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【第6回】自分の価値観をどのようにして作りましたか?|インサイトジャーナル

20代の頃は「思考や感情」と「行動」のズレが激しかった。本当はやりたいのに、行動しない。本当は嫌なのに、喜んでいるように行動する……というようなこと。

それはきっとわたしだけでなく、実はたくさんの人がそうなんじゃないか、と思うことがある。

でも、「自分の価値観」が固まると、そのズレがなくなる。さらに、人生の質がべらぼうによくなると痛感している。

わたしにとっての価値観とは「自分はこう考える、よってこのように行動する」という、思考から行動選択の流れ全体のこと。

一般的な定義としては、物事に対して下す価値判断の基準とか、何が大事で何が大事でないかを判断する考え方など、これまたいろいろな表現をされる。

しかしわたしは「思考や感情→行動」のプロセスを総合的に、価値観と呼んでいる。

価値観が固まったのは30代になってから

わたしは、30歳を少し過ぎたくらいで「あ、なんか自分の価値観が大方固まったな」と感じるようになった。

行動に迷いがなくなったり、思考や感情と矛盾する行動をとらなくなった。

先述したように、本当はやりたいのに行動しないとか、嫌なのにそれを隠すとか。そういう、思考と行動のズレが格段に減った。

もちろん、すべて自分の思い通りというわけにはいかないが、基本的には自分が感じ、考えたことに従って行動選択できる。

すべて自分が選んでしていること。自分が望んだことだと自覚したり、自分の行動に責任をもてたりするようになった。

「自分の価値観」には、感情や思考が土台になっている。

まずは、自分の感じ方や思考などを肯定できないと「自分はこう考える→このように行動する」というように、考え方が行動に直結しない。

すると、考え方と目の前の事象にズレが起こるのだ。

わたしは、感情の反応がとても遅い。とっさに、喜怒哀楽の感情を認識しづらい。時間が経ってから自分がどう感じるかがわかってくることが多く、どうしても思考と行動がズレやすい。

それもあってか、少し前までは自己肯定感も低く、条件反射のように返事をしたり表情を作ったりして、ちぐはぐだった。

人の顔色や、人からの評価も気にしすぎていた。目立たないように、なるべく他人に影響を与えないようにと必死だった。

さらに、そうしているのは自分なのに「それをさせたのは相手だ」という他責思考も常に心の根底に眠っていた。表立って口にはしないが、腹の底でそう思っている。

これが、いわゆる「生きづらさ」の正体だったと思う。

ただそれが、30歳を過ぎたころから明らかに変わり始めた。

生クリームを泡立てていると、最初はいくら混ぜても固まらず、疲れ果てて「一生固まらないんじゃないか?」と思うのだが、ある瞬間から「あ、変わってきたぞ」という手ごたえを感じようになる。あの感じによく似ている。

たぶん、アイデンティティの確立という概念に通じてくるのだと思う。発達心理学では、青年期(12歳~20代半ばごろ)に大きな課題感を抱えるとされている。

だから、30歳過ぎで生きるのが楽になったことは、発達課題をクリアできた「成績表」のようなものだととらえている。

自分の価値観をもつと、欠如感が消え人生の質が上がる

自分の価値観がある程度固まってくると、人生の質が劇的によくなりはじめた。人間関係・仕事・お金・家族・趣味活動……何においても、欠如感がない。

足りない、自分なんかダメ、劣っている、恥ずかしい、などの自分を卑下する感覚がほぼなくなった。

実際わたしは、人より優れた能力をもっているわけではない。優れた部分もあるのかもしれないが、そのぶん劣った部分も多々あり、凹凸が激しい人間である。

それでも、劣等感や欠乏感といった「欠如」している感覚がなくなった。

自分の価値観が明確になると、自分の行動や選択に対して内なる基準ができ、それに従って生きることで他人との比較が要らなくなる。

これにより、自分自身を他人と比べて劣等感を感じることが少なくなり、日々の選択に迷いがなくなるのだ。宗教や神の教えなどを指針にする場合もあると思うが、考え方としてはそれとなんら変わりはないと思う。

よい意味で周りがどうでもよくなるし、何を言われても気にしなくなる。内側からの満足感が生まれ、欠乏感が薄れていく。

ただしそれは、自分を妄信しているのとは違っているのだ。自分が過去にしてきた愚かな行為、悪意、失敗、反省も含めて、今の考えと行動が導き出されている。

これは、AIが膨大なデータを処理して最適な答えを導き出すようなものだ。

自分の価値観や行動は、単なる感情的な反応ではなく、過去の経験、失敗、成功といった膨大なデータから計算され、導かれたものである。

だからこそ、自分を妄信しているわけではなく、冷静に過去のデータを参照した客観的で最適なを答えを導き出している感覚がある。

まぁそれも、あまり感情の反応が強くないし、遅いことで成せるのかもしれない。感情反応が薄いことは、ある場面では欠点だが、うまく働いてくれている。

「節目」の決断をゆずらない

自分の価値観を固めるのに、大事だったと思うこと__

それは、節目の決断をゆずらなかったことだ。

わたしはあまり自己主張をしない。普段は人に合わせて行動することが多い。主張するのがめんどくさいからだ。

会話のなかに、自然に自分の主張を織り交ぜるのが下手なので、主張するのは疲れる。だから、すぐにサボる。

でも、今までの人生を振り返ると、節目の決断は絶対にゆずらなかった。

「このまま流されたらどうなるのか」
「人に合わせて決めたら、どういう結末になるか」

普段、めんどくさがって人に合わせたりゆずったりしているが、それが実はけっこうしんどいのだと思う。自分のめんどくさがりのせいで、結果我慢ばっかりしているという、身から出た錆である。

だからこそ

「ここでまた、いつもみたいにめんどくさがったら、お前この先どうなるかわかってるのか?」

と、もう一人の自分が言ってくる。

そうすると

「あぁ……それはちょっと耐えられないわ」

と、もう一人の自分が答える。そして重い腰を上げるのだ。

たとえば、進路を決めるときや結婚、引っ越し、土地の購入……といった、人生の大きな分かれ道となるポイントでは、絶対もう一人の自分が口をはさんでくれる。

一般的な節目だけでなく「ここで自分を曲げたらダメ」というポイントは、誰にでもたくさんあるだろう。

ゲームでいえば「チェックポイントでセーブしておかないと、今日の頑張りすべてがパーになる」みたいな感覚だろうか。

そのチェックポイントでは、誰がなんと言おうがゆずらなかった。断りにくいことや言い出しにくいことは、酒を1杯ひっかけてでも主張をした。

ときには、泣いてわめいて、駄々をこねたこともあった。普段から主張慣れしていないから、そのやり方は少し滑稽にも思える。

それでもとにかく「ここで間違えちゃいけない」という感覚には従った。それが結局「自分はこう考える→よってこのように行動する」の基盤を作ったなと思う。

価値観は変化し続けるのか

まだ30代、一般的にはあと50年近く生きる可能性があるので、ここからさらに価値観が変わっていくのだろうか。

歳をとると丸くなるとか、いろんなことを気にしなくなるとか、そういうこともよく聞く。だから、今も生クリーム6分立てくらいなんだろうなとも思っている。

「こういう場合はどうしたらいいのだ」
「このように感じるには、偏っているだろうか」

そんな風に迷うことだってまだまだごまんとある。それが、いつかなくなるのだろうか。9分立てになったら、人生が終わるのだろうか。

とにかくわたしは、基本的にめんどくさがりだ。今後も、決断をサボらず、自分の価値観、自分の「世界」を作り続けていこうと思う。

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