外国ルーツの人にきく [食べたら元気になるごはん]第2回(後半) 乃毓(ナイユー)さんの「三杯鶏(サンペイジー)」
この記事は、台湾出身の詹乃毓(セン・ナイユー)さんの記事のつづきで、第2回の後半になります。
「三杯鶏」の作り方は前半部にあります。
まずは、第2回の前半からお読みください。
(第2回前半からのつづき)
* * *
台北生まれの台北育ち、そして現在は日本で働く乃毓(ナイユー)さん。
前半の料理の取材と撮影を2019年12月に終えて、インタビューは少し先の3月に、改めて時間をもらいたいとお願いしていました。
その後、そのときには思いもよらなかった大きな変化が、世界中で起こることになります。
2020年の年が明け、2月になると、東京でも少しずつ、新型コロナウイルスの感染拡大が心配されるようになってきました。
街でマスクをしている人が、今までよりも増えはじめたのも、この頃だったと思います。
「コロナのこともあるし、インタビューは延期しましょうか?」
3月に入って、乃毓さんにそんな連絡をしたことを覚えています。
乃毓さんの返事は、「予定通りやりましょう」でした。
「いつまで日本にいられるか、わからないから」
インタビューは2020年3月20日、4月に東京で第1回目の「緊急事態宣言」が出される、少しだけ前におこないました。
「3密を避ける」ため、その日は都内の公園で話をきかせてもらうことにしました。
春のお彼岸の中日。
ちょうど見頃の桜の木の下にピクニックシートを敷いて、あたたかいお茶と焼き芋を買ってきました。
途中で寒くなってきたので、近くのイタリアンレストランに場所を移しました。
乃毓さんは当時、勤めていた会社での契約更新がないことがわかって、まだその会社で働きながら、転職のための活動もしているところでした。
忙しく、また不安な時期だったと思うのですが、彼女は変わらず穏やかで、どんな質問にも丁寧に答えてくれました。
以下は、乃毓さんのお話です。
(彼女のその後のお話も記事の後半にあります。少し長いですが、最後まで読んでもらえるとうれしいです)
* * *
転職活動と今の仕事
コロナのこともあって、転職活動は厳しいです。
でも、自分でも転職したいと思っていたから、契約更新がなかったことに、ショックとか、驚きとかはありません。
今いるのは、日本に興味がある海外の人に向けて、日本の情報をネットで発信する会社です(注:2020年3月時点でのこと。以下も同じ)。
私は日本全国の観光スポットの紹介記事を、中国語に訳す仕事をしていました。
コロナのことで、日本に来たいという人も減ってるから、会社は大変だと思います。
社員の数も、ぐんと減らすようです。
この仕事は嫌いではないのですが、ちょっと単純すぎて……。
前は、もっと面白かったです。
私が就職した2年前は、まだ予算もあって、実際に現地に取材に行く機会もありました。
でも、取材には時間もかかるし、交通費もかかります。
だから、そういうことはどんどんなくなりました。
営業案件の記事は、掲載したらお金がもらえますから、そういう記事が多くなります。
実際の取材の代わりにネットで情報を集め、それを記事にする、ということがほとんどになりました。
日本語よりも英語の方が得意
私はアニメにも、ゲームにも、アイドルにも興味がないので、そんなに日本のファンというわけではありませんでした。
20歳のときに、初めて友だちと日本に旅行に来ました。
近くて、行きやすいから、というのが理由です。
そのときに京都へ行って、京都がすごく好きになりました。
私は古い建築とか、歴史的なものが好きで。
それが大学2年生のときで、そのときから日本に少し興味を持つようになりました。
でも、日本語の勉強には興味がなかったです。
当時は、英語とフランス語を勉強していました。
英語は大学の専攻で、シェイクスピアなどの文学や、言語学などを総合的に学びました。
卒業後に博物館で働いた後、興味があった芸術系の大学院に入りなおしたのですが、そのときの指導教官はドイツ人だったので、マスター(修士)の論文は英語で書きました。
私は19世紀のヨーロッパの油絵が好きで。
論文ではギュスターヴ・カイユボット(Gustave Caillebotte,1848-1894)というフランスの画家の作品を分析しました。
日本語を学びはじめたきっかけ
日本語の勉強は、大学院に通っているときに、母に勧められて、はじめました。
台湾では、商学部以外の文系生には、給料の良い仕事を探すのはなかなか難しいです。
