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お釈迦様とマブダチになれたかもしれない

先日、義母(夫の母親)の七回忌法要があった。
一周忌はお墓のある金沢で親戚と共に執り行ったが、三回忌からは東京の自宅へお坊さんを招き、夫婦のみでお経を上げてもらっている。

法事というのは宗派によって多少違いはあるものの、まずお経をあげてお焼香をし、最後にお坊さんから説法を聞くという流れ。

さて今回いらっしゃったお坊さん。
説法がめちゃくちゃ面白く、かつ納得感が凄かったので記しておきたい。



お葬式代より手続き優先

夫の家には菩提寺が無い。
菩提寺が無いということは、法事の際のお坊さんの手配も自分でしなければならないということだ。

義母が亡くなった際には葬儀屋さんにお願いしたが、夫が自分の家の宗派が分からないという問題が発生。
金沢中の親戚に訊いて回ったり仏壇に置いてある仏具から推理したりしてめちゃくちゃ大変だった。

大変ついでにみなさんに是非お願いしたいのが「本籍地を現住所に移しておくこと」である。
義父(夫の父親)が転勤族だったことから義母は転居を繰り返しており、本籍地が何故か名古屋になっていた。
なんで名古屋…。

私達は新幹線に乗り、日帰りで縁もゆかりも無い名古屋まで書類を取りに行く羽目になった。
みなさんも死ぬ前にちゃんと本籍地を現住所に移しておくようお願いします
お葬式代なんか残さなくて良いんで、そこだけお願いしますね!!



お坊さんのUber

さて自分でお坊さんを探して自宅に呼ぶ方法だが、私は「お坊さん便」を利用している。

簡単に言うとお坊さんのUber。
日時の希望と宗派をサイトに入力して注文するとお坊さんを派遣してくれるのだ。
詳しいシステムは分からないが多分こんな感じ。

「◯月✕日にここの地区に行ける日蓮宗のお坊さん居ますー?」
「自分行けます」
「じゃあ距離計算で今回は43,000円でよろしくでーす」

決定したらお坊さん御本人から電話があるので安心できる。
前もって「お坊さん便」から金額の提示があるので、当日は現金を封筒に入れてお坊さんに直接渡すだけ。
明朗会計。

というわけで今回も派遣をお願いしたのだが、なんか凄い人が来た



夫は大谷派

苦労の末、夫の家は浄土真宗大谷派だということが判明している。
しかし多くの日本人がそうであるように、私も夫も宗派には全く思い入れがない。
寺社関係者なら別だが、一般人で「私は天台宗です!」などと名乗る人は少ないんじゃないかと思う。

「とりあえずご先祖様のしきたりにならっとこ」的なゆるふわ感満載で浄土真宗大谷派のお坊さんを呼んでいるだけなのだ。
ちなみに夫は「俺は大谷翔平派だからもう宗派忘れずに済む」などと言っている。
良い時代に生まれたね。

当日やってきたお坊さんは御年70歳。
「最近トイレが近いんでお茶は遠慮しておきます」などと仰ってはいたが、非常に矍鑠かくしゃくとした御仁である。

流れに則って法要が滞り無く進み、最後にお坊さんは私達に向き直った。

「ではこれから少しお話をさせて頂きます。私は口から生まれたような坊主で、止められなければいつまでも話し続けましてね。でも今回はちょうどこの位置から時計が見えますので10分を目処にお話致しますが、長かったら遠慮無く止めてくださいね」

こやつ、出来る…!



「人は何故死ぬのか」に対する明確な答え

仏教はお釈迦様が開祖となっている。
釈迦とは実在した人物で、小国の王子として生まれたものの突然出家して悟りを得たカリスマだ。
と言ってもイエス・キリストのように水をワインに変えるような奇跡を起こしたわけではない。
ただ言葉にめちゃくちゃ説得力がある人だったようで。

何十世紀も経た現代において、仏教は大まかに6宗派に分かれている。
基本的にはそれぞれがお釈迦様の教えに沿ったものだ。
しかし「お釈迦様の言葉」とされているものが、解釈によっては全く違う意味を持ったりもする。
だから宗派が枝分かれしたのだ。

さて日本で一番多い宗派とされている浄土真宗。
この教義について私は全く知らなかったが、お坊さんはこんな話をしてくれた。


ある日お釈迦様は弟子から「人は死んだらどうなりますか?」と尋ねられました。
お釈迦様は普段明朗に答えを返してくれる人ですが、その問いには無言を貫いたのです。
何故ならお釈迦様は死んだことがないから。
経験していないことを想像で話すことは不誠実だからです。

よく「死んだ後にも魂は残る」なんて言いますが、少なくとも浄土真宗は「死んだ後には何も残らない」という考えです。
何も持たず生まれ、何も持たずに死んでいく。
残るとしたら、それは遺された人の中の思い出でしょう。

人は生まれた瞬間から死に向かって歩いています。
「人は何故死ぬのか」と問われれば、それは「生まれたから」です。
生まれなければ死もありません。
だから死の病に罹っても神仏に延命を請うてはいけない。
越し方を悔やむのは自由ですが、しかし死を受け入れなければならないのです。

私は驚いた。
この話に新鮮味を感じたからでは無い。
私の人生哲学とほぼ一緒だったからだ。



お釈迦様とマブダチになれそう

「仏教にも色々ありますが、わたくし共は『神様へのお願い事』なんて意味が無いと考えています。人はいつか死ぬからこそ、自分の力で日々を丁寧に過ごすのです。死ぬのが分かっているから、毎日をしっかり生き切ることが大切だと考えています」

まさにその通りだ、と私も考えている。
断っておくが私はこの教義を全く知らなかったし、ましてや自分を浄土真宗信者だなんて思っていない。
だから初詣に行ってお祈りしたり、時には「神様お願いします!」なんて都合良く願ったりもする。

でも、お坊さんから聞いたお釈迦様の話とほぼ同じ考えなのだ。
「丁寧な暮らし」では無く「刹那的な暮らし」というところは違うけれども。

もしもお釈迦様に出会っていたら。
「え、めっちゃ同じですー!今度一緒にご飯行きませんか?」と、あわよくば一発狙っていただろうなぁと思う今日この頃。

余談だがお釈迦様は結婚して子供も作っているから、俗世にも寛容なはず


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