「意識」と、子どものいじめの世界
お久しぶりの投稿です。
なにか自分的に、とっても閃いた!
という感覚があったので
書いてみたくなりました。
(別に全然大したことじゃない
かもしれないけど笑)
人間の意識、超意識、集合意識、スピリチュアル、
魂の成長、スターシード、
などに
まったく興味のない方には、
チンプンカンプンで
意味不明な内容になるかもしれないので
あらかじめご了承ください。笑
まず大前提として。
人間という生き物について。
私たち、みんな人間、ですよね?
(中には宇宙人もいるかもしれないけど)
人間って、みんな
先祖代々DNAで受け継がれている
情報を持っています。
親、またはその親、
または親戚に顔がソックリだったり、
体格が似ていたり、
得意なこと不得意なことが似ていたり、
食べ物の趣向が似ていたり。
そういうわかりやすい視点で見ると、
「血筋だよねぇ」なんていって、
私たちは連綿と続く、
「続きもの」であるという認識が
自然と生まれます。
ただ、その「続き物」である私たち、
であると同時に、
まったく新しい
スピリット(魂)
としての私、が
みんなの中にいるんです。
まったく先祖親とは関係のない、
まったく新しい魂が、
ポーンと
肉体に入ってきて宿っている。
それが私たちの実体。
実は、そうなんです。
そうらしいです笑
だから人間ってややこしいんですよね。
動物や植物は、もちろん
常に進化成長はしていますが、
もっとシンプルに、
連綿と続いていて、
「個」としてではなく
「全体」として
存在している感覚が大きいです。
人間だけが「個」という
感覚がとても強く、
それを担っているのが、ある意味
魂であり、「意識」です。
「わたしの生きる意味はなんだろう」
「使命とは?」
ということを
どうしても考えてしまう
生き物です。
意識。
「わたし」という意識。
小さい子供は、
生まれたての
赤ちゃんとかはもちろん、
「わたし」という
意識は無い、
といいます。
「わたし」が見ている、
「わたし」が感じている。
ではなくて
ただ、見ている。
ただ、感じている。
ワンネスの感覚。
意識を超えた超意識の状態。
無我、ともいいます。
こどもって、最初は
「僕」とか「わたし」って
言わないんですよね。
みんな
自分のことを認識し始めても
「〇〇くん」とか
「〇〇ちゃん」って
自分のことを呼ぶことが多い。
それはまだ自己意識があいまいだから、
らしいです。
それから、どんどん意識というものが
発達してきます。
目覚めたての意識は、
とても不安定です。
ありとあらゆる
いろんな概念
(✳︎概念とは
考え方。
「これはこういうものだ」
「こうあるべきだ」など)
が
雪崩のように自分の中に
入り込んできて、
あっさりと染まっていきます。
よりこの世界で「安定」するため。
それは、頭より体から
染みていく。
すごくわかりやすいのが
言語です。
母国語というのは、
「当たり前に」
話せるようになります。
無意識に。
自然と。
身についています。
生き物って
みんなコミュニケーションが
全ての土台な気がします。
動物も植物も、粘菌類も、
今は科学的にも、
活発なコミュニケーションを
取っているということが
証明されてきました。
もちろん彼らは
「言葉」以外の
(波動、化学物質、音など)
コミュニケーション手段ですが、
人間は「言葉」を
第一の
コミュニケーションツールとしています。
母国語というのは
「意識」しないで身に付く。
それと同じように、
幼いこどもたちは、
自分の置かれた環境にある
様々な概念を、
「意識」しないで身に付けていきます。
その環境が
「どんな意識」を持っているのか。
環境とはすなわち、
この場合は、
周りにいる人間。
親、祖父母、親戚、園の職員、などなどなど。
一番はやっぱり親、ですよね。
普通は、
親の意識と限りなく同化していきます。
身の安全のためです。
そこで、ポイントとなるのが、
その親が
「どれだけ集合意識と同化しているか」。
集合意識って、要は
意識の集合体(そのまんまや)
より、多くの人が採用している「意識」。
「常識」と
置き換えてもいいのかな。
より大きな集合意識は、
より「安定」しています。
なんというか、
物理的に大きいから
安定感がある、という感じかな。
もちろん、目には見えませんが。
だから
より多くの人に採用されている
概念、常識の中にいると、
安定感抜群なので、
たとえ、それが
自分のものでない
=自分の考えではない
場合でも、なんというか
自信があるんです。安定感抜群だから。
マジョリティの強さ。ですね。
で、こどもたちは、まだ不安定な
自我意識なので、安定を求めて、
より集合意識に染まりやすい状態です。
保育園とか、
本当に小さな子どもの団体でも
「あー○○ちゃん、いけないんだ〜!」
とか、小さな自警団みたいな
ことになりがちですよね。
そう考えると、至極納得、
といいますか。
そしてこれは先祖代々、狩猟採集時代から
「異端児は危険」という認識
がありました。
もともと集団行動というのは、
より「命の安全」を確保するために
取っていた行動だから、
集団を乱すものは
「危険」という本能が
何万年もの歴史の中で
人間にはDNAレベルで備わっている
そうです。
だから、集団に染まらないものは
「危険」であり「排除」すべきだと
本能的に思ってしまうのはある意味、
自然なんだそう。
(この辺は発達障害のことを調べていて
吉濱ツトムさんが言ってたこと)
それで、ここからが本題なんですが
(前置き長っ!)
