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時刻は18時。1日の中で、最も好きな時間だ。ベッドから起き上がり、病室を出て、面会所まで歩く。おっと、紙コップを忘れずに。面会所では無料で温かいお茶が飲めるから。

11階建ての病院の最上階。大きな窓の外には、博多湾が広がっている。どこか温もりを感じる優しく光る夕陽が波打つ海面に反射する様子は、まるで絵の具が溶け出しているよう。キラキラ光っている。海の先には故郷の街が見える。お茶を飲みながらほっと一息。私は、海が好きだ。

小学2年生のとき、海がとても近い街に引っ越した。この日から、海は日常になった。少し鼻につく磯の香りも、暴風の日に口の中が砂利っぽくなるのも、春の味噌汁の具がアサリになるのも、花火の場所探しに困らなくなったのも、日常になった。

小さな家出をするときは、必ず石を投げに行った。好きなサッカー漫画のキャラクターが、砂浜で練習していたので真似をした。100円を握りしめて釣具屋さんに行き、幼虫を買って友達と釣りをした。キスがよく釣れた。午前0時のハッピーニューイヤーを海に飛び込むことで迎えたこともある。恋人ができたら少し綺麗な海辺を歩いた。悲しい時は、YUIを聴きながら夜景を眺めた。

高校時代、海上保安官になりたかった時期があった。親友が警察を目指していることを知り、「だったら俺は海が好きだから」という浅はかな理由だった。オープンキャンパスで父に連れて行ってもらった広島県呉市。元軍港で、戦艦大和が製造されたこの街は、海上自衛隊をヤクザと見間違えるほど殺伐としていて、時間が止まっていて、カッコよかった。部活でアキレス腱を断裂したことを機に進路を変えたけど、父と過ごしたノスタルジックな時間は、現地で触れた風の感覚と共に覚えている。

海が好きだ。水平線のその先に、私が到底知り得ないような世界があることを教えてくれる。同時に、波打ち際は全てを知ることはできない境界線として、私に限界を教えてくれる。優しさを持って、お前なんてちっぽけな人間だよと伝えてくれる。

大好きな旅行記「深夜特急」のとあるワンシーン。青く澄んだ地中海を眺めた主人公は「これはひどいじゃないですか」と言い放つ。

ただ単に海の色が美しかったからではない。これほどまで自然が柔順に人間に奉仕しているということが、何か許しがたいことのように思えたのだ。

沢木耕太郎

そういえば、2年前に行ったヨーロッパでは地中海を見ることはできなかった。彼がそこまで皮肉的な表現を使ってしまった海を、いつか見てみたいと思う。

生きて、また元気な身体で、優しい海風を浴びながら、たくさん泣きたい。

これが、今の私のささやかな夢です。

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