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ひびきとひび、言の葉

 帰宅する夫と妻の仲睦まじいLINE画像が、X(Twitter)で流れてきた。ワンオペで唐揚げを作るという報告に、「えらすぎます」「宇宙でいちばんです」と褒める夫。夫より優しい人に会ったことがない、とコメントを添える妻。
 
 なんだかじーんとしてしまった。言葉が、つとめて真っ直ぐに届いているんだなあと。

 するとみるみるうちに「偉いとは上から目線」「まずはありがとうだろう」「私なら嫌だ」と引用がつきはじめた。
 ああ、と深く溜め息をついてしまった。 
 SNSが日常に溶け込んでから、いつしか他人のさりげない営みはレビューの対象になってしまったのだろう。
 ネットショッピングで届いた品物を見定めるように、テストの採点をするかのように。

 本人たちのやりとりが優しく愛で成立しているのに、「偉いとは」と引用で腐すのはどうだろう。
 言葉は常にコミュニケーションのための手段であって、どのような表現だったとしても気持ちを渡し受け取りあえていればいいはずだ。
 やりとりしているのは文字の並びではなく気持ち、心そのものなのだから。
 
 もしもこうした引用が元で
 「これはもしかして上から目線だったの?わたしはこれまで褒められていると思っていたけれど、下に見られていたの?」
 とふたりのコミュニケーションに懐疑の影がのび、ひび割れたりでもしたならば、それでいったい何になるのだろう。すぐにではなく遅効性の毒で、例えば喧嘩の時にふと思い出すかもしれない。
 やりたいことはそれなのだろうか?
 他人の感情をネガティブに塗り替え、掻き回して楽しいのだろうか?
 まさしく言葉狩りではないだろうか?

 コミュニケーションにおいて、自らの「いや」は他人の「いや」ではない。
 にもかかわらず、対話当事者でない人間が自らの不快感を種に明後日の方向から関係性を壊しにいくならば、それはただの傲慢な行為でしかない。他人同士のやりとりは、似非御意見番のネタやオモチャではないのだ。

 もしも正解がひとつしかない世の中だったならば、ラブソングも絵画もミュージカルも今ほど満ち溢れてなどいなかっただろう。表現の向こう側には人の心があり、言葉の意味に込められた膨大なコンテクストはそのすべてなど知りようがない。
 だからこそ、表現は多彩でいられる。ネガティブもポジティブも、限られた文字の中にはみ出して響くものを抱えている。

 わたしたちはいつから文字列の奴隷になり果て、他人同士の言葉にも除草剤を撒くようになってしまったのだろうか。いちばん大切だったはずの心を置き去りにして。


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なつめ
なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」