという、なんとも抽象的な夢だった。
「この子は、中にいれられない」
しかし、そんな気が狂いそうな恐怖だけで終わったわけではなかった。ここからが、私の内面に深く刺さっている要因だ。
私は繰り返される恐怖と、謎の音、「また始まる」という絶望を繰り返していていくうちに「もう逃げられないのだ」と一瞬あきらめるような感覚に陥る。
しかしそこで突然、時計の針が午後5時を指していることに気づく。
私はあわてて外に出て「息子を迎えに行かなければ」と、急に息子のことを思い出していた。
建物の玄関ドアを開けてすぐに、向こうから息子がランドセルを背負ってこちらに歩いてくるのが見えた。大きく手を振ると、息子は走り寄ってきた。いつものように「お母さん、聞いてよ。もう今日最悪だったんだよ」と愚痴をこぼしはじめる。息子の肩をポンポンと抱きながら、ふたりで建物の戸を開けた。
すると、あの音楽とも効果音ともつかない気味の悪い音が、建物の中から聴こえるのだ。
私は瞬時に「あぁ、ダメだ。この子は、入れられない」と思った。
そして、そのまま建物のドアを外側から静かに閉めた。
するとふっと、目が覚めた。目が覚めても、その音楽なのか効果音なのかわからない、謎の怖い音が鳴っている。夢だとわかってもまだ恐怖感が抜けず、動けなかった。
しばらくして、私はベッドを抜け出し、子どもたちに何か異常がないか見に行った。1階に降りて、玄関のドアロックとチェーンが締まっていることも確認した。何も起こっていない。よかった。
あぁ、よかったんだと。
吉夢は、夢の結末が肝心である
私は昔から、気味の悪い夢や不思議な夢をよく見るほうではある。しかし、ここまで強い恐怖感と、ストーリーがまとまっている夢を見たことはなかった。いつも、支離滅裂な夢ばかり見るのだ。
しかし、きちんとした脈略と結末がある夢はめずらしい。夢の終わりと同時に自然と目が覚めるというのも、実に久々だ。
実は私、占星術の巨匠といわれるマドモアゼル愛先生を、親友だと思っている。占星術がどうの……というよりも、マドモアゼル愛先生の語る言葉はとても現実的で、本当のことを語る厳しい優しさがあるから、勝手に親友だと思っているくらいに好きなのだ。
そんなマドモアゼル愛先生は、夢占いを数多く鑑定している。愛先生は「どんなに暗く怖い夢だったとしても、結末に救いのある夢は吉夢」と説明していた。
そもそも、吉夢とか凶夢というのは、先の未来を創る私たち自身への自己暗示だという。生命力で満たされるようないい夢を見たら「きっと未来はそうなっていくだろう」という期待をもち、考え方や捉え方の方向性を定めることができる。凶夢を見たら「人生何が起こるかわからない、できるかぎりの注意をして過ごそう」という、警告になるというわけだ。
だから、夢が何かを指示しているとか、神からのお告げのような他人行儀なものではないということ。私も、そうであるような気がしてならない。
私の夢は、恐怖が延々と繰り返される状況から、私自身がまず、逃げた。それは「息子」という存在を思い出し、外に飛び出したことによって救われる。そして、一度はふたりで中に入ろうとしてしまうのだが、直感的に「この子は入れられない」と判断して、ドアを閉じるというなかなかきれいな終わり方をしているのだ。
夢の中に漠然とあった「殺される」というイメージは、何かが終わるという意味があるともいわれているようだ。「殺される」「よくないことが起こる」という恐怖が終わったかと思えば、謎の音とともにまた始まる。やっと逃げたかと思ったら、また始まる。そういう、負の連鎖的なものが、終わっていくということなのではないか。
自分の意思で、自らの手で、ドアを閉じた。
私の手で、終わらせようということなのではないか。
私は、自分の人生と照らし合わせてみても、そうとしか解釈できずにいる。
ひとつの時代が終わり、何かと決別していく。
自分史上、最大級の怖い夢であったが、とてもいい夢を見たと思って、今日はここに書いておくことにした。
2020年現在、ひとつの時代が終わろうとしている。私の中では、特に大きく様変わりしたようなことはないのだけれど、ただ一つ最近思うことがある。
私は弱かった。でも、弱い人間は弱いなりに、今少しだけ強くなったように思う。
自分が弱い人間であることや、自分が無力で小さな人間であることを知り、認める。そのうえで「この子は自分の責任で守りたいな」と思っているんだろう。
ただ思っているだけで、できているか、できるのかはよくわからない。
でも「自分という最大の恐怖」に別れを告げることができたような気がして、よかったなと思う。
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