日本では、文系でも理系でも、スタート時点での給料はそんなに変わらないと思います。
でも台湾では、新卒のときからぜんぜん違って、IT系のほうがずっと高いです。
外国語も、英語と少しのフランス語ができるくらいでは、足りないです。
だから、もし日本語もできたら、選べる仕事が増えると思いました。
台湾には、日本語教室がいっぱいあります。
最初に通った日本語教室は、台湾人の先生が、中国語で日本語を教えるところでした。
次に通ったのは、日本人の先生が、最初から日本語だけで日本語を教えるところで、ここで私はどんどん日本語ができるようになりました。
それまでは、海外と言っても旅行だけで、そこで生活するとか、働くとかを真剣に考えたことはありませんでした。
でもこの教室に通うようになってから、そういうことに興味が出てきました。
日本は近いし、それに私はお茶が好きで、台湾茶の勉強もしていたので、日本にはお茶の文化もあるし……日本で生活するのもいいな、海外で就職するのもいいかも、と考えるようになりました。
母は、もともと日本語の勉強を勧めたくらいで、海外で良い仕事があるなら、行ったほうがいいという考えでした。
父にしてみれば……たぶん、娘はずっとそばにいるほうがいいでしょう(笑)。
でも、日本に行くことは、自分が独立するという意味でも、良いことだと思いました。
台湾にいたときは、実家から通勤していました。
洗濯や料理などの家事は、ぜんぶ母がやってくれていました。
だから、働いてはいても、独立、自立しているとは言えなかった。
実際に日本で就職してみて、給与や休暇などの福利厚生は、台湾よりも日本の方が良いと思います。
両親は心配していましたが、もう慣れたと思います。
父も母も、日本に遊びに来ました。
今はちょっと、コロナのことで、台湾のニュースでは毎日のように日本の厳しい状況を報道しているらしくて、すごく心配していますが……。
台湾と中国のこと
日本に来て初めて、中国本土から来た中国人の友人もできました。
台湾にいたときは、(中国本土の)中国人と、知り合う機会もなかったのです。
中国本土で働いている台湾人はたくさんいますが、台湾で働いている(中国本土の)中国人は、ほとんどいないのではと思います。
中国本土の中国語(共通語)と、台湾の中国語(共通語)は、まったく同じというわけではありませんが、通じます。
でも、育ってきた環境がぜんぜん違いますから、話していると、お互いにカルチャーショックを受けることもあります。
(中国本土の)中国人も、台湾人も、お互いのことをよく知りません。
だから、この交流は、とても新鮮に感じます。
私の両親は台湾で生まれました。
だから私は中国本土のことはあまり知りません。
祖父母とは別に暮らしていたので、話をきく機会もありませんでした。
私自身は、自分のことは「台湾人」だと思っています(*1)。
母方の祖母は、中国の浙江省から台湾に来たそうです。
母は中国語(共通語)と、台湾語(*2)を話します。
家族みんなで話すときは中国語で話しますが、父と母の間では、ときどき台湾語で話しています。
台北の実家の近所の人たちもみんなそんな感じで、おじいさん、おばあさんたちは、中国語も台湾語も話します。
父は客家(はっか)人なので、客家語も話します(*3)。
でも台北では客家語は通じないから、父は実家に帰ったときだけ、客家語を話します。
私は台湾語は少し話せますが、客家語は話せないです。
台北の地下鉄の車内アナウンスは、4種類の言葉でやるのを知っていますか?
中国語、台湾語、客家語、英語、でアナウンスをします。
*1 台湾の国立政治大学研究センターが毎年行っているアイデンティティー意識調査によると、自分を「台湾人」と認識する人の割合は全体の67%。
「台湾人であり中国人でもある」と考える人は27.5%。
「中国人」であると認識する人は2.4%。(2020年6月時点)
参照ブログ「ふぉるもさん・ぷろむなあど」
運営者 黒羽夏彦
http://formosanpromenade.blog.jp/archives/83346559.html
*2 台湾語 福建省南部に暮らしていた人々が話す閩南(ビンナン)語を源とした言語。
『「国語」から旅立って』温又柔著 新曜社 p24参照
*3 客家人 広東省から台湾に移住した漢族の一集団。独自の文化や言語を保持している。
『台湾の歴史と文化 六つの時代が織りなす「美麗島」』大東和重著 中公新書 p116 参照
努力しているのに、簡単に見えるのかな?
