他者の不寛容さに寛容になれていない自分に気付いたっていう呟き。
20代までのボクは、世の中の理不尽さ、不条理、不平等、不公平、自身を襲う不遇、など、それらに対する「怒り」をエネルギーに生きてきたと思ってる。
こんばんは、ナツキのパパです。
どのような事かを事例を問われたら熱を込めて話せるエピソードトークが沢山あるし、今も身の回りにも満ち溢れている。
でも、最近になって、それらの「怒り」の感情を持つ自分に対して、別の表現が出来るよになった。
当時ずっと感じながら生きてきたそれらの怒りは、他の人が滅多に遭遇しない不遇な出来事への遭遇率の高さ(話を聞いた人は皆納得してくれる)や、多くの人が享受しているのに自分は得られない事が多いなど、「他者と比較しての不満」ばかりで、自身が思う不道徳や、不理解への怒りでもある。
殆どが卑屈な願望で、「受動的」でもあって、またそれらは世の中にある、「不寛容さへの怒り」でもあった。
でも、深く内省する大きな機会があって少しだけ俯瞰できるよになった今は、自分で自分を振り返ってみても、思う。
不寛容な社会に対して寛容であれない自分、世の中や他者の不寛容さを受容できていなかった不寛容な自分がそこにいて、それが自分を苦しめていたのだと思えるようになった。
自分を苦しめてたのは、自分だった。
もちろんこれまでの人生の中で、それらの事を指摘してくれた人や言葉にはきっといっぱい出会ってた筈だけど、、別に耳を塞いできたつもりも無かったけれど、腹落ちしてなかった。
頭では理解できてるつもりで、それでも譲れない部分だと思ってきた。
だってその怒りをエネルギーにすることで生きてきたから。
自分は、その怒りを原動力にする事で何とか生きてきたのに、それを否定することは、自分の人生を否定するようで難しかったから。
頭では分かっていても、いや分かったつもりにだけなって受容できなかった。
でも、そうじゃない。
これまで生きてきた自分や、怒りをエネルギーにした事や人生は否定しなくていい。
ただ、そうだったよねと、認めるだけ、受け入れるだけでいい。
世の中や他者の不寛容さに対する「自分の不寛容さ」を認められるようになったら、なんだか他者に対しても、以前と比べれば格段に寛容になれる事が増えたんだね。
今でも日常生活において、色んな事にいちいち怒りを覚える「癖」は消えてない。
それは政治的な話とか世界の情勢とか大きな社会のニュースから、車の運転中に遭遇する他者のドライブマナーといった小さな事まで様々。
でも、自身の不寛容さに気付いてからは、怒りは覚えても受容できるよになったような気がする。
まぁ、皮肉なモノで、若い頃はともかく昨今は、社会的マイノリティの声を代弁して「〜でなくてはならない!」と社会変革を訴えるソーシャルアクティビストの方々を目にする時に、その志の尊さにリスペクトを覚える一方で、「社会に寛容さを訴えなければならないのに、共に立ち上がらないなら貴方達も害悪だ!」と、本来なら同士になりうる仲間たちにさえ威圧的な姿を見せてしまっている方々が結構多いことに気づく。
切実な訴えにも関わらず、社会が中々応えてくれないヤキモキさ、ジレンマなども理解できるけれど、多様性を訴えながら、共に声を上げるというアクションに繋がらない方の心情や個性には不寛容な姿、同質性を求めてストレスを感じてる姿をそこに見つける。
これは「寛容でなくてはならない!という不寛容さ」が見せる一例ではあるけど、本来は同士たりえる仲間を敵にしてしまってるような勿体なさや残念さを感じてたりもしてたよね。
でも、そんな感覚を持ちながらも、以前のボクはその姿に自身を含めていなかった。
顧みてなかった。
違うよね。
なんで他人だけがそうだと思ってたんだろうって。
自分だってそうだよねって。
弱みが人それぞれなように、
強みも人それぞれで、
しかも感じ方も捉え方も人それぞれで。
多様性を言葉だけでなく生活の中で意識するようになってしばらく経つけど、多様性を受容できていない社会や他人にばかり目が留まるようになって、嘲笑したり愚痴をこぼしたりするよになって、でも自分には甘々でいた。
変わんないと。
アルコールに酔ったせいか、不意に思って、書き出してしまった。
でもたまにはそんなのもいいか。
このまま消さないで残しておこう。