深キョンに憧れて。
ある日突然、女優になりたいと思った。
いや、正直に言うと「深キョンになりたい」と、思った。
あれは小学校6年生の頃。
当時、「神様、もう少しだけ」というドラマで深キョンがブレイクした。
好きな人のライブチケットが欲しくて、援助交際を経てHIVに感染した女の子の話。
テーマソングだった、河村隆一の歌は当分耳から離れなかった(嗚呼、なんて懐かしいんだろう)。
私は、深キョンに感銘を受けた。
当時はネットが普及する前で、Youtubeのようなオンラインのプラットフォームも一切なかったので、芸能人はTVの世界がすべてだった。
TVに映る歌手や女優さんたちは、みんな痩せていて小顔がスタンダード。
わたしは幼い頃からぽっちゃりどころか肥満を極めており、私にとって芸能界は雲の上の存在だった。
深キョンは、そんなわたしに革命を起こしてくれたのである。
彼女は、今まで見てきた女優さんとはまったく違っていた。
足のサイズは確か26cmと公表していて、結構しっかりした体つき。
顔の可愛さはもちろんだが、私はあの健康的な体型が大好きだった。
「痩せていなくても、女優さんになれるんだ」
と、素直にそう思った。
ま、わたしの顔は薄く平安美人で、生まれる時代が違っていたらひどくもてはやされたに違いないのだが。
残念ながら、平成の時代にウケる顔ではないのだ。
薄い顔のわたしは、毎週憧れの深キョンを見ては密かにセリフを覚えてみたり真似してみたりしていた。
また、後に漫画「ガラスの仮面」にもハマることになった。
ずば抜けた才能を持つ北島マヤが、ライバル姫川亜弓と紅天女の座を目指す。
当時ハマりすぎて全巻揃え、大人になってから紅天女の能舞台にも足を運んだほど。
かつていじめられっ子で無口だったわたしが、女優になりたいと思う日が来るなんて。
自分が一番びっくりした。
しかし、わたしが生まれ育ったのは四国の片田舎で、芸能界とは無縁すぎる環境。
ネットも普及していないし、ここから外の世界とつながる手段は郵便か電話しかないようなアナログの世界。
女優になりたいと言ったところで、一体何をどうしたらいいのかもわからなかった。
当時私はジャニーズjrにドハマりしており、毎月5000円のおこづかいをほぼ全部アイドル雑誌に費やしていた。
その裏表紙によく、劇団の宣伝ページが載っているのに気付いた。
深キョンに憧れるまで気にも留めなかったが、よくよく読んでみると養成所に入るためのオーディションが定期的に行われているらしいのだ。
「これだ!」と思った。
というより、「これしかない!」と思った。
私は行動するまでかなり腰が重いタイプだが、決めると猛烈なパッションで行動に起こしていく。
この性格は、今も昔も変わらないなと思う。
早速、そこに書かれている通りの書類と写真を用意した。
オーディション会場は最寄りが大阪で、もし書類審査が通ったら大阪まで足を運ばなければならない。
当時、明石海峡大橋が開通したばかりで高速バスを使えば行けるが、私一人の為だけに「大阪に行こう」なんて言いづらい。
私は、いいことを思いついた。
「母にもオーディションを受けてもらえばいいじゃないか」と。
写真嫌いの母のソロ写真を必死で探した。
唯一見つけたのは、台湾旅行へ行った時のもの。
母が広いベッドの上に寝そべって大あくびをしている写真。
こんな素晴らしい決定的瞬間を激写した私を褒めてあげたくなったほど、インパクトレベル最大級の写真だ。
それに、ソロはこの写真しかない。
母の書類にはその写真を添えて、2人分の封筒をポストに投函した。
後日、母から封筒を手渡された。
劇団◯◯から、私と母宛てに計2通。
「劇団って何?どういうこと???」
明らかに不審がった表情で、母は私に尋ねた。
私は何事も事後報告のタイプである。
もちろん女優になりたいとか、書類を送るだとか、誰にも何も言ってなかった。
ただ、行動を起こしたのである。
しかし、この封筒の中身は私もわからない。
書類選考を通過したのか、落ちたのか。
開けてみると、二人とも書類選考を通過。
ぽっちゃりの薄い顔でも通過出来たんだ!と心が踊ったが、なんとあの大あくびの母も通過したのだった。
全く以てわけのわかっていない母だったが、彼女の言葉は
「これも何かの縁かな、行こか。」
意外にも、ノリがよかった。
勝手に送るんじゃないよ!と怒って行かない選択をする予想が濃厚だったから驚いた。
どの写真を送ったのかと聞かれ、あの世紀の大あくびをカミングアウトすると、母はケラケラとしばらく爆笑していた。
怒るどころか、むしろ笑いが取れて安心した。
愛する父を亡くしてまだ半年ほどで鬱状態が続いていたから、母が笑うと嬉しかった時期だった。
そんなこんなで、私たちは記された期日にオーディションを受けに大阪へ行った。
会場には大勢の老若男女が、私たちと同じようにオーディションを受けに来ていた。
部門が分かれていて、自然と聞こえてくる歌手志望の子たちの歌唱に私は唸った。
なんてレベルが高いんだろう!