日本で外国人差別を感じたことは、もちろんあります。
3年前、日本に来たばかりの頃のことが、いちばん印象に残っています。
真夏で、台湾から友だちが遊びに来ていました。
すごく暑かったので、友だちはスーパーでアイスクリームを買いました。
すぐ溶けるので、彼女はスーパーのすみの空いているところで、立って食べていました。
飲食エリアがないスーパーで、ベンチがあるくらいのところです。
食べている途中で、車椅子に乗ったおじいさんが来て、彼女は大きな声で怒られました。
私たちが中国語でしゃべっていたので、おじいさんは「ここで食べるな、中国人!」、それからなにか、とても悪い言葉を言いました。
そのときはまだ、その日本語がわからなかったけど、それがとても悪い言葉、ということはわかりました。
それから、おじいさんは店員さんを呼んで、「あの中国人が!」と言いました。
店員さんはとても優しい人で、私たちに謝って、「すみません、ここで食べるのはちょっと、ご遠慮ください」と言いました。
私たちはすぐに外に出て、彼女は外の道路の、他の人の邪魔にならない端の方で、アイスクリームの残りを食べようとしました。
でも、そのおじいさんが、ついてきたのです。
それでまた、「中国人!」と、なにかすごく悪い言葉を言って。
結局友だちはアイスクリームは食べられなくて、私たちは駅のそばの、人がいっぱいいるところまで逃げました。
友だちは、今でもそのときのことを話します。
「西友スーパーだったよね」とか(笑)。
このおじいさんは、ちょっと、特殊なケースかもしれないけれど。
日本人は、東洋人より、欧米人と仲良くなりたい、という人が多いですよね?
もしも私が欧米人のような顔をしていたら、日本語がそれほど上手じゃなくても、日本人は優しく、ゆっくり話してくれると思います。
でも私だと、どうして日本語が上手じゃないの?という感じになります。
態度が厳しくなるし、たとえば日本語でうまく説明できないと、怒られることもあります。
欧米人が日本語を話せると、すごく褒められるけど、東洋人が日本語ぺらぺらでも、当然みたいに思われるでしょう?
努力しているのに、簡単に見えるのかな?
外国で、「外国人」として暮らすこと
台湾でも、外国人差別はあります。
台湾人には、東南アジアの人を下に見るような気持ちがあると思います。
台湾では、肉体労働の多くを、東南アジアからの出稼ぎの人がやっています。
だから、貧しい国の人たち、という偏見が最初にあって、そういう人たちとは友だちになりたくない、というような気持ちがある人が多いと思います。
たぶん、私の中にも、そういう気持ちはあったと思います。
でも、労働者だから悪い人、ということはないと思います。
本当の悪い人は、スーツを着ているかもしれませんよね。
偏見というのは、誰の心の中にもあります。
でもそれを取り払って、肌の色とか、外見とかに関係なく、人そのものを見られるようになりたい、というのが私の理想です。
私は仏教徒なので、皆が平等、という仏教の教えの影響もあると思います。
いろんな人と出会う環境にいたい、というのも、私が日本に来た理由のひとつでした。
台湾で暮らしているときは、まわりはみんな台湾人で、台湾人の考え方ばかりでした。
もっといろんな国の人がいるところに住みたいと考えていたので、東京はそういう意味でも良かったのです。
東京の日本語学校では、同じクラスのミャンマー人とスリランカ人と、初めて仲良くなりました。
職場にもタイ人とかマレーシア人とか、いろんな国の同僚がいます。
あのまま台北の実家にいたら、わからなかっただろうと思うことが、いっぱいあります。
外国で、「外国人」として暮らすことで、見えてくることがあります。
お茶に関わる仕事がしたい
私はお茶が好きで、将来的には、お茶に関わる仕事がしたいと思っています。
日本にいる間に、日本のお茶の業界全体のこと、お茶の農家のことや、販売のことなども、幅広く知りたいです。
そして台湾のお茶を、商品としてだけでなく、ライフスタイル、台湾の文化を伝えるものとして、紹介するような仕事ができたらいいなと思っています。
