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noteで人に何かを伝えようとするのはやめようと思う

前のアカウントから、アカウントを全部移行しようと思う。
主には、身内を傷つけてしまったことがきっかけだった。
身内にとって今後繋がり続けるのも良くないとも感じた。
(故に、その問題があった身内からは特定できたり、アクセスできないようにするつもり)

ここで、改めて不特定多数対象のSNS発信の危険性について考えたい。

私がnoteを使い始めたのは、人に言えない悩みを全て書き出して、自分自身と向き合い、在りたい自分で在る為だった。
つまりは、すべて自分のために書こうと思って書いていた。

きっと、人生において過去の自分は特に、自分のために生きることが難しいと感じることばかりで「自分のために生きないと私は私を殺し続けて生きてるのに死んでいるようだ」とそう感じていたから。

ずっとなかったことにしなければならなかった自分の中の悲しみや怒りを湧いてきた時に全部とは言わないが、色んな出来事を文章にした。
すると、過去の苦しかったときの自分が少し軽くなった気がした。そして同じ苦しみを持つ人がnoteにはいたからひとりじゃないと思えた。だから書いていた。

しかし、これまでnoteを書いていて持った違和感が2つある。
1つは、私の意図通りには人へは伝わらないこと。

私は私のために書いていて、だれかを傷つけようなんて意図や意思が120%、自覚的(顕在意識的)には毛頭無くとも、読んだ人は攻撃と捉える場合がある。

そして2つ目が、現実世界の私と紐づいてないのではと思ったこと。
だから、noteをインスタのアカウントを紐付けるようにした。
このSNS連携が、今回の身内との争いを生んだきっかけになった。


書き手と読み手の誤解釈

文章ないしは文字の意味とは、読み手がつけるものだ。文章や文字なんて、もとより空っぽなものだ。
対面で会話していれば、意味が伝わっているかどうか感覚でなんとなく感じられたり、誤解釈があれば確認できたりもする。

しかし、文章となると
書き手が書いた意味合い通りに、読み手へ伝わるかどうかは、全く未知だ。

どれだけ私に、「傷つけよう/批判しよう」という意図や意思がなくとも、相手が「傷ついた/批判された」と感じたなら、それはその人にとってそれが真実だということ。
いじめやセクハラやモラハラと同じで、相手がそう受け取ったなら、それはもういじめやセクハラやモラハラになる。

だから、noteとはあくまで備忘録・整理用であり、決して誰かに何かを伝える用の媒体ではないということを思い知った。
というより、今後誰かに何かを伝える媒体として使わないようにしようという決意かもしれない。

正確に言えば、結果的に何かが伝わることは自然なことなのだと思うが、意図して「伝えよう」とする行為はもうやめようと思った。

これは、本当に気をつけていきたい。
今回の件は、誤解釈をした相手だけが悪いのではなく、そもそも誤解釈を生むきっかけをnoteを書くことで作ってしまった自分にも非がある。

身内だからこそ誤ってしまった距離感

そして、いくら身内であれど、きっと適切な距離感というのが存在する。
身内だとどうしても「良い方向へ進んで欲しい」とどこかで思い、良かれと思って色々と声を掛けたり、思っていることを伝えようとしたりしてしまう。
しかしながら、それはきっと私のエゴだったのかもしれないと思う。

相手に「変わって欲しい」と思うが故の行動だったのかも知れない。
つまりこれは、現状の相手を認められていないことと同義な気がする。

そして、身内の問題を抱えていたことを知っているが故に、足を突っ込みすぎてしまった。
自分の優しさが伝わらない寂しさももちろんあるから、伝わらなさを痛感するその度に泣いてきたけれど、もう変えようとするのはお互いにとって良くないなと今は判断した。

だから、これまでの距離感とは違って、お互いにとって丁度良い距離感でいられるように努めようと思う。


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