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私のことが分からなくても、10年ぶりにおばあちゃんに会いに行くよ

こんばんわ、なつきです。

母方の祖母は90歳を少し過ぎています。
8年ほど前から認知症を発症しました。
今は、新幹線と特急を乗り継いで半日かかる場所にある特養に入居しています。

最後におばあちゃんに会ったのは10年前のいとこの結婚式です。
杖をつかずに歩くことはできていたけど、宿泊した旅館の廊下を少し歩くと息切れがひどかった。いつもにこにこしていて、庭で育てている豆の話をしたのを覚えています。

おばあちゃんの認知症が進んでいった様子を振り返り、会いに行くぞを想いを固めたことを綴ります。


冷蔵庫に牛乳がいっぱい

物忘れの症状が少しずつひどくなっているようだ、と母から話を聞いたのは長男を産んだあとだったと記憶しています。

長男の年齢から逆算して8年ほど前だと思う。

当時は徳川家康さんの出身地である地域の、海辺にある一軒家に一人で住んでいました。

母の兄が定期的に様子を見に行っていましたが、「冷蔵庫に飲み切れないほどの牛乳パックがたくさん入っている」という様子が知らされます。

最初の頃は食べものの買い込みでしたが、次第に症状は進行していき、デイサービスで「靴を盗られた」と誰かが自分の持ち物を盗んでいくという訴えが始まりました。

お金を盗まれる!と大騒ぎになる

デイサービスでの物盗られの訴えから、そう期間を空けずに物を盗られたという訴えの内容はエスカレートしていきます。

母の兄(おじさん)から預かった現金を、自分でどこに仕舞ったか分からなくなったことも、分からなくなり「お金が盗まれた!」と大騒ぎになりました。

おばあちゃんの弟や母の兄、近所の警察を巻き込んで大きな出来事になったようです。

次男が産まれる前にはおばあちゃんは一人暮らしが難しいと判断され、母の兄のある東の方へ引っ越すことなりました。

おじさんの家で過ごす

住む場所が変わることで、認知症の症状の悪化する可能性があることを私は心配しましたが、それは必要ありませんでした。

おじさんの家には、面倒見のよいおばさんがいて、おじさんには2人の娘がおり、娘たちにはすでに小さな子どもたちがいました。

娘たち(わたしの従妹たち)は同居していたわけではありませんが、車で行き来できる距離に住んでいて、おばあちゃんは息子と孫娘たちとひ孫に囲まれて、見るからに楽しそうに生活していました。

身の回りのことができなくなっていった

私はおばあちゃんの介護のグループラインに登録されていて、グループ以外にも個別でちょっとした相談を受けることもありました。

トイレの失敗が増えた
熱が出たがかかりつけ医と認知症の専門医との間でどう動けばいいか分からない
移動が難しくなった

相談といっても本当に数える程度で、遠くに住んでいる私はおばあちゃんが生きていくのにほとんど役に立っていません。

作業療法士で、毎日のように認知症のある高齢者と関わっているにも関わらず、年を重ね、認知症を患い、少しずつできることが減っていくおばあちゃんに、私は何もしてあげられませんでした。

私が今できることは?

私が今できること、それはおばあちゃんに会いに行くことです

コロナ禍は叶わなかった遠方への移動が自由にできるようになっても、私はすぐにおばあちゃんに会いに行こうという発想になりませんでした。

片道半日かかる場所にいるおばあちゃんに会うには、おそらく泊りがけになるだろうと思います。

きっとおばあちゃんは私のことが分からない。
カレンダーを眺めていると、じゃあこの日に行く!とすぐに決められそうにない。
せめて春が来るまでにとは思うけど、いつ何が起こるか分からないおばあちゃんに会うにはのんびりしすぎているのも分かっている。

それでも、おばあちゃんに会いに行こうと私は決意を固めています。

あなたに今、会いたい人はいますか?

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