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【デザイナーのひとりごと188】どうぶつ四十七士から忠臣蔵を学ぶ
ああ・・・本日も終わりましたね。なんだかもう、本当にあっという間だったよ!!色々MTGもあったけどさ!ブワーーーって感じで駆け抜けていったぞ?師走ってこういうことなの!?嫌だ、まだ行かないで、2021年・・・だってなんだか、人生が早いんだもの!!
干支は十二支だけど、どうぶつは四十七士らしい
こちらは、この前彼氏さんが買ってきてくれていたビスケットです。なんだか渋いパッケージですね・・・よく見ると「『たべっ子どうぶつ』のルーツになった素朴な味わい」とあります。
![](https://assets.st-note.com/img/1639058444508-ArwDSGf4hS.jpg?width=1200)
それにしても、「動物四十七士」って全て漢字で書かれると、あんまり子供向けのお菓子っていう感じはしないですね。これは大人のいるファミリー向けにデザインされたパッケージなのでしょう。公式サイトには以下のようにあります。
ボリュームたっぷり!たべっ子シリーズの元祖とも言えるビスケットです。
おいしく食べながら47種類の動物の名前を英語で学びましょう。
http://www.ginbis.co.jp/product/81001.html
きっと、おうちでは父母・祖父母・伯父伯母のような立ち位置の方が買っておいて、子供にいろんなどうぶつを見せながら教えるのでしょう、それぞれの英語の名前を・・・。それにしてもなんで四十七士なのでしょうね?
四十七士とは
そもそもで、四十七士のことに詳しくない私です。ちょっと調べてみたところ、この記事は分かりやすそうです!
師走といえば、風物詩の一つが「忠臣蔵」。以前は芝居や映画、テレビドラマでよく目にしたが、最近は「忠臣蔵って何?」という人も少なくない。ひと言でいえば仇討ち事件で、江戸時代の元禄15年(1703)12月14日にクライマックスを迎える元禄赤穂(あこう)事件のこと。「赤穂浪士の吉良(きら)邸討ち入り」である。
「仮名手本」とは、寺小屋などで用いた、ひらがな47文字の習字の手本のこと。47文字を赤穂四十七士にかけている。また、時代設定を室町時代にし、登場人物の名前もすべて実名を用いず、「仮名」にしたことも意味しているという。なにしろ初演時は、実際の赤穂事件から50年も経っていないので、幕府の目が厳しかった。そして「忠臣蔵」は、赤穂浪士の忠誠心を蔵に収めたとも、リーダーの大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の蔵にかけたのだともいう。つまり「仮名手本忠臣蔵」とは、万人が手本とすべき忠臣の物語、という意味なのだ。
https://intojapanwaraku.com/culture/62854/
なるほど・・・師走の風物詩なのですね!それはとってもタイムリーで良いですね!ちょっと詳しく見てみましょう。
「この間の遺恨、覚えたるかっ!(先日来の恨み、覚えているか)」
元禄14年(1701)3月14日午前9時頃。江戸城内の松の廊下に怒声が響き、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり、35歳)が、幕府高家(こうけ)の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ、61歳)に小刀で斬りつけた。
江戸城内で刃傷(にんじょう)沙汰を起こして、ただで済むはずがない。確実に切腹である。
刃傷事件を耳にした徳川5代将軍綱吉(つなよし)は、激怒した。重大な儀式を血で穢(けが)されたと感じたのである。儀式は場所を変え、つつがなく行われたが、綱吉は収まらず、その日の午後4時頃、裁定を下す。すなわち浅野内匠頭は、即日切腹、赤穂藩は取りつぶし。普通であれば切腹は免れないにしても、幕府老中(ろうじゅう)が時間をかけて審議すべき案件だった。しかも内匠頭の切腹は屋敷内でなく、田村屋敷の庭先で行うという。これはさすがに、5万3,000石の大名にふさわしくないと現場でも反対意見が出たが、将軍の意向を受けた老中の命令では逆らえない。一方の吉良は、「場所柄をわきまえ、手向かいをせず、神妙の至り」として、「おかまいなし」となる。
まず、浅野内匠頭長矩という人が色々イライラが募って吉良という偉い人に小刀で斬りつけた事件が起こった。
主君の切腹、お家お取りつぶしという青天の霹靂(へきれき)のような出来事に家臣らは驚愕し、茫然自失となる者、憤(いきどお)る者も少なくなかった。何しろ家臣一同主家を失い、赤穂からも追われ、家族とともに路頭に迷うことになるのである。
それがきっかけでお家が取り潰しに。
大石はあくまで「喧嘩両成敗」にこだわり、吉良の処分を行った上で(内匠頭よりはるかに軽いが)、浅野家が再興されることを望んだのである。大石はお家再興のための嘆願を、翌年の7月まで、1年余り続けた。
元禄15年7月、大きな転機が訪れる。閉門中の浅野大学に対する幕府の処分が決まり、広島の浅野本家にお預けとなったのだ。つまり、大石が懸命に進め、家臣たちが待ち望んでいた浅野家再興の夢は、潰(つい)えたのである。さすがの大石も、知らせを受けた時には顔色を失ったという。
筆頭家老の大石さんは、お家再興のために奔走するも、失敗に終わる。
このままでは亡き主君と赤穂浅野の者の面目が立たないことを強調して、「かくなる上は、江戸に赴き、吉良上野介の首を申し受けねばなるまい。ご一同の存念を承りたい」と諮(はか)った。
そして、討ち入りは無事に成功。
討ち入りを終えた赤穂浪士は、浅野内匠頭の眠る泉岳寺に赴き、墓前に本懐を遂げたことを報告。また吉田忠左衛門らは幕府大目付の屋敷に寄り、討ち入りの顛末と、われらは逃げ隠れせず、ご公儀の沙汰を待つと伝えている。大目付から将軍に討ち入りが報告されると、意外にも将軍綱吉は「あっぱれな者ども」とその忠義に感動したという。もとはといえば、綱吉自身の一方的な裁定から、この事件は起きたのだ。
大石内蔵助以下赤穂浪士46人は、元禄16年(1703)2月4日に、それぞれ預けられた屋敷で全員切腹。こうして事件は幕を閉じた。
なるほど・・・こういう内容だったのですね、知らなかったです。理不尽な扱いに対して怒りをずっと忘れず持ち続け、何年も屈辱に耐え、最終的には目的を果たすことができた赤穂浪士の忠義、チームワーク、芯の強さは確かに惹かれるものがありますね。全ての元凶でもあるはずの将軍まで感動させてしまうなんて。
そんな名誉ある四十七士になぞらえたビスケット?なのかどうかは分かりませんが・・・そんな江戸時代の武家の魂を感じながら、今日も仕事を終えたいと思います。それではまた明日!
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📅現役デザイナーが今まで経験したクリエイティブなことを記事にする試み(毎日更新)