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エトルリアの女性「夫婦の陶棺」

知的で優しい笑みを浮かべ、守るように女性の肩に、そっと手を回す男性。

これは、ローマの北西、海の近くにあったエトルリアの都市チェルヴェーテリのネクロポリス、バンディタッチャ遺跡から1881年に出土した「Il Sarcofago degli Sposi(夫婦の陶棺)」です。

発見当時400の破片に壊れていたのを、現在、納められているヴィラ・ジュリア国立博物館の創設者が、並外れた美しさを直観し買い取りました。

紀元前530年から520年のものとされ、当時は鮮やかな色が施されていました。一度に塑造されていますが、焼きの間の損傷をさけるため、真ん中で二つに切られています。

古代エトルリア社会での祝宴の様子を表わした棺の蓋。半身を横たえ、手には杯などを持っていました。あの世でも寄り添う美しい夫婦の姿。

1つの統一国家をつくることなくDodecapoli(ドデカーポリ)と呼ばれた12都市連盟を組んでいたエトルリアの政治制度は、ギリシャの政治制度ととても似ていました。

しかし、この時代、ギリシャやローマでは、夫人が宴席に同席することは、絶えてなかったし、女性が公衆の前に出ることもありませんでした。

ギリシャ社会では、宴席にはべったり男性の相手をつとめた女性は、ヘタイラと呼ばれる高級娼婦であって、ギリシャ世界でも、共和制ローマ世界でも、女性は家の奥深くひっそりと引きこもり、男性の陰になって暮していたのです。

一方、エトルリア婦人が、高い地位を占めていたことは、この陶棺のみならず多くの壁画や碑文が語っています。

でも何故エトルリアの女性は、古代世界にあって他の民族よりも一歩進んだむしろ近代社会の家族構成を思わす高い社会的地位にあったのでしょうか。

女性の地位は、その社会が形成されるまでの何千年もの間、どのようにして農業が発展していったか、そして、それにともない、どのようにして人間が自然に対する考え方をかえていったかに由来します。

その昔、自然は人間が絶対服従しなければならない相手でした。生きていくために必要な穀物やフルーツをもたらす母なる大地。

新しい命を授ける女性は、そんな母なる大地と同一視されていました。

ところが、農業の発展により、人間は自然をコントールできるかのように思い始めます。金属の技術革新も人間を優位に立たせました。そして、女性が子どもを産むのも、男性が命を吹き込むからだとわかりました。

そこで、特にインド・ヨーロッパ語族、すなわちギリシャにおいて、家父長制社会が優位にたったのです。そして女性は引きこもり、生まれた時は父親の、結婚すると夫の所有物となりました。

だから、当時のギリシャ人の感覚では、女性に高い地位を与えつづけているエトルリアは、遅れた社会であったのです。実際、古代ギリシャ人やローマ人は、エトルリア婦人は不道徳であると憎悪と軽蔑を浴びせかけました。

エトルリアの遺跡からは、ギリシャ製の壺がたくさんみつかっています。当時でも輸出入は盛んでエトルリア文化とギリシャ文化は、交流しあっていました。

それでも、女性の地位をさげることなく自然を敬いつづけたエトルリア人。エトルリアの男性は、戦闘的な強さではなく知性で勝負したことが、この「夫婦の陶棺」の男性の表情に表れているようにも見えます。

「夫婦の陶棺」が納められているヴィラ・ジュリア国立博物館は
ローマのボルゲーゼ公園の北西、テルミニ駅から3km強。
ルネサンス末期 ローマ法王ユリウス三世ために郊外の別荘として建てられたものです。

ヴィラ・ジュリア国立博物館(2022年6月現在)
入館料 10ユーロ
(第一日曜日は無料!)
休館日 月曜日、1月1日、12月25日
開館時間 9:00~20:00
チケット売り場は19時に閉まります。

参考文献
PierLuigi Albini, L'Etruria delle Donne, Ronciglione, 2000
Piero Barcellini, Belvedere L'Arte Etrusca, Firenze, 1958
Jacques Heurgon, Vita Quotidiana degli Etruschi, Milano, 1963
金倉英一, エトルリア・ローマ・ポンペイ, 新潮社, 1970

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Natsuko Tomi
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