私は、女優と同じくらい歌手にも興味を持っていた。
後に歌手のオーディションを受けたり、バンドを組んで歌っていたこともある。
今でこそハスキーボイスだが、当時はSPEEDやJUDY AND MARYの高音が余裕で歌えるくらい声に幅があった。
ピアノもトランペットもやっていたので、周りから”音楽といえばなっちゃん”みたいなイメージがあったと思う。
ここは大都会、大阪。
地元の片田舎とは比べ物にならないほど、レベルが高い。
初めて感じる外の世界に、私は興奮しまくっていた。
さて、私のオーディションはというと、思い出せる限りで
1.詩の朗読
2.長めの台詞を演じる
3.面談
こんな感じだった。
詩は、たんぽぽの綿毛が飛んでいく様に呼びかけるような、そんな内容だった。
私は小学生当時から詩が大好きで、特に金子みすゞさんの大ファンだった。
なかなか感情をこめて読めたんじゃないかと自負している。
台詞を演じるのはどんな内容かさっぱり覚えていないが、普段ひっそり深キョンの真似をしている素人演技を、こんなプロの審査員たちの前で演じるのはなかなか照れた。
と同時に、誰かに見られていると思うと真剣に演技に臨めてとても幸せな瞬間でもあった。
エントリーナンバーが振り分けられているのでしばらく母とは別行動だったが、彼女もきっとちょっぴり緊張なんてしながらオーディションを受けているのだろう、と思った。
すべての行程が終わり、母と再会した。
面談では、「あなたはどんな女優さんになりたいですか?」と聞かれ、
「私はもう若くはないのですが(当時37歳)、様々な感情を表現できる個性的な女優になりたいです。」
と答えたらしい。
冷静に考えてみると、ものすごい母だなと思う。
彼女は、生涯で一度も女優を志したことなんてないだろう。
まさか寝転がって大あくびをしている写真を人様に見られるとも思ってなかっただろうし、
ましてやそれを娘が勝手に劇団に送りつけて書類選考を通過したことも、まさかのオーディションを受ける未来があったことも、きっと想像の範疇を超えているだろう。
完全に振り回されているのに彼女は嫌と言わず、あたかも自ら志願してここに来ていると信じずにはいられないような台詞を、自分の言葉で審査員に語ったのだ。
オーディションは、普通に母親業をしていたらそうそう体験しないことだろう。
彼女は、目の前にきたものを素直に受け入れ、楽しんでいるように見えた。
そして、それは私にとっても有り難かった。
親子揃って受けたオーディションに、なんと二人とも合格した。
これは、劇団の養成所でレッスンを受ける権利を得たことになる。
確か、数百人受けて5分の1の枠に入った、と記憶している。
母も巻き込み大胆に行動した結果、なんと合格したのだ。
深キョンに憧れて思い切ってオーディションを受け、通過できたことがとても嬉しかった。
一方、母は送られてきた合格通知を見てたじろいだ。
受かってしまった、という感覚に近いだろう。
まさか自分が受かるなんて思ってもおらず、確実に困惑していた。
そして、母は電話で辞退を告げた。
断り文句は、
「女優と母親、二足の草鞋は履けません」
だった。
養成所からは、
「あなたは、厳選な審査をして選ばれた才能溢れる方です。全員が受かるものではないので、ここで辞退はとてももったいないですよ。」
と引き止められたらしい。
それでも、母が首を縦に振ることはなかった。
その後、私は喜んで演技のレッスンを受けることになった。
レッスンと言っても大阪に毎週通うことは出来ないので、通信教育を希望した。
さすが大手の劇団、地方に住む人にとっては大変有り難い制度だ。
毎週、演技や朗読のテキストとカセットテープが送られてくる。
担当講師が音声を録音し、課題を与えてくれる。
そのテープに自分が録音し、送り返す。
それに対してまた音声で指導をしてくれる、という流れ。
90年代後半の当時は、今のようにスマホで簡単に動画が撮れる時代ではなかった。
MDが普及する直前で、専らカセットテープが主流の時代。
