ヴィテルボに残るFAVLの頭文字とエトルリアの聖域ファヌム・ウォルトゥムネ
中部イタリア、ローマと同じラッツィオ州にある都市ヴィテルボは、中世の街並みが残る「ローマ教皇の町」として知られています。それは、1257年にローマ教皇アレクサンデル4世が、教皇派と皇帝派が争っていたローマから、ヴィテルボにローマ教皇庁を移したことによります。それから、28年間ローマ教皇庁はヴィテルボにあり続け、またその後も数々のローマ教皇や枢機卿が滞在したヴィテルボは、中世の時代とても繁栄しました。
教皇選挙を表す「コンクラーベ」と言う言葉も、まさにこのヴィテルボで生まれました。コンクラーベとはラテン語の"cum clavi"から来ており、「鍵がかけられた」という意味です。それは、1268年にクレメンス4世が亡くなってから20カ月近くも次の教皇が選出されず、堪忍袋の緒をきらしたヴィテルボの住人が選挙権を有する枢機卿を大広間に集め、扉の鍵をかけ閉じ込めて、パンと水だけを与え、しかも屋根まではがし風雨にさらされた状態に置き、次の教皇を早急に選ぶよう迫ったエピソードによります。このヴィテルボで行われた歴史上初のコンクラーベが、今でも史上一番長く1006日間もかかりました。
その美しい中世の街並みが残るヴィテルボですが、町を散策していると丸い円に十字が刻まれ、その一つ一つにFAVLというアルファベットが入れられたマークをよく目にします。
ラテンアルファベットでは、もともと「U」と「V」は同じ文字として扱われ、特に彫刻や碑文では「V」のみが使われますが、このFAVLの「V」も「U」ととったFAULという言葉は、門や通りの名前としてもヴィテルボに残っています。
それでは、このFAULという文字は何を意味しているのでしょうか。色々な説があるようですが、どれもエトルリア文明と深い関わりがあるようです。
ある説によると、FAULは、エトルリアの四つの地域Ferento、Axia、Urcla、Lusernaの頭文字だと言います。どこもヴィテルボ近くに位置しました。Ferentoは、ローマ時代から中世まで存続し、町の遺跡が今でも残ります。一方、他の地域はエトルリア時代のネクロポリスが残るのみで、Axiaは現在Castel d’Asso、UrclaはNorchia、LusernaはCivita Musarnaと呼ばれています。
または、単純に、FAVLは、FAnum VLtumnae、つまりエトルリアの最高神ウォルトゥムナの聖域ファヌム・ウォルトゥムネの略であるとも言われます。
そして、ヴィテルボのプリオリ宮殿の王の間には、FAVLを表した地図の壁画が描かれています。
このフレスコ画は、ルネッサンス期の15世紀にBaldassarre Croceによって描かれました。
FAVLを表す4つの町、ここではFanum、Arbanum、Vetulonia、Longulaが描かれており、エトルリアのLartes(12の都市をまとめる任期が一年の指導者)と各都市の代表である12人のルクモネスがそれぞれ一人護衛官を連れ、ファヌム・ウォルトゥムネにて、エトルリアの共同体全体のために、宗教的な儀式を厳粛に執り行っているとラテン語で説明が書かれています。
毎年、エトルリアの12都市の代表者たちが集まり、民族的一体性を強めるために、共同で祭祀を行ったと言われるファヌム・ウォルトゥムネ(ウォルトゥムナ神に捧げられた聖域)は、ヴォルシニイにあったことがわかっているだけであって、現在、正確にどこに存在したか分からないと言われています。そのファヌム・ウォルトゥムネが、このフレスコ画では、単なる神殿ではなく4つの都市に守られた聖なる森であったことがわかるのです。
この聖なる森の場所は、現在のバニョレッジョ、フェレント、ボマルツォの辺りのオークの木や栗の木の落葉広葉樹の森と考えられます。
さらに、エトルリアの12の都市の一つであったヴォルシニイの位置は、現在のオルヴィエートかボルセーナかと歴史家によって意見がわかれますが、ここではボルセーナ湖のほとり、現在のボルセーナの位置に描かれています。
これらのフレスコ画は、ドミニコ会修道士であったAnnio da Viterbo(1437年-1502年)が書いたヴィテルボの起源を元に描かれています。