でも今は、とにかく、どこか就職先を見つけないと、日本にいられなくなります。
外国人の場合、まずは3ヶ月働いてみて、そのあと採用されるかどうか決まる、ということが多いのですが、私はあと2ヶ月ほどしか在留期間がないので、たとえ条件が合っても、在留期間のせいで難しい、ということもあります。
コロナのことで採用も少ないし、面接もオンラインになったり、厳しいことも多いですが、一応がんばってみようと思っています。
英語と中国語と日本語を使うような仕事を、今のところ考えています。
* * *
「外国人」として日本にいる乃毓さんの、このコロナ禍での就職活動、何重にもたいへんだったと思うのですが、彼女によるとコロナのことで在留資格が3ヶ月延びたのは、それなりに役に立ったそうです。
苦労もされたと思いますが、2020年6月に転職先が見つかり、8月に札幌へ移られました。
ただでさえ人と人が出会うのが難しいこんなときに、誰も知り合いのいない北海道へひとり引っ越すのは、さぞ不安だっただろうと思います。
台北育ちの彼女に、札幌の冬の寒さは、相当厳しいのではとも思っていました。
新しいお仕事と、札幌での暮らしについて、ふたたび乃毓さんにお話をきかせてもらいました。(追加のインタビューは2020年10月に東京でお会いしたときと、あとはLINEのメッセージのやり取りでおこないました。)
以下は、現在の乃毓さんの、北海道でのお話です。
(写真はすべて乃毓さんの撮影です)
* * *
転職して、東京から札幌へ
北海道へ移住するのは、人生のすごく大きな決断でした。
日本人の友だちも外国人の友だちも、たくさんできていた東京から、誰も知らない北海道へ引っ越すのですから。
でも、在留期間の期限が迫っていて(2020年8月時点)、新しい勤務先を早く決めないといけないので、日本に残りたいなら、行くしかなかったです。
だから、覚悟を持って行きました。
今は通信販売の関係の仕事をしています。
札幌に来て、会社に行ったのは、初日だけでした。
あとは、ずっとリモートワークになって。
上司や同僚たちとは、オンライン会議やオンライン飲み会でしゃべったことはありますが、実際に会ったことはほとんどないんです。
でも、いろいろなツールを活用しているので、業務に支障が出ることはなかったです。
上司は優しいです。
先輩たちも支えてくれて。
そういうかたちで働いていて、今はようやく慣れてきたところです。
札幌に引っ越して来て最も辛かったのは、「外国人」として、孤立している感じでした。
東京には外国の人が多いので、同じ立場でお互いに理解し合えるし、助け合える環境がありました。
地域のイベントに参加する機会もあって、私は毎年、地元の夏祭りの盆踊りイベントに参加していました。
日本人のおばさん、おじさんたちと一緒に、公園での飲食の屋台や、出店の手伝いなどのボランティアをするんです。
そういう活動を通して、日本での生活に溶け込めているように感じました。
でも札幌では、まだ日本に溶け込めているという感じはありません。
人生で初めての雪国の暮らし
本格的な冬がはじまる12月が、いちばん苦しかったです。
南国で育った私にとって、人生で初めての雪国の暮らしです。
札幌では12月中旬から、ほぼ毎日、気温は0度に届きませんでした。
寒さにまだ慣れていないので、体の血液循環が悪くて、買い物に出かけるのも辛かったです。
厳しい冬に絶望するような気持ちでいましたが、ある日、雪国の日常風景に驚きました。
建物の外で、プロパンガスの交換作業をしている人。
バイクに乗って配達をしている郵便局の人。
高齢者も、厳しい天候にも関わらず、日常生活のために普通に出かけていました。
そんな風景を見たら、すごく感動しました。
こんな厳しいところで暮らす人たちに、感心しました。
自分も勇気を出して、寒さを乗り越えようという気持ちになって、私も買い物や観光に出かけるようになりました。
初めて経験する北国の冬の暮らしには、新鮮なこともいろいろありました。
元旦の札幌はマイナス10度で、シェアハウスの1階の水道が凍結しました。
シャワーの水栓からシャワーホースに沿っていた水が、空気の中で凍っていたんですよ!