どの時代にも、
「集団に染まらない」
=「集合意識に取り込まれない」
子供がいました。
魂レベルで、無理なんです。
いわゆるスターシード、
宇宙由来の魂、
と言われています。
ある意味で彼らは、
この世界の常識とか、
固定概念を
覆すために
誕生しているわけですから、
どうあがいても染まれない。
のは当然です。
今、発達障害とか、
HSPとか言われる
子供たちも、みなその可能性が高い、
と言われています。
そこで、提案なのは、
私たちは
当たり前のように
母国語を話すように、
異端を煙たがり、
排除したい気持ちを
持っています。
なんというか、
肌なじみが無いんですよね、
DNAレベルで。
ある意味ではそれは致し方ない。
わたしもそういう感覚が
あるのを認めます。
たとえば
大人になり、
母国語以外の言語を話すことは、
非常に
努力と根気が必要ですよね。
それと同じように、
新しい
価値観をもたらすために
生まれてきた
子供たちを
受け入れるのも
努力と根気が必要なんです。
だから、私たち
大人と言われている
年齢も上にあがり、
子供を育てる立場に
なった人間たちは、
今までの古い集合意識から出て、
また
超意識に戻る旅路の中で、
共に歩いていこうではありませんか!
ってなんの誘いや笑
意識の変遷を
一人の人間で見てみると、
A.超意識として生まれ、
B.自我意識が芽生え、
C.集合意識に飲まれて、
そこからさらに
また
D.超意識へと還る旅。
人生ってそう設計されてて、
死ぬ間際には
だいたいDに
なる人がほとんどなんだけど、
私たちは死ぬ間際、
ではなく
もっと早い段階で
Dに行くこともできる。
それに気づいた、というか。
それと、
子どものいじめってなんで
起こるんだろうなって
ずっと考えていたんです。
特に、
うちの発達凹凸グレーゾーン
の長男くんが
ことごとく
そういう立場に置かれることが
多くて、なんでだろうな、
とずっと考えていて。
ふと、上記のようなことが
思いついたというか
降りてきたというか。
そしてまぁ集合意識
というのは当てにならないものです。
私たち大人にとっても、
まったく意味のないというか、、、
ネガティブなものが多い。
つい最近、ネドじゅんさんという方の
「右脳さん、左脳さん」という本を読んで、
あまりにシンプルに
思考世界のカラクリを解かれていて
本当に感激しました。
ネドじゅんさんがいうところの
左脳さん、というのは
集合意識さんがバックにいる、と
わたしは考えてるんですけれど笑
よりシンプルに、より本質に還る。
大人の役割は、ただそこです。
ネドじゅんさん的には思考を止める。
もちろん、瞑想が最高。
ただ瞑想にもそれなりに
努力とテクニックがいるもので。
ネドじゅんメソッド、と
アクセスバーズがオススメです。
(って宣伝かよ)
長文お付き合いありがとうございました。
感想などもしいただけたら嬉しいです。
また、
もしどなたかに届けたいと
思ってくれたら、シェア
いただけたら嬉しいです。
ありがとうございました。
大大感謝ですm(_ _)m