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古代イタリア文明エトルリアは、なぜ12の都市で連盟をくんだのか

古代ローマ以前、中部イタリアでは、エトルリア人による文明が繁栄していました。エトルリア人(エトルスキ)は、統一国家を築くことはなく、12都市連盟と呼ばれるゆるやかな連合を形成していました。それは、政治、軍事目的でつくられたわけではなく、宗教祭祀を共同で行うことにより、同一民族への帰属を表明するものでした。

この連盟ですが、エトルリア社会で、たまたま重要な都市が「12」個であったため、12の都市で連合を組んだのでしょうか。例えば、国際連合は1945年51か国の加盟国で設立され、現在の加盟国数は193か国と増え続けていますが、エトルリア文明も古代ローマに滅ぼされることがなければ、連盟を組む都市の数が増え続けたのでしょうか。

エトルリア人が連合を組んだ「12」という都市の数は、私達の生活の中でもよく使用されています。

1年は12カ月、午前と午後はそれぞれ12時間。星座は、12個の月に対応するよう12個あり、ギリシア神話のオリュンポスの神々も12神です。また東洋の干支も12支あります。

どうやらエトルリア人は、この「12」という数字に特別な意味を感じ取り、12都市で連盟を組んだでいたようです。

イタリア中部でエトルリア文明が栄えていたころ、イタリア南部の古代ギリシア植民都市クロトンでは、哲学者、数学者であるピタゴラス(紀元前582年-紀元前496年)が教団を組織し、活躍していました。ピタゴラスは、数を万物の根源と考え、整数自体を神のように信仰しており、1~10の数字に意味をつけ、また10を完全で神聖な数と考えていました。

ピタゴラスの弟子には、たくさんのエトルリア人がいたと言われていますが、同様の考え方は、エトルリアのルクモーネスと呼ばれた宗教、政治の権力者の間で管理されていた神聖な科学の書である「エトルリアの教義」の中にもみることができたようです。また、エトルリア人は歴史上での自分達の存在期間が10世紀であると信じていたことからも、数秘術に深い興味を持っていたことが窺えます。

しかしながら、残念なことに、「エトルリアの教義」についての書物は、ローマ時代、またその後のキリスト教の時代を経て、何も残っていません。ただ、モニュメントや遺跡は今でも残っており、エトルリア人がいかに数の象徴性を重視していたことが見てとれるのです。

この巨岩は、裏側から登ることができました

ボルセーナ湖の南東ボマルツォの町の程近くの森の中には、火山由来の巨石がゴロゴロと点在しています。

その中のいくつかは、古代エトルリア時代に手が加えられ、祭壇として使われていました。この高さ4mほど巨岩は、前面の9段の階段を上ると、遠くアペニン山脈まで見渡せます。頂上には、エトルリアの三神、ティニア(ギリシア神話ではゼウス、ローマ神話ではユピテルに相応)、ウニ(同、ヘラとユノ)メネルヴァ(同、アテナとミネルヴァ)に捧げられたと思われる祭壇があります。これらの祭壇で、天上を観察したり、卜占官と呼ばれる祭司が、鳥の飛び方や鳴き声などから神意を窺っていたようです。

この祭壇から数メートルのところには、立方体の巨石があります。この巨石には、エトルリア人が数の象徴性および空間の正確な方角を重要視していたことがわかる跡が、はっきりと残っています。

台の上に置かれたように彫られた立方体の4つの側面には、まるで3段のブロックが積み上げられたかのように、表面にはラインが刻み込まれています。特徴的なのは上面で、中心には北西、南東、北東、南西を向いた十字が刻まれています。エトルリアでは、東西南北の四方位より、この間の方角が重要視されていたそうです。また同じく上面の4つの角には、3つずつ丸い穴が彫られていて、全部で12個あります。

立方体の上面
2mほどの高さで、私はよじのぼることができませんでしたが、
一緒に行った友達が登ってくれ写真を撮ってくれました。

エトルリア人は都市の建設においても、この巨石に刻まれた十字や穴のように、空間の分割を数学的、幾何学的に行っていました。まず最初に、卜占官と呼ばれる祭司が、天上の四方位を観察し神意を伺い、次に、地上に直角に交わる道路を2本ひき、都市を4分割します。イタリア語で現在、都市の区域のことを "quartiere" (英語ではquarter)と言いますが、それは数字の4(quattro)からきています。さらに、それぞれの区域に3つの部族が定住しました。部族はイタリア語で "tribu"ですが、それは数字の3(tre)に由来しています。このようにして、合計12の部族から一つの都市は成り立っていたことになります。この都市の建設方法は、古代ローマに受け継がれていきます。

そして、このシステムが、都市の建設だけではなく、国家の設立においても使われたのです。

エトルリアの都市は、重要な都市が増えたからといって、12都市連盟が13都市連盟になることはなく、分割する上で神聖であった数字12の都市で連盟を組んでいたのです。

そして、実際、エトルリア人は、領土を北イタリア、南イタリアにも拡大しますが、北イタリアのエトルリア人は北イタリアで、南イタリアのエトルリア人は南イタリアでそれぞれ12都市連盟を結成し、中央イタリアの12都市連盟の加盟都市がどんどんと増えるということはありませんでした。

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参考文献:IL TEMPIO DI VOLTUMNA, Giovanni Feo, Stampa Alternativa/Nuovi Equilibri 2009

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