do not decorate
引き続きキラキラマスキングについて考える水曜日。
第三者からあてがわれるキラキラした前向きワードは誰のためか、という視点をいつも持っている。これはもう、意図的に自分の内側に確保しておくべきものだと思う。
Toxic positivityと「キャンサーギフト」という言葉は相性が良く、何かというと無理矢理「よかったこと」にされがちだ。わたしは0期のDCISなので、全摘していようが他に持病や事情があろうが診断保険金が下りなかろうが、尚更のこと「よかった」を連呼される。
だが、果たしてそれはポリアンナ症候群(Pollyanna syndrome)と構造的にどこが違うのかと思う。病が好ましいものであるはずもなく、罹らないに越したことはないのだ。より厳しい状況と比べれば、何だって軽く扱われるだろう。
「キャンサーギフト」はあっても「肺炎ギフト」や「心疾患ギフト」、「骨折ギフト」など聞いたこともない。「がん」だけが「病からギフトを得る」というキラキラ文脈に落とし込まれる。
やはりこれは、「がん」という病名がもつイメージのせいだろうと思う。
がんになって誰かから心遣いをいただくのは、あくまでその誰かからのギフトだ。がんという病から貰っているわけでは、決してない。
他の疾患や事象でも、出会いや教訓は常にある。そこはお心遣いくださった方々に感謝するのが筋だ。がんだけが特別で、さしずめ神の意志を有しているような言い方はどうだろう。
そして本来は「がん患者への支援として心からギフトを贈る」意味だった「キャンサーギフト」という言葉が、時として「理想論の口は出す」けれど「現実的な手は貸さない」というかたちで流用されていく。
神といえば、何でもかんでも「神の采配です」といった言葉も大変もやもやする。わたしとしては、その文脈をこちらに向けるのはご遠慮いただきたい。酷くげんなりする。
物心つく前に死んだ幼子は神にお前死ねと言われたのかいな、と問われて真摯に、誤魔化さず、目を逸らさず答えられる人がいるだろうか。災害で亡くなった人々、事件に巻き込まれて亡くなった人は?
周りに学びが云々言うかも知れないが、本人にとってはそんな采配はほとほといい迷惑だろう。そして周囲にとっては、エビデンスに欠けた理由の提示は因果を探し求めて苦しむ元にもなりかねない。
何かを信じることは自由だ。だがそれを他人の不幸に当てはめてはいけない。相手の感情をコントロールしたり、自論の展開に利用してはいけない。他者の死や艱難はそのように「有効活用」していい代物ではないのだ。
どうしても理屈や理想では覆い尽くせぬ理不尽があるからこそ、仮に神的存在を信じるならばそれを静かに内在させる理知も必要になる。他者に求めては、歴史があらわすようにいつか衝突してしまうだろう。人を救うはずの信仰は、いつの世も戦争や内紛を絶えず生み続けているのだから。
無論、当事者本人が自ら見えざる──そして存在を証明することもかなわぬ力に縋ることで暫時の安らぎと希望を得ようとするならば、それもひとつの救いだとは思う。それはまったく自由なこと。
あくまで他人に投げかけるのはおかしい、という話だ。他者の痛みは他者のもの。それを自分勝手に解釈したり無理やり意味付けするのは、場合によっては立ち入り禁止の領域に踏み込むような振る舞いであるだろう。
余談だが、病人への宗教等勧誘の多さについては、しばしばサバイバー同士の間でも話題となる。信じれば必ず救われ治るのであれば、古来からずっと医学は発展してこなかったはずだ。
巷に溢れる万能の水や奇跡を呼ぶ石は、キラキラマスキングのひとつだ。本質を覆うだけで、いつか剥がれ落ちるメッキ。金を求める人にメッキを渡すのは、はたして善い行いだろうか。
贈り物だと言われたり、定めだと言われたり。そうして輝くラメで上っ面を塗りたくられてしまえば、本音などどうにも吐けなくなるだろう。「話す─傾聴」の機会から、どんどん遠ざかる。つらさや悲しみは強く強く抑圧され、負荷はかかりつづける。
世の中には道なき道に満ちている。理由も根拠もない悲しみやつらさを泥水啜りながら越えていく、だから人は強くて脆くて尊い。
なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」