遺書No.200 惰眠の悦楽。
----------------------------------------
2005.1.22
----------------------------------------
今日は一日中外にいた。寒かった。
新橋と、汐留の2箇所で街頭配布を行っていた。
しかし、寒さからか?
突然急激な眠気に襲われ、
意識朦朧としてしまった。
頭の中では、
名作『北の国から』で吾郎さんが吹雪の中で、
崩れた雪と荷の下敷きになる名シーンが浮かんだ。
…死にそうになり薄れ行く吾郎さんの意識の中で、
石田あゆみ演ずる奥さんが、
『寝ちゃダメ!』と語りかけるシーン。
いや、状況は全く違うのだが。。
そういや以前にも触れたが、
なんでこう睡魔に襲われた時の眠りってのは、
夜の眠りと違ってあそこまで気持ち良いのか?
いわゆる、『惰眠の悦楽』だ。
普通の睡眠ではなく、惰眠。
ここがポイントなんだよね。
普通の睡眠も気持ちいことは気持ちいいのだが、
金メダルとった直後の某北島氏ばりに
『超気持ちィィイイイイイイイイ!!』
と叫びたくなる程の、
惰眠がもたらすソレとはもう一線を画す。
睡眠と惰眠の気持ちよさとは、
もはや比ぶべくもなく、
惰眠が圧倒的に気持ち良いのである。
では、一体何がそこまで両者をわかつのだろうか?
まず、睡眠とは眠る行為の事である。
これは難しくいっても眠る行為である。
それ以外の何物でもなぃ。
一方の惰眠は、
眠るの前に「惰」という字がくっついている。
要するに、普通の眠りを通り越して、
もはや「惰」的に眠る行為をさす。
そのままだけど、そうなのだ。
つまり「惰」的な行為である以上は、
なんらかの『後めたさ』が、
そこに存在するのではなかろうか?
そう考えると、いい感じだよね、
論理的な答えを導き出す事ができたといえやう。
つまりこういう事。
惰眠の本質とは。
てな事を朦朧とした意識の中で考えつつ、
うつらうつらと微睡み(まどろみ)をさまよう。
これがいわゆる『惰眠』である。
もちろん仕事中に寝てしまうのも同様だ。
本来なら、その時点で起床して、
あるい眠気に抵抗し、
成すべき用件があるはずなのに、
それを放棄して眠ってしまう。
つまり、『許されぬ眠り』である。
だからこそ、
それを貪る喜びもまた格別なのではないか?
長くなったが、これが俺なりの惰眠の悦楽の考察である。
まぁ、ダラダラと駄文を並べたけど、
も一つだけついでに思う事がある。
皆さんの中にも経験がある方は多いと思うが、
「あと5分!」と言って惰眠を貪った後に、
あっという間にその5分が過ぎ、
すると再び「あと3分!」などと、
追加で惰眠を貪ってしまう。
挙句の果てに、
さらに追加で惰眠をとったら、
既に取り返しのつかない時間になっている…
・・・そんな経験、ありません?
涙ぐましい程に小刻みに惰眠を貪ろうとする、
あの瞬間。
惰眠と覚醒の間を行ったり来たりしながら、
人は一生の針路よりも一瞬の惰眠に負ける瞬間がある。
キング・オブ・ダミン。
ちなみに、惰眠に負け、
大事な責任を放棄してしまった事を自覚した時、
焦ってその責任を取り返そうとするのでなく、
開き直って
と大胆に割り切った時。
この時の惰眠の悦楽こそ、
この世のものとは思えない程の、
最高に気持ちいい瞬間でもある。
まさに、
キング・オブ・ダミン
といえるだろう。
・・・何とも意志薄弱な生き物だろうか。
そんな人間である事が、まだ救いでもぁる。
「ふっ。おもろいとこあるやんけ。」と、
普段は偽善的で且つ欺瞞と傲慢に満ちた人間が、
言い訳の出来ぬ堕落した姿を見せる瞬間を、
皮肉たっぷりに褒めたくもなる私です。
惰眠て、いいよね。