30年近く経つともうこんなに色んなことが変化していくんだなと改めて感じる。
そのレッスンはとても興味深く、担当講師は毎回丁寧に指導してくださった。
誰にも邪魔されない時間帯を狙い、約2年間部屋でひっそり細々と録音を繰り返していた。
残念ながら何らかの作品に出演する機会はなかったものの、好きな習い事の感覚で毎回楽しくレッスンを受けていた。
中学でメンタルが崩壊し一時的に不登校になった頃、辞めてしまったのだけれど。
後に進学した短大で保育を学んでいた時、たくさんの子どもたちを招いてミュージカルを上演することになった。
演目は、現代リミックスの浦島太郎。
主役の浦島太郎と乙姫の二役は、プチオーディションとみんなの投票で決められた。
そこでほぼ全員からの票をもらい、私は乙姫に選ばれた。
子ども向けだからこそ、大胆な動きとわかりやすい滑舌と大きな歌声が求められる。
私は久しぶりに魂が喜んでいるのを実感することができた。
印象に残っているのは、浦島とのデュエットと、海の仲間たちと歌って踊ったUnder the sea。
豪華なティアラ?と着物の衣装を身に纏い、立派なホールで舞い踊った。
終始とても幸せな気持ちで、魂が満たされた。
そして、あの養成所でのレッスンが、公の場で初めて生きたと思えた瞬間だった。
先日、仲良しの友だちと電話している時に突然
「なっちゃん、ロンドンで女優目指したら?」
と言われ、この劇団の話を思い出したのだ。
彼女には女優になりたかったことも、レッスンを受けていたことも話したことがなかったので、突然の提案に驚いた瞬間だった。
その後すぐ、たまたま訪れたカフェにシアターが併設されており、加えてそこで毎週行われている演技クラスのパンフレットを目にした瞬間は「これだ!」と思った。
人生を通して、私はその時に欲しい情報や無意識に願っていることが目の前に用意されることが多い。
いや、それがスタンダードかもしれない。
昔、ある占い師さんに出会った。
その方の名字が、母の旧姓と全く同じだった。
とても珍しい名字で、運命を感じた。
その方の鑑定で
「あなたは、前世で売れっ子の舞台女優だったの。
誰もが憧れる大舞台で長らく活躍していた。
ところが、大きな戦争に巻き込まれ、女優業を続けられなくなった。
町には親を亡くした戦争孤児が溢れた。
あなたはその子たちを見て”これが私の使命だ”と感じ、たくさんの子どもたちの親代わりとしてサポートし続けた。
結婚の道は選ばず、一人でたくさんの子どもたちの母になった。
舞台でキラキラしている役者さんを見ると涙が溢れたりしない?」
と言われたのだ。
保育を学ぶ道を選んだことはもちろん、劇団養成所のレッスンを受けていたことも一切言っていなかったので心の底から驚いた。
そして、まさにその占い師さんが言う通りなのだ。
私はミュージカルやオペラが大好きで、日本にいる時は劇団四季、海外NYブロードウェイや、今いるロンドンでもしょっちゅう観劇している。
むしろ、私にとっては観劇こそがロンドンに住む醍醐味と言っても過言ではない。
悲しい物語でもないのに、役者さんたちを見ていると泣けてくる。
ものすごく懐かしいような気持ちになって、魂が喜んでいるのを実感する瞬間でもある。
憧れ、というよりは、もうすでにここにある感覚が再現される、溢れてくる、みたいな状態なのだ。
占い師さんが見てくれた前世の私はきっと、大舞台で様々な役柄を演じて命を燃やしていたんだろう。
レッスンは辞めてしまったものの、日常でふと
「何かを演じてみたいな」
と思うことがある。
一人芝居もいいけれど、色んな役柄で1つのものを演じる方が興味が湧く。
友人の一言で導かれ、ロンドンで見つけたあの演技クラスに入るためにはやはり流暢に英語が出来ないと話にならないなと思った。
早速出会った素晴らしいAI英会話レッスンに登録し、1年分の料金を払ったところだ。
女優になりたかった夢を思い出したおかげで、長年腰が重かった英語の習得にやっと火がついてとても感謝している。
まずはひとまず、英語に精を出してみようと思う。