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あるがままに在る

 昨日は国立新美術館、乃木坂。
 開館時間15周年記念李禹煥展覧会とルートヴィヒ美術館展を両方楽しむ、よくばりセット。

 李禹煥回顧展を見たきっかけは、Courrier Japonからの招待券だった。ほんのりと気になっていたところ、チケットをプレゼントしていただけたのだ。感謝。
 普段はアールヌーヴォー、印象派、写実派を好む。幾何や抽象も好きだが、「もの派」出身作家の単独企画は、気になれどなかなか足が向かなかった。勝手にハードルが高いと感じていたのだ。いい機会だったと思う。

 三方向から色に侵食されていく──不思議な感覚をおぼえる《風景Ⅰ》《風景Ⅱ》《風景III》。ただそこにある、塗り分けられた平面の色彩。しかし蛍光塗料の暖色は、まるで温度を伴うようにこちらに迫ってくる。あるがままで放つ存在感。

 「もの派」時代の作品、とりわけ石を多用した作品に侘び寂びと通底するものを感じながら、そうかこれもミニマル・アートの流れを汲むのだったなと再確認する。閑寂な中に奥深さを見出す侘び寂びの日本的美意識とは若干ズレるものの、そこに在るものとの対峙はアニミズムとも通ずる。

 《関係項ー棲処(B)》における、敷き詰められた石。実際に入って踏みしめることができるそれらは、観る者によって硬質な音を立てる。そこに在るモノと、そこに在るヒトとの邂逅。静謐な中に響く音、積み重ねられたり立てかけられた石のもたらす思考は、視覚的情報量の多いアートよりもむしろ豊かかもしれない。

 シリーズ《線より》《風より》から感じる、書の世界との近さ。余白が「ただ書かれていない場所」ではなく、意味を持った白であるのは、優れた書にも言えることだ。
 関係性をはかり、内なるものを見いだし、よりよく相関する距離を俯瞰する。

 この日いちばん心惹かれたのはシリーズ《点より》の作品群と、《応答》だった。《点より》の点が織りなすリズム、視覚化される時間の流れ。《応答》の、余白の美としなやかな対話。ミニマル・ミュージックやサカナクションのインストゥルメンタル的なものを感じる。
 「変な話ですが、なんとなくサカナクションを感じませんか?」
 観覧後、及び腰ながらそんなメッセージを友人に送ったら、ああこれはサカナクションだねと返ってきた。こんなふうに捉えていいものか、と考えてはいたが、そう感じる人は他にもいるのか。影響というより、ジャンルを超えた異なる表現たちの共鳴なのかもしれない。そういえば、山口一郎氏はかつてインタビューで、「もの派」李禹煥が好きだと語っていたはずだ。

 閉館まで小一時間、そのまま2階へ上がりルートヴィヒ美術館展へ。今月のウイークエンドはもう殆ど予定が入っているため、26日までの会期で訪れるチャンスがあるかどうかわからない。このためにドタキャンならぬドタ出をしたわけだが、結果としてとても良かった。
 世相を切り取った写真含め、現代美術を網羅的に扱った展示は、市民発とは思えない潤沢さ。ピカソやウォーホルも複数あり、多彩かつ見応えのあるラインナップだった。ジャンルの垣根をこえて、時代という括りで美術を眺めたとき、そこに浮かび上がってくる様々な表象を静かに受け取る。

 混雑していないので、実時間以上にゆったり観られた。二科展も観覧したかったが、時間足らず。もっと早く動けばよかったな、などと思いつつ、会場を後にした。

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」