物語るAI?
小学生の頃、よく絵本とか物語本を、チラシの裏や画用紙で作っていた。
今も根本的にやってることは変わってなくて、人って全然変わらないし、変えたがらないなあとよく思う。
昔私は、本を読むのがあまり好きではなかった。読書感想文の宿題で、本を最後まで読まずに、つづきの物語を勝手に創作して、感想文を書いたことがあった。それくらい頭の中で何かを生み出すことのほうが、本を読むよりも楽しかったし、楽だった。
私はどうして創作するんだろう。
自分の承認欲求のため、それが理由の8割ほど占めていると、つい最近まで思っていた。もちろん承認欲求も含まれているが、理由のほとんどを占めているのは「ただ楽しいから」だと気がついた。
どうして創作するんだろう。ではなく、どうして創作してしまうんだろう。のほうがしっくりくる。誰に強制されなくとも、創作活動をしてしまう。好きなことがあれば、好きなことの方に自分の足が既に向いてるのと一緒だ。誰かに褒めてもらわなくても、続けてしまう。
人は物語る生き物。
これは脳科学研究でも言われていることらしい。言語が生まれる前から人はパントマイムで物語を作り、コミュニケーションをとっていた。本能的に備わっているのなら、ついつい私が物語ってしまうのも納得だ。喜んだり悲しんだり、怒ったり恨んだり、様々な感情は物語による意味付けがあるからこそ生まれるものだと、本で読んだ。つまりやっぱり、人の意識がすべてで、意識が現実を作っている。自分の物語の作り方次第で、現実は思っているよりもずっと自由自在にコントロールできるような気がする。
好きな小説「すべてがFになる:森博嗣」の台詞で
「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」
という言葉がある。小説を読んだ当時は「え?現実は幻想!?…そうなのかなぁ」と少し困惑しながら理解したつもりでいたけど、これもようやく、最近になって意味を回収できたように思う。
私は今まで、人生でどんな選択をしても、それは自分が選んだことなのだから仕方ない、と思ってきた。しかし、最近は、自分のことでさえ、というか自分のことほど、いくら考えても理由がわからないことがとても多いことに気がついた。
私はもしかして選択肢を選んでないかも。と考えるようになった。
実際、自由意志の脳の実験では、脳の活動は、意図決定の瞬間より、0.3秒前に発生しているらしい。自分が立ち上がろうと思う前に、脳が先に「立ち上がれ」と命令していることになる。自分が決めたことだと思っていても、実際は脳の命令に従って、ただ動いているだけの可能性があるのだ。自分がロボットみたいな存在かもしれないと思うとワクワクして興奮がとまらなくなる。このことについて書き出すと脱線どころか、文章が爆発してしまいそうなので、今はこのへんにしておこう。
そうなると、なんとなくや、直感、無意識的に動く行動が、本能的であり、時には自分にとっての正解なのかもしれない。
創造性を育むには無意識がかかせない。何かひらめくときは、ぼーっとして意識がふわふわとどこかへ遊びに行ってるときだったりする。私は昔からぼーっとしている子供だった。すぐ窓の外をみて、空想にふけり、幼稚園児の頃はイマジナリーフレンドも存在した。
大人になった今でも結構ぼーっとしているが、子供のときより、意識的に制限をかけてしまう自分がいるせいで、創造性は少し減ったように感じる。成長するほどに色々な思い込みや概念が作られてしまって、なかなか枠から飛び出せない。今こそもう一度イマジナリーフレンドが登場してほしいと思うが、この歳で現れたら精神疾患でも疑われてしまうのだろうか。
そんな心配事を考えているうちは、爆発的なものを生み出すことは決してないんだろうなと、俯瞰した私が私を見下ろしている。
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