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伝記が読めない偉人たち。
小学生の頃、伝記を読むのが大好きだった。
私は外で遊ぶのが嫌いで、ひたすらインドアな子どもだった。
みんなはドッジボールをしたり、一輪車に乗れるようになったりしているが、私はまったくもって興味がなかった。
図書室が好き
代わりに、図書室に行き好きな本を借りて読むのが習慣だった。
ドアを開けた時の、あのふわっと鼻に入ってくる古びた本の匂いが大好きだった。
古くなった本を見ていると、歴史をたどっているような気持ちになる。
一体どのくらいたくさんの人に読まれたんだろう、とか、もしかして一回も読まれたことがなく私が初めて読むのかもしれない、等と、私だけタイムマシーンに乗せてもらっているような気持ちになったものだ。
伝記ってすごい。
好きな伝記シリーズは、決まって棚の上の方に並べられていた。
片っ端から、偉人たちの伝記を読み漁った。
伝記って、すごいのだ。
何がすごいって、あの当の偉人たちは自分の人生が本になって、世界中の人に人生を語られていることを知る由がないことである。
伝記は、第三者の手によって語り継がれている。
つまり、生前何らかの功績を遺したり、人に大きな感動を与えた人が伝記として本になるのだ。
私たちは皆、自分の人生に集中して必死にこの世を生きているはずだ。
他人の人生を文章化するなどということは、自分の命を削ってでも伝えたいほどの感銘を受けた以外考えられない。
あの偉人たちは、第三者の心を揺さぶり、その人を介して自分の人生が語り継がれているのである。
伝記を読みながら、この第三者の存在にも感謝が湧き上がったものだ。
愛の代名詞、マザーテレサ
中でも、私はマザーテレサに非常に感銘を受けた。
実は、私はマザーテレサと同じ誕生日なのだ。
知った時には、「あぁ、尊敬するマザーと同じなんて、きっとこれも運命だわ!!」と勝手に感動した。
大人になってからある占い師さんに、「前世でたくさんの戦争孤児のお母さんになってサポートし続け、生涯独身を貫いた」と聞いた時に真っ先に浮かんだのは大好きなマザーだった。
占い師さんが見た私の前世の記憶と魂が、幼い頃にマザーに感銘を受けた私とリンクしていたのかもしれない。
↑前世を告げられた記事はこちら。
自分の身を削ってでも命の危険が迫っている人たちにあたたかい言葉をかけ続け、最期を安らかに過ごしてもらおうと努めるということは、まったくもって簡単なことではない。
覚悟がないとできないことである。
彼女は行動でその深い愛を示したからこそ、周りの人たちを巻き込み大きな「帰る場所」を実現させたのである。
大人になってからもマザーへの想いは変わらずいつも心にあり続け、マザーが遺したたくさんの言葉をまとめた本を数冊持っている。
隠れ家の太陽、アンネ・フランク
アンネ・フランクにも、当時とても大きな衝撃を受けた。
当時の私と大して変わらない年齢のアンネは、隠れ家での生活を強いられた。
自由に歌ったり踊ったりすることは疎か、日々の生活すら常に音を立てないようにしてひっそりして生きる。
「見つかれば、命はない。」
そんな命の危険と隣合わせの生活の中で、彼女は日記を書き続けたのである。
なんということだろう。
1時間後の自分がどうなっているかもわからない、生きていくことが苦しく辛いあの隠れ家生活の中で、アンネは希望を失っていなかったのである。
必ず日記は”親愛なるキティへ”から始まっていて(彼女が日記につけた愛称)、友だちにも会えないアンネにとってはこの日記こそが親友だったのだ。
猛烈に感化された当時の私は早速日記帳を買い、名前をつけて日記を書き始めたが、ほんの数ページしか書かずに終わってしまった。
つけた名前も思い出せない。
私の日々は日記をつけることだけでなく、この時代に生まれて、好きな場所へ自由に行けて、誰の監視下にもない生活ができるって、なんて有り難いことなんだろうと思った。
私が日本語に訳された日記を読めるのも、後にそれを発見し心を打たれた人がいたからだし、その”感動のリレー”によって私たちへ受け継がれていくのだ。
“三重苦”と呼ばれた、ヘレン・ケラー
ヘレン・ケラーの伝記は、当時涙しながら読んだ。
彼女は、耳が聞こえない、目が見えない、話せない。
所謂「三重苦」と呼ばれた少女である。
まだまだ視野の狭かった当時の私は「そんなこと、ありえるんだ…」と、ただただ衝撃を受けた。
あまりにも強く心に残り、私は家に帰りある実験をしてみることにした。
自らタオルで目隠しをし、父の古びたヘッドフォンをつけ、口にテープを貼って話せないようにしてみたのだ。
それはまるで、異世界だった。
当たり前にあったものが、すべて私の世界から消えた。
目の前にあるとわかってはいるが、ランドセルが消えた。
手で触ってみると、四角い形でつやつやの表面。
ベルトがどこからどんな風に繋がっているのかがわかり、今まで気にしたこともなかった角のステッチの存在に気付いた。
ヘッドフォンなので多少周りの音は聞こえるが、明らかに自分と周りに隔たりを感じる。
そこに、壁が存在しているような気持ちになった。
そんな暗闇でしばらく過ごしていると、とてつもない孤独感とつまらなさが襲ってきた。
本当に、「なにもない世界」なんだ。
私は、自分の手ですべてを元通りに戻すことが出来る。
でも、ヘレン・ケラーの世界は、毎日毎瞬がこの状態なのだ。
なんて孤独なんだろう。
彼女には、この当たり前に浴びている眩しい太陽の光を見ることすら許されていないのだ。
私は装備を解きながら、ひどく辛い気持ちになった。
サリバン先生が彼女に「水」の存在を教えようとするシーン。
コップの中に水を注いで持たせても、彼女の世界ではこれはコップでしかないのである。
サリバン先生は井戸に連れて行き、水を目一杯出し彼女の手で触れさせ、唇と手を使って「ウォーター」を伝えた。
ヘレンの世界に、大きな雷のような衝撃が走った瞬間だ。
彼女は、「水」というものは、この世で「ウォーター」という名前があって存在していることを知ったのだ。
サリバン先生の大きな情熱、ヘレンとの怒涛の日々。
二人の気持ちを想像し、ぼろぼろ涙が溢れて止まらなかった小学生の私。
伝記を読めない偉人たち
当時たくさんの伝記を読んだが、中でも私がとても印象に残ったのがこの3人である。
月並み過ぎる言葉だが、伝記は「今ある恵みが決して当たり前ではないこと」を知らせてくれる。
誰もが自分自身の「伝記」を生きている。
本にしてもらわなくても、
「もし自分の人生が伝記になるとしたら、どのシーンが大きな出来事だろうか、どれがターニングポイントだっただろうか」
と考えながら今までを振り返るのも面白いものだ。
書きながら、久しぶりに伝記を読みたくなった。
偉人と呼ばれながらも自分の伝記を読むことはない人たちの人生を、私たちは読むことが出来るのだ。
当時あれだけ伝記を読んだ中で、唯一興味を持たなかった「ファーブル昆虫記」を、大人になってから読むのもいいなと思っている。
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