びっくりしました。
南国出身の私にとって、これはほんとうに不思議なことでした。
原因は、大晦日に水抜きをしていなかったので。
気温がマイナス4度に下がると、水道が凍結するらしいです。
勉強になりました。
厳しい冬の夜、楽しいことのひとつは、除雪車と排雪車を見ることでした。
除雪の日、夜はひっそりと静けさに包まれるものではなくて、逆に賑やかなものなんです。
それは、いろんな除雪車と排雪車からの音です。
初めて見るので、とても新鮮でした。
特に、「運搬排雪」作業はすごかったです!
ロータリー除雪車が、道路脇にたまった雪を道路の右側へ吹き出して、ダンプトラックに積み込みます。
私にとってこれらは札幌の冬の夜の、楽しい風物詩でした。
札幌で作る台湾のちまき
札幌でも、シェアハウスに暮らしています。
ハウスメートの台湾人、韓国人と仲良くなって、冬至には一緒に「湯圓(タンユェン)」(*1) を食べて、旧暦の大晦日には「団円飯」(*2) の「火鍋」(*3) をしました。
*1 湯圓(タンユェン) 白玉団子の入った温かいスイーツ。
*2 団円飯 旧暦の大晦日の夜に、家族みんなで集まって食べる食事のこと。
*3 火鍋 日本で「火鍋」というと辛い鍋のイメージですが、鍋料理全般のことを「火鍋」というそうです。この日は辛い鍋も、辛くない鍋もしたそうですよ。
最近、「料理達人」の友だちもできました。
同じ会社の20代の台湾人で、偶然知り合ったんです。
ふたりとも北海道初心者ですから、お互いに情報をシェアしています。
今年の端午の節句には、その友だちの誘いで、ちまきを一緒に作って食べました。
台湾の端午の節句は旧暦でやるので、日本と違って、6月になります。
台北の私の家では、毎年ちまきは買っていましたが、今回は彼女に教えてもらって、初めてちまきを手作りしました。
台湾のちまきは、大きく分けると北部のと南部のがあって、作り方も違います。
「北部ちまき」は、もち米をまず炒めます。それから具材と一緒に竹の皮に包んで、蒸します。
「南部ちまき」は、生のもち米と軽く炒めた具材を笹の葉っぱに包み、そのまま水に入れて煮ます。
「料理達人」の友だちは南部出身なので、彼女が実家で作っていた、南部のちまきの作り方を教えてくれました。
ちまきに使う笹の葉は、ネットで、日本産のを買いました。
これは、友だちの家のキッチンで撮った写真です。ちまきはこんなふうに、上からぶら下げて包みます。
この写真は、笹の葉で包んだちまきを煮ているところ。この炊飯器は台湾の炊飯器です。こんな感じで、ちまきを作るのにも使えます。
友だちはこの炊飯器を日本でも使いたいので、台湾から郵送で送ったそうです。
ちまきの中身は、もち米、落花生、栗、しいたけ、干しエビ、豚の角煮、鹹蛋(シェンダン:塩漬けのアヒルの卵の黄身)、紅葱頭(台湾エシャロット)です。
台湾では、端午の節句のために、みんなちまきをいっぱい作ります。
私の家ではちまきは買っていたけど、お隣りさんからもらったりもするから、
6月のこの時期はいつも、家にたくさんちまきがありました。
端午の節句の前後は、だいたい、ずっとちまきを食べていて。
「お弁当も、毎日ちまき」(笑)なんていうこともよくありました。
もう4年くらい、端午の節句を、台湾で過ごしていません。
だから、今のことはわからないですが。
ちょっと懐かしくなりますね。
北海道を楽しみたい
北海道には、雄大な自然があります。
さらに、海の幸、山の幸と、食材の宝庫で、それは幸せです!
スーパーはすごく広いですし、人口密度が低いですから、ゆっくり贅沢なショッピングも楽しめます。
せっかく北海道へ来たのですから、もっともっと好きになりたいです。
これからも、もっと良いところを見つけていきたいです。
* * *
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