アンニオ・ダ・ヴィテルボは、ローマ教皇シクストゥス4世やアレクサンデル6世には、大変評価されていましたが、実は、現在、偽書制作者として知られています。アンニオの思想は、ギリシャ哲学やプラトニズムの伝統を無視し、聖書のモーセやアダムに由来する知恵を強調するもので、エトルリア人を「Prisca Theologia」(古代の神学)の伝承者とみなし、彼らがノアの子孫であり、洪水後の世界で神聖な知識を伝えた重要な民族であると主張しました。また、エトルリア人の宗教的な儀式や占い術がローマの宗教制度に取り入れられたことをもって、エトルリア人の偉大さを裏付けようとしました。その偉大なエトルリアで一番重要であった聖域を自分の出身地であるヴィテルボと結びつけための偽りの話を書いたと言われているのです。
ただ、ヴィテルボ周辺の森からは、ルクモネスが集まり儀式を行っていたのではないかと思われる地下施設がみつかり、その中の一つには、壁に13の椅子(12都市を代表するルクモネスと彼らを1年間の任期で率いるラルテス用)のような窪みが彫られていたため、アンニオ・ダ・ヴィテルボの記述の全てが偽りではないようです。(この場所は、整備されているわけではなく、深い森の中なので、個人で探しに行くのは難しそうです)
また、近代的地図製作の創始者として知られているアブラハム・オルテリウスよって1584年に描かれた地図には、ヴィテルボの位置に、ラテン語で "Viterbum quod est Volturna Fanum"「ヴィテルボ、それはヴォルトゥムナの聖域である」と書かれています。
さらに、ヴィテルボには、Volturnoの名前が入る通りvia s.Maria in Volturnoがあるのです。この通りの名前は、1900年代半ばまでこの場所に存在した修道院S.Maria in Volturnoに由来します。この修道院は、1400年代までFerentoの丘に位置していたのですが、山賊の襲来を恐れた修道女たちが助けを求め、ヴィテルボ城壁内のこの地が与えられました。ということは、FerentoがVoltrunoと深い関わりがあったということがわかります。
やや混乱してきましたが、それは、何よりもエトルリアの宗教や最高神についての文献は、ローマ時代、そしてその後のキリスト教の時代に破壊され続け、ほぼ何も残っておらず、今となっては、とても謎につつまれていることによります。
12人のルクモネスが毎年集まったというエトルリアの最高神の聖域と信じられているFanum Voltumnaeも、私たちが知っているのはラテン語の文献からだけで、エトルリア語では実際どのように呼ばれていたかもわかりません。
そして、Voltumnaというラテン語訳された神の名は、Aで終わるためラテン語の法則により、女神であったと考える方が普通ですが、現在では、最高神であったということで男神であったと考えられており、そのようにイタリア語版のWikipediaにも書かれています。(ちなみにエトルリア語には母音「O」はありませんでした。)イタリアにおけるエトルリア研究の第一人者は、Voltumnaは、両性具有であったのではないかとも記しています。
しかし、私は、ケルト神話やエジプト神話などの他の古代文明と同じくエトルリアも太陽や空の神である男神と、大地や水、月の神である女神のカップルがエトルリアの最高神であったであろうというGiovanni Feo氏の意見に賛同しています。色々な呼び名があったであろう、その女神の名の一つがラテン語でVoltumnaであったと。そして、その女神が男神と同等かそれ以上に権威があったと。だからこそ、名前も残らないほどに記憶が掻き消されたのではないかと。
ヴィテルボにたくさん残るFAVLのマークは何を意味したのか、毎年ルクモネスが集まったファヌム・ウォルトゥムネと言われる聖域がどこにあったのかの正確な答えを出すことはできませんが、水源であるボルセーナ湖やヴィテルボの近くの森の中は非常に重要な聖域であったことは間違いないように思われます。
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参考文献:
Il tempio di Voltumna / Giovanni Feo / Stampa Alternativa 2009 Viterbo
Gli Etruschi e la Prisca Teologia in Annio da Viterbo/ WALTER E . STEPHENS
Università di Washington Seattle, Washington USA
そして、偽書製作者と烙印を押されたアンニオ・ダ・ヴィテルボですが、その著書の中には、かなりの真実が含まれているのではないかとも思います。また、いつかじっくりと読み、記事にできればと思います。