錆びた“日本刀”
中国の男性は働き者
学校にしばらくお世話になっていたのですが、お互いに不便というか、先生たちにご迷惑なので、近くのヤオトンを一部屋グオ老師と一緒に借りることにしました。空き部屋はたくさんあるのですが、まず電気があって、水の調達ができ、暖房が可能で、机(らしきもの)とイスと布団があるところということで、学校から300mくらい下がったところにある楊老人のヤオトンを借りることにしました。
まずは砂だらけの部屋の掃除です。グオ老師が全部やってくれました。そして、たたけば埃となって消滅するのではないかというくらいの埃と脂汗にまみれたふとんを干して、シーツを洗いました。これは張老師がやってくれました。それから、水がめに水を備蓄しなければならないのですが、バケツを2つ担いで井戸まで往復することは、私には不可能なので、これも農村育ちの2人がやってくれました。カマドに石炭を入れて火を焚かなければならないのですが、これがとてもとてもシロウトには至難の技で、楊老人にお願いしました。電気はあるものの、コンセントがないので、器具を買って据え付けてくれたのは、隣のおじさんでした。まったく、中国の男性はよく働きます。
けっきょく私がやったことといえば、当面必要な食料品と茶碗、洗面器、トイレットペーパーと酒を買いに行っただけです。もちろん張老師が一緒でした。ですから、私の分担は、全部で40元(1元≒14円)のお金を払うことだけでした。
家賃は1ヶ月30元。500円に満たないわけですから、安いというよりも、この地の貧困を見るようで哀しくなりますが、それでも大家さんは思ってもいなかった臨時収入で大喜びで、あれこれ世話をやいてくれます。焚き付け用の柴も小さく切って用意してくれるし、さっきも大きなバオズを2個持ってきてくれました(日本ならこれだけで500円!)。
ひとつのカンで2人で寝るのはさすがにちょっと問題なので、グオ老師は当面は学校で寝ることになり、さきほど帰って行きました。現在9時半、村は寝静まってしんしんと夜は更け、時々犬の遠吠えがしじまを破ります。外はまだまだ氷点下。久しぶりにひとりになって、慣れない手つきで煙にむせながらカマドに薪をくべ、白酒(中国の雑穀焼酎)をチビチビやってます。 (2006-03-13)
学校給食
道具の揃っていないヤオトンで料理をするのは大変なので、食事はこれまで通り樊家山小学校のお世話になっています。この辺りの習慣に従って、食事は1日2回、午前9時半と午後4時半です。もともとが経済的理由で、3回もは食べられなかったということです。この地域は磧口などよりずっと貧しくて、本業の農業収入などなきに等しく、危険を承知で炭鉱に行くか、都市へ出稼ぎに行くしか“豊かな生活”をめざす道はありません。
私たちは7日の夕方に到着して以来、ずっとここの給食を食べているのですが、果たしてこんなもので育ち盛りの子供たちの栄養が足りるのだろうか?と首を傾げたくなるほどに質素な食事です。
朝の方が少しマシで、麺か白米に、白菜とじゃがいもと、さつまいもで作ったはるさめの様なものを一緒に炒めたものをかけて食べます。夕食は、マントウ(小麦粉を練ってふかしたもの)と、粟のおかゆか玉子スープ。ダシ、というものを使わないので、味付けは、塩、酢、とうがらしを自分で適当にかけて食べます。毎日毎日これだけです。量こそ好きなだけ食べられるものの、肉や豆腐、緑の野菜、まして果物などにはこれまで一度もお目にかかったことはありません。もちろん先生たちも同じものを食べています。
「日本から来た人にこんなもの食べられますか?」と校長先生が心配してくれるので、「おいしいですよ」といわざるを得ませんが、正直いって、おいしくありません。
給食費は1日2元、つまり30円以下です。飽食の日本を例にあげるまでもなく、中国のちょっとした都会の至るところに存在するケンタッキーでセットを頼んで20元、スタバ(これは大都会にしかない)で一番安いコーヒーを飲んでも12元。大都会の餐店に行けば、見栄を張って料理を残すくらい注文するのが中華式で、日々山のようなごちそうが残飯となってブタ小屋へ直行し、黄土高原の子供たちはブタの餌よりはるかに劣る粗末な食事しかできないのです。
私の部屋に昨年学生たちが持ってきたカレールーがたくさん残っているので、今度、子供たちに食べてもらうために“日本の味”と称して、ブタ肉のたっぷり入ったカレーを、私が指導し、料理好きのグオ老師に作ってもらうつもりでいます。 (2006-03-27)
錆びた‶日本刀″ 樊家山に最初に行ったのは3月7日でした。それから1週間経った頃、少し山を下りたところにある段家塔という村で「晋劇」の公演があるというので、グオ老師と一緒に観に行きました。私たちから観れば「京劇」と区別はつかないのですが、山西地方の伝統的なお芝居です。
樊家山からは小1時間歩くのですが、どうやら村人たちはオート三輪やトラックに乗り合わせて集まってくるようでした。他に娯楽もないところですから、前々から楽しみにしていたのでしょう、立派な舞台が設えられ、小さな屋台も出て、みんなワクワク幕が開くのを待っているようです。といっても、観客のほとんどが老人で、それもそのはず、もともとこの辺りには若い人たちなどいないのです。
それでも、近隣の町に出稼ぎに出ている人たちは、これを機に帰って来て、家族や友人たちと旧交を温めるというのが習慣で、実際に舞台を観ている人というのは、実は多くはなく、もったいないなぁと思ってしまいます。
しかし例によって中国時間で、いっかな始まりそうにないので、ふたりで近くをブラブラしてみることにしました。かなり古そうな家があったのでのぞいてみると、中庭に石を敷き詰めた伝統的な四合院住宅で、庭にいた家人と雑談をしていると、突然彼は、その家に戦時中日本人が住んでいたというのです。
「日本軍が来た」、というのはどこででも耳にするのですが、村に「住んでいた」というのは初めて聞きます。私はびっくりして、よくよく聞いてみたのですが、日本人ではなく、日本軍に協力した中国人、つまり中国語でいう“漢奸”、村人が俗にいう“金皮隊”のことでした。彼は続けて、近くの家に金皮隊が残していった“日本刀”が保管してある、というのです。
ロクナモンではないと思いつつも好奇心には勝てず、その家に行って見せてもらうことにしました。おばあちゃんが大事そうにタンスの奥から出してきた古布に包まれた一振りの刀剣は、その刃の反り具合や鍔の形が、私がこれまで見たことがある日本刀やサーベルとは明らかに異なっています。なんだかとても“安っぽい”感じがしたし、グオ老師もきっと中国製だろうといいました。
恐らくは、イヤきっと中国人の血をたっぷりと吸って、赤茶色に錆ついているその刀が、どうやら日本製ではなかったということに、私はなんだか力が抜けてホッとため息をつき、おばあちゃんはあたかも骨董品の価値が下がったかのように、ちょっとガッカリしたような表情を見せました。
(2006-04-15)
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