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ヴェネツィアの富と権力の象徴、黄金のサン・マルコ寺院を飾るのは?
現在でも、島の入り口までしか、自動車で乗り入れることはできず、移動は歩くか船となる海の都ヴェネツィアの町。170の小さな島々は、橋で結ばれ、縦横に走る細い運河には、黒いゴンドラが行き交います。
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ヴェネツィアの歴史は、5世紀に北イタリアの住民が、蛮族の侵攻から逃れ、ラグーナ(潟)の湿地帯に住み着いたことから始まりました。当初は東ローマ帝国の支配下にあったものの、697年には、初代総督(ドージェ)を選出してヴェネツィア共和国が生まれ、それから、1797年にナポレオンに侵略され崩壊するまでの1000年以上もの間、狭い領土ながらも、海上貿易により栄え、アドリア海の女王として名を馳せました。
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そのヴェネツィアの富と権力を象徴するのが、黄金に輝くサン・マルコ寺院。東ローマ帝国の首都、コンスタンティノープルで2番目に大きく皇帝の霊廟として使われていた聖使徒大聖堂(現存せず)を模してつくられたビザンチン建築の代表です。地盤の悪い干潟に建てられているため、高さ(中心のクーポラで43m)による重量にバランスがとれるよう横幅(翼廊部分で62.60m)が広くどっしりとした構えです。
サン・マルコ寺院には、新約聖書の「マルコによる福音書」の著者とされ、エジプトのアレクサンドリアの教会の創健者であった聖マルコの聖遺物が収められています。聖マルコは、いつどのようにして亡くなったか、正確には伝わっていませんが、1世紀後半にアレクサンドリアで殉教し、埋葬されたと考えられていました。
時は、828年。押しかけてくる蛮族を追い返すことに成功していたヴェネツィア共和国の総督(ドージェ)は、国家のアイデンティティをさらに強めることができる何かを必要としていました。そこで、思いついたのが、アラブ人に侵略されたアレクサンドリアに取り残されたままになっていた聖マルコの遺体。ドージェは二人の商人に、この聖遺物をヴェネツィアに盗み帰るよう命じます。そこで、ヴェネツィア商人は一案を講じます。なんと、遺体を豚肉のカゴの底に隠したのでした。ご存知の通り、イスラム教徒にとって豚肉は忌まわしきもの。アレクサンドリアの港にて、豚肉で覆われた荷物を一目見た税関の役人は、聖遺物が隠されているとは知らずに、顔をしかめ、中身をチェックすることなく通してくれたという伝説が残ります。
このようにして、ベネツィアに持って来られた聖マルコの聖遺物を納めるために建設されたのがサン・マルコ寺院なのです。現在の建物は、火災などのため、何度か建て直された後、1063年に建設が始まり、1094年に奉納されたものです。
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聖マルコの聖遺物がサン・マルコ寺院に運ばれてくる様子が描かれている。
この一番左の扉の上のモザイクのみ1200年代のオリジナル。
損害を受けた他の3つは、17世紀と19世紀に同じテーマで作り直されたもの。
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そして、モザイクを囲むレリーフ一番左下には、松葉杖をつき、指を噛んでいる老人の姿が。
これには、世界中で一番美しい教会をつくってほしいとドージェに依頼された建築家が、
できあがったら自分の彫像を教会内に飾ってほしいとドージェに頼んでいたが
理想の高いドージェは出来栄えに納得せず、彼の彫像を飾ることはなかったので
腹癒せに自分の姿をレリーフに残したというエピソードがある。
そして、聖マルコは、それまでのギリシャ系の聖テオドーロにとってかわり、ヴェネツィアの守護聖人となり、東ローマ帝国からは独立した、ヴェネツィア人独自の愛国と宗教のシンボルとなりました。ヴェネツィアでよく見かけるこの聖書を持った有翼のライオンは、聖マルコのシンボルで、ヴェネツィアの旗や紋章にも使われています。
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女性は、航海に旅だった夫や息子の無事の帰還を聖マルコに祈り、商人や兵士は、聖マルコの名のもとに、東方より、柱、帯状装飾(フリーズ)、大理石、彫刻などを戦利品として持ち帰り、サン・マルコ寺院を装飾していったのです。
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特に1204年の第4次十字軍中に行われたコンスタンティノープルの略奪により、寺院の宝物はさらに豊かになりました。中でも有名なのが、ファサードに飾られている4頭の馬(現在はレプリカ)です。1頭850㎏もする、この青銅の馬は、動かない足でとても長い旅をしています。生まれは非常に古く、紀元前300年頃のヘレニズム時代にロードス島で製作され、まずデルフィに送られました。その後、古代ローマがギリシアを征服した際に、ローマに持って行かれ、次いで、コスタンティヌス帝の時代に、ローマからコンスタンティノープルの競技場に送られ、そして、先に述べたコンスタンティノープルの略奪の際に、やっと、ヴェネツィアに連れていかれました。そして、この馬の旅は、ここで終わったわけではないのです。その後、ナポレオンがパリに連れていき、ヴェネツィアに戻ったと思うと、第一次世界大戦の最前線がイタリア北東で崩壊した時は、ローマまで避難したのです。波瀾万丈な運命をたどったこの4頭の馬ですが、1頭がひずめを失くした以外は傷つくことなく、現在はサン・マルコ寺院内の博物館に展示されています。
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こちらも東方より戦利品として持ち帰られたものだが、何世紀にもわたり
ヴェネツィア共和国は、いくつもの戦争に関わってきたため、略奪品もたくさん貯めこみ、
価値のある角柱だとはわかっていたが、教会内、ファサードには適当な場所がみつからず、
現在の意味のないと思われるこの場所に13世紀ごろより置かれている。
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1204年のコンスタンティノープルからの略奪品。
3世紀末の作品で、ディオクレティアヌスによって導入されたテトラルキア
(帝国を東西に2分し、さらに、それぞれ皇帝、副帝とに2分され
計4人で広大な土地を統治すること)の4人を表している。
庶民の間では、サン・マルコ寺院の宝を盗もうとした泥棒が聖マルコによって
石にされ、壁にはめ込まれたと信じられていたことも!
そして、教会内部は、黄金のモザイクで飾られています。
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また、ミラノやフィレンツェの一番大きな教会が大聖堂(Duomo)と呼ばれるのに対し、ヴェネツィアのこの教会が単に寺院(Basilica)と呼ばれるのは、1807年にナポレオンによって変更されるまで、大聖堂、つまりカトリック教会の司教座聖堂ではなく、共和国総督(ドージェ)の礼拝堂であったからです。ヴェネツィア共和国においての最高の権威はドージェであり、ローマのカトリック教会からは政治的に独立していたことを象徴していました。
イタリア本土では、中世の長い眠りについているか、皇帝派と教皇派が戦い合っている間、ヴェネツィア共和国は、海を征服し、東方との商売で大きな富を得ていたのです。(ミラノの大聖堂の建築は1386年に始まり、フィレンツェの大聖堂は1296年に始まっているが、先に述べたようにサン・マルコ寺院の建築はすでに1063年に始まっている。)
しかしながら、現在のヴェネツィアは押し寄せる観光客の多さに押しつぶされそうになっています。(住民が移動手段として使う水上バス、ヴァポレットは毎日9万人のスーツケースを持った観光客でいっぱいである。)あいさつ程度のイタリア語を話すこともなく、来て、スマホ越しに見て、SNSにアップするための写真を撮って、帰って行く表面的な観光客です。彼らは、ヴェネツィアをまるでディズニーランドのようなテーマパークのようにしか考えていません。でも、ヴェネツィアには、今でも生活をしている住民がいることを忘れてはいけません。(毎年1200人の住民がヴェネツィアの島から離れていっており、住民5万人弱に対し、8万人以上の旅行客を受け入れることができるホテルやAirbnbなどのベッド数がある。)このまま行けば、ヴェネツィアは、歴史も伝統も社会性もない中身が空っぽの抜け殻となってしまいます。経済をインバウンドに頼ることの危険性をヴェネツィアは教えてくれています。
参考文献:
Grandi Peccatori Grandi Cattedrali, Cesare Marchi, Rizzoli, 1994
San Marco Per Sempre, Alvise Zorzi, Mondadori, 1999
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